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「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平安を得た。主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった。」(31)
「こうして」とあるので前を見ると、サウロがエルサレムでギリシア語を使うユダヤ人たちからいのちを付け狙われ、兄弟たちからタルソに送り出されたことが記されています。宣教にとって普通は「逆風」と思われるような出来事です。普通ならそれに続く接続詞は「しかし」でしょう。でも、「こうして」と続いています。サウロが迫害されたこと、タルソに送り出されたことを、使徒の働きの著者はその前進の機会と見ているのです。
主の摂理による御国の前進という信仰的観点から見ず、自分や自分たちの労苦、あるいは反対者たちの意図という肉の観点から見ていては、決して理解できない記述です。肉の自分に死ななければ決して見えて来ない世界の出来事です。十字架を避けていては決して経験することも書くこともできない「こうして」です。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。」(ヨハネ12:24−25)
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「ペオルでの不義は、私たちにとって小さなことだっただろうか。私たちは今日まで、あの不義から身をきよめていないではないか。そのために神の罰が主の会衆の上に下ったのだ。」(17)
ヨルダン川東岸に相続地を得た部族がヨルダン川の地境あたりに大きな祭壇を築いたことが物議を醸します。みことばが礼拝場所をエルサレムと定めているのに彼らが他の礼拝場所を築いたように思われたからです。イスラエルの他の部族は彼らと戦う備えをしました。
礼拝における一致は「小さなこと」ではありませんでした。重大で、致命的なことでした。ですから、命がけで守らなければなりませんでした。それは、主の教会においても変わっていません(?コリント1−4章)。
「小さなこと」が「大きいこと」とされ、「大きなこと」が「小さなこと」とされるところに最初の亀裂が生じます。
だからこそ、みことばに共に教えられ、みことばに共に立たなければなりません。
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「主よ あなたがたもし 不義に目を留められるなら/主よ だれが御前に立てるでしょう。/しかし あなたが赦してくださるゆえに/あなたは人に恐れられます。」(3−4)
主が私たちの不義に目を留められるなら、誰もそのさばきの座の前に立ち果せる者はいません。私たちが御前に立つことができるとしたら、それはその不義を、ただ主が「赦してくださる」時であり、同時に確かに赦されたと私たちが分かった時です。そして、確かに赦してくださるがゆえに、主はあがめられ、畏れられるのです。
ですが、どのようにして作者の罪は赦されるのでしょう。また、何をもってして作者は赦されたことを知ることができるでしょう。いけにえを献げることによってでしょうか。いや、いけにえを献げるなら赦すと言われた主ご自身の真実によってでした。作者はその主ご自身の真実のゆえに、主が赦してくださることは信じているのです。
でも、動物のいけにえはいくら献げても作者の良心を満足させることはありませんでした。そこで作者は、「確かにあなたの不義をすべて赦した」と良心の奥底に語り掛ける「主」と「主のみことば」を、切実な思いで待ち望むのです(5−6)。そして、イスラエルの同胞たちにも「主を待て」と呼び掛けるのです。
「イスラエルよ 主を待て。/主には恵みがあり、豊かな贖いがある。/主は すべての不義から/イスラエルを贖い出される。」(7−8)
彼らが待ち望んだ「主」、「主のみことば」、主の「恵み」、「豊かな贖い」は、確かに人となってこの地上に下られました。そしてこの方の死に拠って、主はすべての不義から私たちを贖い出してくださいました。私の良心は初めてこの方によって安らぎました。それゆえ私は主をあがめ、心から畏れ敬い、主を賛美しています。また、主が再びこの地上に来られ、私たちの贖いを完成してくださる日を心から待ち望んでいます。
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「主は、彼らの父祖たちに誓ったように、周囲の者から守って彼らに安息を与えられた。すべての敵の中にも、一人として彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。主がイスラエルの家に告げられた良いことは、一つもたがわず、すべて実現した。」(44−45)
「すべての」「一人として」「一つもたがわず」「すべて」と、ご自分の約束に対する神の完全な真実と御民に対する愛、すなわち「ヘセド」が強調されています。神の側には何の落ち度もないのです。民の側にあった不真実にも拘わらず。
神の民は、この神の真実によって支えられています。
ですから、失敗しても立ち直ることができ、前に進むことができます。
「失敗したら終わり」という悲壮感や「失敗はない」という思い込みはありません。
一方で、「失敗したってどうせ赦されるのだから」といういい加減さや甘えもありません。
これらの思いは、主への真実と愛における後退です。
本当に主のヘセドを教えられているのなら、私たちには主への真実と愛における前進があるのみです。
そのために、主イエスは十字架に死なれ、私たちに御霊と信仰を与えて下さいました。
「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。」(ローマ6:4)
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「逃れの町」についての教えです。
「逃れの町」は亡命者保護の国際法の原点であると『みことばの光』は言います。歴史的に言ってそうなのかは不勉強ゆえ知りませんが、本当にそうだと思わされました。この制度には、殺人、復讐を押し止め、和解と平和を実現し、弱い者を保護してくださる主の御旨が反映されています。
この前