日本の沿岸に敷かれた鉄道路線を一筆書きのように乗り継いで春の日本の沿線風景を愛でるのが今回の旅だが、枕崎線のような行き止まり線に乗るのは例外で、これは途中に日本最南端の駅があることと、廃線の話も出ているので今の内に乗っておこうと往復した。
【写真−1 寄席文字と同様日本の文化が生んだ字体】
『枕崎駅』には色々と自慢のキャッチフレーズがあちらこちらに掲げられているが、やはり一番貫禄があったのは写真−1の『枕崎駅』と木の板に縦に書かれた物で、こういうのを『墨痕鮮やか』というのであろう。
揮毫したのは2022(令和3)年に73歳で亡くなった、相撲の行司の最高位である立行司『36代 木村庄之助』で、庄之助は枕崎中学校を卒業後に相撲界へ入り、2008(平成20)年に立行司となったが、独特の字体で知られる相撲番付の書き手を長らく務め、この看板は新駅舎開業の2013(平成25)年に相撲文字で書かれている。
【写真−2 これだけ有名な駅でも無人駅で乗車券は車内で購入】
写真−2は『枕崎駅』の駅前広場から見た駅とホームの様子で、駅とホームが上がった土地に造られているのが分かるが、昔の写真を見ると駅前広場と同じ高さに線路が走っていて、2006(平成18)年に駅前再開発事業が行われた際に嵩上げされた。
その時の再開発で駅自体が元の駅舎から100mほど移動して現在地に造られ、元の駅舎跡には大きなスーパーマーケットが営業していて、かつての『枕崎駅』は鹿児島本線の『伊集院駅』へ繋がる私鉄の『南薩線』(1984(昭和59)年廃線)が乗り入れていて、その当時はかなり広い構内であったことが分かる。
【写真−3 駅前整備事業でホテル前の道も新しくなっている】
写真−3の白い建物が本日宿泊するホテルで、人口1万8000人を超えた程度の小さな市としては外観は結構瀟洒な印象を与え、ステーションホテルと名乗っているように駅のホームから建物が見える近さにある。
東京を立って2泊目に『紀伊田辺駅』のステーションホテルに泊まり、これが2回目のステーションホテル泊になるが、田辺の方は駅に隣接しているのは良かったが、普通のビルを宿泊施設にした古いビルで、こちらの方は新しく安心は出来る。
【写真−4 港の匂いを嗅ぎに来た】
ホテルの部屋に荷物を置いてから、夕闇が迫っている中を枕崎港に向かって歩くが、道は広く整備され、時間帯もあってか店も閉めた所が多く舗道上を歩く人も見えず、車だけがやたらに行き交う地方都市の黄昏時は侘しく感じる。
道なりに歩いて交差点の向こうに現れたのが写真−4の光景で、既に帳は落ちていて街灯や建物の灯りだけが光り、その分動きを止めたかなり大きな枕崎港の静けさが目立った。
枕崎港は東シナ海に開けた港で、魚の水揚げ量は日本有数で特に鰹の一本釣りは知られ、鰹節生産量日本一の工場があり、枕崎漁業組合が日本で唯一の漁獲、製造、販売を一貫する自慢する様に水産業で生きる街だが、やはり森進一が歌う『港町ブルース』の歌詞に唄われた印象が強い。
【写真−5 漁港にしてはかなり静かな眠ったような雰囲気】
港には『お魚センター』という観光客向けに地場の魚の販売と食べられる場所があって、そこで名物の鰹を食べたいと思ったが、もう時間的に無理で写真−5の東シナ海に沈む夕陽を眺めるだけで終わった。
ホテルに戻り今晩の夕食をどうしようかと再び外へ出るが、地方の夜は早くかつて駅舎のあった跡地に建てられたスーパーへ行って夕食に食べる物を探すが、翌日の車内で口にする軽い物を買っただけで終わった。
【写真−6 駅に近いのが利点のホテル】
駅前を歩いていると鰹料理を出す店があったので、そこで鰹料理セットを食べるが、時期的にその日に水揚げした生の鰹ではなく冷凍物を捌いた鰹が出て来て、別に枕崎で食べなきゃいけない鰹でもなく、今年最初の鰹の刺身は期待外れであった。
写真−6は泊まったホテルの室内の様子で、写真を見てベッドの長さより少し幅の狭い部屋と気が付いたが、まだ新しくただ寝るだけの旅行ではこれで充分で、それでもこういう魚の豊富な街に泊まるなら少し贅沢をして料理付きの旅館にすれば良かったかなと思った。
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【写真−1 同駅は当初山口線の駅として開業した】
『益田駅』は山陰本線と山口線の2線が乗り入れていて、写真−1は山口線の列車が離発着する1番線ホームにある駅名表示板で、左側は山陰本線の松江方面『岩見津田駅』、右側上部は山口線の最初の駅『本俣賀駅』、その下が山陰本線萩方面の『戸田小浜駅』。
山口線は山口県の瀬戸内海側から日本海側の島根県を繋ぎ、『益田駅』から山陽本線『新山口駅』間の28駅、93.9キロの単線非電化路線で、途中には山陰の小京都と呼ばれる『津和野駅』や県庁所在地の『山口駅』を経由する。
山口線を有名にしているのは『新山口駅』−『津和野駅』間を走らせる蒸気機関車『SLやまぐち号』で、牽引しているSLは1937(昭和12)年製造の『C−57』1号機で、戦争や脱線などを経て復活した。
同SL列車は各地で走らせている観光用SL列車の草分けで、1979(昭和54)年から運行しているが、古いSLを使用しているために故障や点検による休止も多く、その時はディーゼル機関車が牽引している。
【写真−2 停まっているのは明朝折り返す『山口駅』行き】
改札口のある側のホームが写真−1の1番線ホームで、停まっているのは『山口駅』18:12発の『益田駅』着20:16の各駅停車列車で、到着したばかりなのでまだ車内には灯りが点いているが山口方面からの最終便になる。
100年前に『益田駅』が開業した当時は山口線の駅であったことがこれで分かるが、『益田駅』−『新山口駅』間を通して走る各駅停車列車は運行していなくて『山口駅』で乗り換える必要があり、『益田駅』発『山口駅』行き最終便は19:20発で既に出ている。
【写真−3 駅の入り口方面から改札口を見る】
『益田駅』は直営駅なので夜間でも駅員が常駐しているはずだが、写真−3で分かるように改札口付近にはひと気はなく、改札口の向こう側には山陰本線『益田駅』21:38発『浜田駅』行き最終便が停まっている。
山陰本線『浜田駅』発21:41が22:28に『益田駅』に入って来るのが最終便になり、これを最後に駅の業務は終わって駅舎の入り口は閉められ、かつての夜行列車が運行されていた時代の駅が24時間開いていた時代は遥か昔の話になった。
【写真−4 夜遅い到着なのでホテルが近くて良かった】
写真−4は左側に『益田駅』、その向こうに見えるビルが本日泊まるホテルで、2006(平成18)年に駅前再開発事業が行われ、ホテルのある場所には市の事務所、商業店舗とマンションの複合ビル棟とホテル棟が建つ。
このホテルは山陰地方で展開しているホテルチェーンで、島根県には写真の益田市と出雲市の2軒、他に鳥取県鳥取市、広島県東広島市、兵庫県豊岡市でそれぞれ1軒を営業している。
【写真−5 明日は始発に乗るから部屋の滞在時間は僅か】
同ホテルは夜8時過ぎのチェックインであったが、大分県佐伯市で泊まったホテルのチェックインが夜10時近かったからまだ早い方で、こういう遅いチェックインになると分かっていたので極力駅に近い駅を予約した。
写真−5がホテルの部屋の様子で右手のカーテンを上げると駅前広場と『益田駅』を見下ろし、部屋の仕様は他のビジネスホテルとあまり変わらないが、茶系の色で統一されて落ち着きがあり、ロビーなどもデザイナーが関わっていると思わせる品の良い造りになっている。
【写真−6 温泉の素を溶かし込んで温まるのがせいぜいの楽しみ】
同ホテルのバスルームが写真−6で、ビジネスホテル共通のユニットバスで良くも悪くもない仕様と設備だが、同ホテルの特徴は宿泊客用の図書スペースや無料のマッサージ器、夜食に無料ラーメン提供と他のビジネスホテルチェーンとは一味違っていて、また泊まりたいと思わせた。
駅の周りにはこれといった食べる場所はなく、結局近くのコンビニへ行って日本では当たり前でもセブでは珍しいインスタント焼きそばを買って食べたが、夜遅く到着し次の日に早立ちする旅行だと外に出て時間を過ごすのも億劫になるから仕方がない。
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【写真−1 同駅は当初山口線の駅として開業した】
『益田駅』は山陰本線と山口線の2線が乗り入れていて、写真−1は山口線の列車が離発着する1番線ホームにある駅名表示板で、左側は山陰本線の松江方面『岩見津田駅』、右側上部は山口線の最初の駅『本俣賀駅』、その下が山陰本線萩方面の『戸田小浜駅』。
山口線は山口県の瀬戸内海側から日本海側の島根県を繋ぎ、『益田駅』から山陽本線『新山口駅』間の28駅、93.9キロの単線非電化路線で、途中には山陰の小京都と呼ばれる『津和野駅』や県庁所在地の『山口駅』を経由する。
山口線を有名にしているのは『新山口駅』−『津和野駅』間を走らせる蒸気機関車『SLやまぐち号』で、牽引しているSLは1937(昭和12)年製造の『C−57』1号機で、戦争や脱線などを経て復活した。
同SL列車は各地で走らせている観光用SL列車の草分けで、1979(昭和54)年から運行しているが、古いSLを使用しているために故障や点検による休止も多く、その時はディーゼル機関車が牽引している。
【写真−2 停まっているのは明朝折り返す『山口駅』行き】
改札口のある側のホームが写真−1の1番線ホームで、停まっているのは『山口駅』18:12発の『益田駅』着20:16の各駅停車列車で、到着したばかりなのでまだ車内には灯りが点いているが山口方面からの最終便になる。
100年前に『益田駅』が開業した当時は山口線の駅であったことがこれで分かるが、『益田駅』−『新山口駅』間を通して走る各駅停車列車は運行していなくて『山口駅』で乗り換える必要があり、『益田駅』発『山口駅』行き最終便は19:20発で既に出ている。
【写真−3 駅の入り口方面から改札口を見る】
『益田駅』は直営駅なので夜間でも駅員が常駐しているはずだが、写真−3で分かるように改札口付近にはひと気はなく、改札口の向こう側には山陰本線『益田駅』21:38発『浜田駅』行き最終便が停まっている。
山陰本線『浜田駅』発21:41が22:28に『益田駅』に入って来るのが最終便になり、これを最後に駅の業務は終わって駅舎の入り口は閉められ、かつての夜行列車が運行されていた時代の駅が24時間開いていた時代は遥か昔の話になった。
【写真−4 夜遅い到着なのでホテルが近くて良かった】
写真−4は左側に『益田駅』、その向こうに見えるビルが本日泊まるホテルで、2006(平成18)年に駅前再開発事業が行われ、ホテルのある場所には市の事務所、商業店舗とマンションの複合ビル棟とホテル棟が建つ。
このホテルは山陰地方で展開しているホテルチェーンで、島根県には写真の益田市と出雲市の2軒、他に鳥取県鳥取市、広島県東広島市、兵庫県豊岡市でそれぞれ1軒を営業している。
【写真−5 明日は始発に乗るから部屋の滞在時間は僅か】
同ホテルは夜8時過ぎのチェックインであったが、大分県佐伯市で泊まったホテルのチェックインが夜10時近かったからまだ早い方で、こういう遅いチェックインになると分かっていたので極力駅に近い駅を予約した。
写真−5がホテルの部屋の様子で右手のカーテンを上げると駅前広場と『益田駅』を見下ろし、部屋の仕様は他のビジネスホテルとあまり変わらないが、茶系の色で統一されて落ち着きがあり、ロビーなどもデザイナーが関わっていると思わせる品の良い造りになっている。
【写真−6 温泉の素を溶かし込んで温まるのがせいぜいの楽しみ】
同ホテルのバスルームが写真−6で、ビジネスホテル共通のユニットバスで良くも悪くもない仕様と設備だが、同ホテルの特徴は宿泊客用の図書スペースや無料のマッサージ器、夜食に無料ラーメン提供と他のビジネスホテルチェーンとは一味違っていて、また泊まりたいと思わせた。
駅の周りにはこれといった食べる場所はなく、結局近くのコンビニへ行って日本では当たり前でもセブでは珍しいインスタント焼きそばを買って食べたが、夜遅く到着し次の日に早立ちする旅行だと外に出て時間を過ごすのも億劫になるから仕方がない。
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日本の沿岸に敷かれた鉄道路線を一筆書きのように乗り継いで春の日本の沿線風景を愛でるのが今回の旅だが、枕崎線のような行き止まり線に乗るのは例外で、これは途中に日本最南端の駅があることと、廃線の話も出ているので今の内に乗っておこうと往復した。
【写真−1 寄席文字と同様日本の文化が生んだ字体】
『枕崎駅』には色々と自慢のキャッチフレーズがあちらこちらに掲げられているが、やはり一番貫禄があったのは写真−1の『枕崎駅』と木の板に縦に書かれた物で、こういうのを『墨痕鮮やか』というのであろう。
揮毫したのは2022(令和3)年に73歳で亡くなった、相撲の行司の最高位である立行司『36代 木村庄之助』で、庄之助は枕崎中学校を卒業後に相撲界へ入り、2008(平成20)年に立行司となったが、独特の字体で知られる相撲番付の書き手を長らく務め、この看板は新駅舎開業の2013(平成25)年に相撲文字で書かれている。
【写真−2 これだけ有名な駅でも無人駅で乗車券は車内で購入】
写真−2は『枕崎駅』の駅前広場から見た駅とホームの様子で、駅とホームが上がった土地に造られているのが分かるが、昔の写真を見ると駅前広場と同じ高さに線路が走っていて、2006(平成18)年に駅前再開発事業が行われた際に嵩上げされた。
その時の再開発で駅自体が元の駅舎から100mほど移動して現在地に造られ、元の駅舎跡には大きなスーパーマーケットが営業していて、かつての『枕崎駅』は鹿児島本線の『伊集院駅』へ繋がる私鉄の『南薩線』(1984(昭和59)年廃線)が乗り入れていて、その当時はかなり広い構内であったことが分かる。
【写真−3 駅前整備事業でホテル前の道も新しくなっている】
写真−3の白い建物が本日宿泊するホテルで、人口1万8000人を超えた程度の小さな市としては外観は結構瀟洒な印象を与え、ステーションホテルと名乗っているように駅のホームから建物が見える近さにある。
東京を立って2泊目に『紀伊田辺駅』のステーションホテルに泊まり、これが2回目のステーションホテル泊になるが、田辺の方は駅に隣接しているのは良かったが、普通のビルを宿泊施設にした古いビルで、こちらの方は新しく安心は出来る。
【写真−4 港の匂いを嗅ぎに来た】
ホテルの部屋に荷物を置いてから、夕闇が迫っている中を枕崎港に向かって歩くが、道は広く整備され、時間帯もあってか店も閉めた所が多く舗道上を歩く人も見えず、車だけがやたらに行き交う地方都市の黄昏時は侘しく感じる。
道なりに歩いて交差点の向こうに現れたのが写真−4の光景で、既に帳は落ちていて街灯や建物の灯りだけが光り、その分動きを止めたかなり大きな枕崎港の静けさが目立った。
枕崎港は東シナ海に開けた港で、魚の水揚げ量は日本有数で特に鰹の一本釣りは知られ、鰹節生産量日本一の工場があり、枕崎漁業組合が日本で唯一の漁獲、製造、販売を一貫する自慢する様に水産業で生きる街だが、やはり森進一が歌う『港町ブルース』の歌詞に唄われた印象が強い。
【写真−5 漁港にしてはかなり静かな眠ったような雰囲気】
港には『お魚センター』という観光客向けに地場の魚の販売と食べられる場所があって、そこで名物の鰹を食べたいと思ったが、もう時間的に無理で写真−5の東シナ海に沈む夕陽を眺めるだけで終わった。
ホテルに戻り今晩の夕食をどうしようかと再び外へ出るが、地方の夜は早くかつて駅舎のあった跡地に建てられたスーパーへ行って夕食に食べる物を探すが、翌日の車内で口にする軽い物を買っただけで終わった。
【写真−6 駅に近いのが利点のホテル】
駅前を歩いていると鰹料理を出す店があったので、そこで鰹料理セットを食べるが、時期的にその日に水揚げした生の鰹ではなく冷凍物を捌いた鰹が出て来て、別に枕崎で食べなきゃいけない鰹でもなく、今年最初の鰹の刺身は期待外れであった。
写真−6は泊まったホテルの室内の様子で、写真を見てベッドの長さより少し幅の狭い部屋と気が付いたが、まだ新しくただ寝るだけの旅行ではこれで充分で、それでもこういう魚の豊富な街に泊まるなら少し贅沢をして料理付きの旅館にすれば良かったかなと思った。
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無事福島から帰ってきました。会津若松の鶴ヶ城や郡山のイルミネーション&ポケモンのラッキー良かったです。ソースカツ丼や喜多方ラーメンやこづゆやいかにんじんなどの福島名物も味わえました。お写真は順次Instagramで公開しています。
885系が宮崎県に乗り入れました。普段宮崎に来ない885系は物珍しさを感じています。(ぉぃ)
山形新幹線新型E8系と「やくも」新型273系が運転を開始します。新しい列車に期待大です。(ぉぃ)
福島行ったときに郡山駅近くのドーミーインに宿泊しました。
そのドーミーインは大浴場やサウナやご当地グルメも楽しめる朝食バイキングなど充実したサービスで人気を集めているホテルですが、ドーミーインの名物といえば夜21時30分以降に出されるミニサイズの醤油ラーメン「夜鳴きそば」だと思います。
今日はその「夜鳴きそば」について書きます。
ドーミーインを運営している共立メンテナンスグループはもともと学生寮を運営している会社でしたが、バブル崩壊による企業の福利厚生施設仕分けや学生寮の一泊需要に応えて1993(平成5)年からホテル事業に参入し、埼玉県草加市にビジネスホテル「ドーミーイン」1号店を、長野県軽井沢町にリゾートホテル1号店をオープンし、その後全国に広まっています。
そのドーミーインと共立グループのリゾートホテルでは、夜食サービスとして「夜鳴きそば」というミニ醤油ラーメンを提供していて、大好評です。
私はドーミーインは2014(平成26)年に長崎で、2017(平成29)年に金沢で、そして2023(令和5)年に福島県郡山で宿泊し、いずれも夜鳴きそばを食べました。もちろん大浴場と朝食バイキングも良かったです。
その夜鳴きそばはあっさりした醤油味のスープに麺と青海苔などの具が入ったシンプルなラーメンで、宿泊者は無料で食べることができます。
また、おかわりもできるほか、テイクアウト用のカップ麺も用意されています。過去にはチャーシューが載っていたこともあったそうです。
ドーミーインだけでなく共立系のリゾートホテルでも提供されています。
皆さんもドーミーイン名物の夜鳴きそば知ってほしいです。
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弊社のある愛知県ではあまり強くは感じませんが東京や大阪へ行くと海外からの旅行者が本当に増えているなと感じますね
今回はそんなインバウンド需要にピッタリのベッドをご紹介させていただきます。
画像のベッドはボトムベッドにヘッドボードを直接取り付けた仕様となっております。
通常ホテル様などに導入させていただいているベッドはヘッドボードとボトムベッドが分離しており、
メイキングがし易くなっているのですが、ヘッドボードを建物の壁に直接固定しなければならないという問題もございます。
そこで今回のような仕様にすると建物への工事は一切不要となり、以後の改装やベッドの入替え、レイアウト変更が非常に用意になります。
もちろん底面にはベッドの移動が容易なキャスターを取り付けてありますのでお掃除もし易いです。
ベッド本体は布張りで柔らかい仕上げとなっておりますので足をぶつけて痛い、なんてこともございません。
メイキングのし易さでは若干デメリットもございますが、民泊や簡易宿泊所、ホステルなどではメリットも多いのではないでしょうか?
ご興味を持たれた方は是非ともご一報いただけましたら幸いでございます。
是非ともよろしくお願い申し上げます。
↓↓↓↓
友澤木工株式会社
本社・ショールーム
愛知県刈谷市野田町新田23番地
TEL0566(21)3330/FAX0566(23)9717
営業部 浅野倫生
E-mail:t_asano@tomozawa.co.jp
メインHP http://www.tomozawa.co.jp
コントラクト向けHP https://tomozawabed.com/go/
飛沫ガードパネル・テレワーク家具HP https://tomozawamokkou.com/
カホン専用HP http://tomozawacajon.livedoor.blog/
楽天市場店 https://www.rakuten.co.jp/jyukukan/
カホン事業部 http://tomozawa-cajon.boy.jp
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JUGEMテーマ:国内ホテル
チェックインが できる時間となりましたので 本日の宿泊先 三井ガーデンホテル熊本さんへ
ロビーに行こうとしますと 最近は 機械で チェックイン チェックアウトです。
カードが 出てきますと それを使わないと エレベーターが 動きません。
それと カードキーには 部屋番号が 書いておらず レシートに 書いてありました。
もし 廊下で落としても 部屋が わからず 安心です。
いろいろと アナログ人間の私には アップデートできていいものです。
さあ 荷物をおいて 出発!
つづく
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【写真−1 ここは除雪されているが道路側は4mくらいの雪壁があった】
黒四ダムを中心に富山側と長野側から入るコースは大人気で、4月初旬に室堂へ通じる道路が開通して観光シーズンが始まったための混雑で、事前にチケットはネット購入出来るのでセブから試みるが、面倒臭い入力があって現地購入に決めた。
当日にチケットが購入出来ないと、予約していた室堂手前の弥陀ヶ原にある写真−1のホテルに泊まることが出来ず、不安感はあったが始発電車に乗ったのが良かったのか、『立山駅』で並んで富山−黒四ダム往復のチケットは買えたが、それにしても往復2万円近い料金は高い。
【写真−2 畳の部屋は2000m近い標高があるとの意識はない】
弥陀ヶ原にあるホテルと書いたが正確には国民宿舎で、室堂、黒四ダムでゆっくり時間を取りたかったために周辺で宿泊所を探したところ、この国民宿舎を見つけ2食付きなので楽と思って決めた。
写真−2は今回の旅で泊まった中で唯一の和室で、布団を自分で敷くなど民宿の部屋を思い出すが、ゴロゴロ寝転んで過ごすには快適で、予約時に眺望抜群と書いてあって、確かに窓からは雪山風景を飽きるまで眺められた。
肝心の黒四ダムは映像で見た方が迫力はあるなと感じながらポットに淹れたコーヒーを飲んで時間を過ごし、室堂では晴れて半袖でも過ごせるほど気温が上がって、半袖でも良いくらいで、冬山の装備の用意は過剰だったなと思った。
積もった雪の上を歩くのは何年振りかと思い出しながら、道路脇に残る10数m高の『雪の大谷』も歩くがこちらも映像の方が迫力はあり、ターミナルの観光客の多さと混雑ぶりには閉口しコロナに感染しそうな気分であったが、台湾、香港、韓国からの団体客も多く、コロナ余波で日本への団体旅行が出来ない中国人の団体もあり、これは香港で募集した抜け道のような団体で来ているのであろう。
【写真−3 山スキーをやる人もあり見ているだけでも気持ちが良かった】
写真−3は国民宿舎の泊った部屋から見た外の風景で、弧を描く道の右側は室堂に左側は立山へ下り、道の向こうに建つ建物は別のホテルで、後方に聳える山並みの間には広大な湿原があって尾瀬ヶ原と同様の木道が敷かれ、この時期は雪に埋もれているがシーズン中は高山植物の見られる場所として知られる。
写真−3は朝の6時前に写していて、刻々と変わる山の表情はいくら見ていても飽きず、宿泊客によってはスノーシューズを履いてこの雪原を歩く人もいるが、暖房の効いた室内で眺めた方が良く、出発まで屋外には出なかった。
かつて国民宿舎には何度か泊ったことはあるが、ここの標高は1940mにあり『日本一高い場所にある国民宿舎』を売り物にしているが、夕食と朝食が付きその内容も悪くなく、まだ宿泊客で込み合う時期ではないために落ち着いた山の宿を味わったが、今日は目的地の新潟まで行かなければならず、ここでも朝一番のバスに乗って『立山駅』へ降りる。
【写真−4 同ホテルは文化財の万代橋を渡った先に建つ】
富山のホテルに預けた荷物を受け取って『富山駅』から第3セクターの『あいの富山鉄道』、『えちごトキメキ鉄道』を乗り継いで直江津を目指すが、これら路線は北陸新幹線が出来たために切り離されたもので、地元にとっては増々不便になっている。
時間がなくて2つに分けていた荷物を車内でまとめる具合であったが、室堂での大混雑とは違って空いた座席に座って、左の車窓に流れる日本海の景色を見ていると心は和み、山が迫った海岸沿いを開削して線路を敷いた工事は苦労しただろうなと先人を偲ぶ。
そうして、直江津、柏崎を経て『越後線』に乗り換えると新潟の穀倉地帯に入り、延々と走り続けて本日の目的地の『新潟駅』で下車した時は、あの雪の弥陀ヶ原から良くぞ1日で来られたなと思った。
新潟では旅の最終でもあり、チョッと変わったホテルをと調べていたら写真−5の『ホテル・オークラ新潟』がビジネス・ホテル並みの料金で泊まれるのを見つけて予約するが、玄関、ロビー共に今まで利用して来たホテルとは明らかに違う雰囲気を出している。
東京・虎ノ門にある『ホテル・オークラ』は仕事の関係で業界のパーティーで行ったことがあり、その格式と雰囲気は日本を代表するホテルと痛く感じたが、泊まるのは初めてであった。
今は安いホテルばかりを利用しているが、かつてはバンコクのオリエンタルなどその国を代表するホテルなどに数多く泊まっているが、結局、ホテルには荷物を置いておくだけの旅が多く、トイレの水がしっかり流れ、お湯が出れば良い境地に至っている。
【写真−5 この河岸も新潟で開催する国際会議で閉鎖する看板があった】
同ホテルは信濃川の畔に建っているが、安い料金で泊っているのに川の見える部屋に泊れ、写真−5はその部屋から見た眺めで、やはり水のある光景は気が休まるが、部屋の広さと造りは高級なビジネス・ホテルといった感じで、この手のホテルに必ず用意されているティーバッグは有名な品物であった。
高級という雰囲気を感じたのは、フロントとロビーにホテルスタッフが何人もいて、チェックインの済んだ泊り客をエレヴェーターまで案内していたことで、今思うとこういう地方のホテルで新人を訓練していたのかも知れない。
【写真−6 この写真だけではどこの東横インの部屋だか分からない】
こうして18泊に及んだ各駅停車列車を乗り継いだ旅は新潟を最後に終えて、同じく各駅停車列車を乗り継いで東京に戻り、セブへ帰る飛行機に乗るまで浅草にある東横インに泊ったが、写真−6はその部屋だが写真を見た限りでは全国にある東横インの造りと変わりなく、これが同ホテルの料金設定の安い一因でもある。
先述したが、旅行シーズンに入っていて同ホテルの予約もようやく取れた具合で、浅草に近いためにやはり海外からの利用者が多いが、肝心の浅草界隈は混雑しているだろうと敬遠して足を運ばず、ホテル近くにある蕎麦屋、とんかつ屋、中華料理店で済ませたが良い店でもあった。
コロナ禍が過ぎて海外からの観光客が押し寄せるようになって『オーバーツーリズム』などという言葉が出ているが、これら海外からの観光客が目指す場所は有名な場所に偏っていてそれさえ避ければまだまだ静かに観光の出来る場所は多く、また今回の旅のような列車旅では海外からの観光客は新幹線には乗るので影響は全くない。
最後に日本は観光で外貨を稼ごうと躍起になっているが、物を作ると1時間当たり5000円を生み、サービス業の観光では1時間当たり3000円しか生まないので、観光に重きを置くのは国の衰退を招くという論もあり、確かに観光に活気を見出そうとする日本は沈下の一つを表しているようだ。 【終わり】
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【写真−1 左側の白い建物がホテルで駅から見える】
熊本からのかつての鹿児島本線は『八代駅』止まりで、その先はJRが赤字を避けるために切り離した第3セクターの『肥薩オレンジ線』となっているが、途中『水俣駅』で下車して『水俣病資料館』へ行った後、鹿児島中央駅で枕崎線に乗り換えて終点の『枕崎駅』まで行き、写真−1のステーション・ホテルに泊まる。
荷物を置いてホテルから10分ほど先にある枕崎漁港へ行くが、既に夕暮れに差し掛かっていて港全体の様子は分からず、その夜は名物のカツオの料理を出す店を見つけて食べたが、冷凍魚全盛の今は特に枕崎だから美味いということはなかった。
鹿児島中央駅から行き止まりの枕崎線を往復したのは、枕崎線途中に日本最南端の駅『西大山駅』があるためで、翌日の一番列車で同駅に降りて次の列車が来るまで駅周りを歩くが、キャベツ畑の広がる平地に聳える円錐状の開聞岳の姿は絵になった。
【写真−2 中央に見えるホテルは新館で道を挟んで本館が別にあった】
枕崎駅からは宮崎駅までが1日の行程で宮崎駅傍の東横インに泊るが、翌日はやはり行き止まりの日南線で終点『志布志駅』へ行って宮崎駅に戻るが、枕崎線、日南線の廃線の話は常にあって、この機会に乗っておこうという気持ちで足を延ばした。
宮崎駅から先の日豊本線の各駅停車列車は延岡駅までは数時間置きに出ているが、延岡駅から先は朝6時台に出た後の次は夜の8時台1本しかなく、その間は特急列車だけを走らせ儲けようというのがありありだが、途中の駅は実質的に廃駅同然で、日豊本線は日本で一番利用客を無視した路線と言って良い。
写真−2は夜の11時近くにチェックインした佐伯市のホテルで、駅前には全国展開のホテルもあったが、こちらの方が安かったので予約をし、その分少し駅から歩くが、このホテルは昔からある地元の名門のようなホテルの雰囲気を感じたが客の姿は見なかった。
【写真−3 駅前にはもっと宿泊料金の安いビジネス・ホテルがあった】
佐伯駅から次々と乗り継いで小倉駅に出て九州一周を終え、次に山陰本線に入り途中『長門駅』で乗り換えて、詩人の『金子みすゞ』の生地である美祢線終点の『仙崎駅』まで行き、僅かな折り返し時間を利用して生家跡まで荷物を背負って駆け足で往復する。
そういった寄り道も大判の時刻表を見ながら出来たことで、この日の終点である『益田駅』前にあるホテルに着いた時は夜の8時に近く、東京を出発してからここまで14日目になり疲労度は高い。
写真−3の暗闇に浮かぶホテルが泊まったホテルで、同ホテルはインテリアや設備、各種サービスが充実していてまた泊りたいホテルと思ったが、夜食に無料でラーメンを出すなど人によっては有り難くても、ただ泊るだけの旅ではその分安い方が良く、無料のマッサージチェアを利用しただけで、この夜はコンビニで食料を買って部屋で食べた。
【写真−4 離島の港湾設備などは全国共通で過剰なくらい充実している】
朝一番の列車に乗って益田駅から乗り継いで『米子駅』に出て、同駅から境線に乗って終点の『境駅』まで行き、そこからフェリーで隠岐の島に向かうが、同島では2泊するので骨休みと溜まった洗濯物を洗濯するには良いが、島内を観光しようという気はほとんどなかった。
フェリーに乗船するまで時間があったので、境港近くの『水木しげるロード』を歩くが、観光客に媚びている雰囲気で感じは良くなかったが、海外からの団体客が歩いていたから海外では人気の高い場所と分かる。
境港から目的地の『西郷港』まで2300トン級のフェリーで約4時間かかるが、平日にも関わらず結構乗客は多く、部屋の船室で寝転んでいる内に途中の港に寄港した後に西郷港に着いた。
写真−4は西郷港ターミナルから見ているが、ターミナルから延びた歩道橋の先に見える建物が連泊するホテルで、港を眺めるには最高の立地なので少々高くてものんびり過ごすには良いだろうと予約を取った。
【写真−5 最初の夜は近くの大きなスーパーで食料を買い部屋で食べた】
隠岐の島で連泊したホテルの部屋の様子が写真−5で、今回の旅で初めて利用したツイン・ベッドにソファーがあり、一人で利用するにはもったいないが、骨休みにはとても良く、カーテンを開けると港全体を見下ろし、出入りする船もゆっくり見られた。
ただし到着してから雨が降り続いたので観光する気分は全く起きず、コインランドリーを探し洗濯をしその帰りに街中を歩いた程度であったが、そういう時間の過ごし方も悪くなく、帰りは高速船を利用して本土に戻る。
【写真−6 鳥取駅から各駅停車では富山駅まで丸一日かかった】
隠岐の島の次は鳥取市で1泊した後、朝一番の各駅停車列車で山陰沿いを進むが、途中『豊岡駅』から私鉄の『京都丹後鉄道』に乗り換え、『天橋立駅』で途中下車して日本三大風景の一つに数えられる天橋立を見学するが、それほど感激する風景ではなかった。
『敦賀駅』から北陸本線の各駅停車列車を乗り継いで乗ってひたすら日本海沿いを走り、『福井駅』『金沢駅』も素通りして『黒四ダム』へ行くために『富山駅』で下車して泊る。
北陸新幹線が出来たために駅は新しくなっていて、写真−6は左側が富山駅駅舎で正面に見える細い建物は富山地方鉄道ビルになり、同鉄道の終点『立山駅』方面へ行く発着ホームもここにあり、このビル内に同私鉄の経営するホテルがある。
同ホテルは豪華な朝食を用意し評判らしく食事券ももらったが、黒四ダムへ行くには私鉄富山駅発の始発で行かなければならず話だけで終わったが、山用の荷物以外の物を2日後に引き取る旨をフロントに言うと全く問題はなく、当日だけしか荷物を預からないホテルが多いことを考えると良い印象を持った。 【続く】
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【写真−1 東横インの安さは外観と部屋の内装が全国共通による】
何年か前にセブの街中に日本の東横インが開業し、同チェーンは駅前か駅前近くに立地しているので会員証を作り、2019年の『新幹線全線乗車の旅』で利用したが、ただ泊るだけの旅ではこの手のビジネス・ホテルは料金、設備などは可もなく不可もなかった。
都内の東横インには日程の前後で7泊したが、4月の旅行シーズンに入っているために連泊予約は簡単ではなく、大塚と田原町の同ホテルを交互に泊る羽目になったが、写真−1は大塚駅近くの東横インで、ここから『各駅停車乗り継ぎ旅』は始まった。
【写真−2 紀伊田辺は漁師町のためか夜の飲み屋街は賑わっていた】
予定では紀伊田辺駅に到着するのは夕方間近であったが、関西本線の亀山駅で乗る列車に乗り遅れ紀勢本線の多気駅で3時間も待つ事態になって、紀伊半島最南端を廻って紀伊田辺駅に着いたのは夜の8時を過ぎていた。
高校生の頃から日本全国を自転車、ヒッチハイク、鉄道と形を変えて旅行をしていたが和歌山県だけは足を踏み入れたことがなく、今回の紀伊田辺で泊まったことにより1都1道2府43県の日本全国を廻ったことになる。
紀伊田辺には駅の建物に接続するステーション・ホテルがあるので泊まったが、写真−2の右側に見えるビル内に入っているのがステーション・ホテルで、部屋は古く狭かったが一通りの設備は完備し、駅続きなので雨に濡れずに済んだ。
【写真−3 ホテルのすぐ傍は繁華街に連なるが外食する元気はなかった】
4日目に岡山駅から瀬戸大橋線で四国へ入り、高松駅−徳島駅−阿波池田駅を経て高知駅に着いたが、到着時刻は夜7時を過ぎていて、駅近くには多くのホテルはあったが駅から少し離れた写真−3のホテルに泊まった。
高知市には2017年の『四国八十八ヶ所遍路旅』で、播磨屋橋近くのホテルに泊まったことがあり、その時は近くにある『ひろめ市場』でカツオのたたきなど土佐料理を堪能し今回も行こうかと思ったが、朝早い出発、遅い到着のスケジュール日程で詰まっていてホテルに着いたら外に食べに行く気力が失せて、近くのコンビニで腹を満たすだけの物を買って部屋で食べた。
【写真−4 市電に乗って道後温泉方面へ出られるが】
四国は上述の高知市のホテルと松山市のホテルの2泊だけで廻り、また岡山に出て山陽本線を乗り継いで行くが、松山市も遍路旅で泊まっていて、その時はレンタカー利用なので駐車場付きで決めたが、今回は松山駅に近い写真−4の角が斜めに切り取られたホテルに泊まった。
同ホテルはやはり全国チェーン・ホテルの一つで、料金が意外に安かったので決めたが、今回の日本の旅は事前に全て予約を取っているために、列車の遅延や休止などで躓くと日程はガタガタになってしまうが、幸い宿泊に関しては予約通りに消化出来た。
【写真−5 松山駅は高架化工事中でホテルから歩いて数分】
高知駅発朝5時台の列車に乗って松山入りは日暮れで、写真−5は上述同ホテルの泊まった部屋の様子で、これで分かるように同ホテルはビジネス・ホテルには珍しく長いソファが部屋に置いてあり、それだけでも余裕を感じるが、せっかくのソファも荷物を置くだけの台になってしまった。
遍路旅の時は徳島空港でレンタカーを借りて、時計回りにコースを進み松山市で乗り捨てたが、レンタカー営業所の近くに大きなスーパーがあってその時に食料を買い込んで部屋で食べた記憶を思い出して、今回もそのスーパーへ行って食料を買い込み部屋で食べるが、せっかくの日本三大温泉の道後温泉もパスするしかなかった。
【写真−6 この地域では高級なホテルになるが料金は安かった】
四国を廻って岡山から山陽本線の各駅停車列車を乗り継ぎながら先を進めるが、旅は海沿いの路線を使うことにしてあり、瀬戸内海側を走る三原駅−海田市駅間の呉線、新山口駅から宇部線と小野田線を使って小野田駅に出て、下関経由で九州入りをする。
九州は反時計回りにコースを取り福岡県博多駅から佐賀県に入り伊万里駅で下車して泊まるが、パソコンやカメラなどを詰め込んだザックと肩下げカバンは両方で15キロ以上あり、乗り疲れた身で歩くには結構負担だが、伊万里駅前にはホテルが見つからなくて、今回の旅で一番駅から遠かった写真−6のホテルに泊まった。
伊万里と言えば伊万里焼でホテルのロビーに伊万里焼の見事な壺が飾ってあり、焼き物に興味のある小生としてはゆっくり市内の窯元など訪れたいと思うが、こういうただ鉄道に乗るだけの旅ではなかなか時間は取れない。ロビーに置かれた壺を繁々と眺めるだけで我慢した。 【続く】
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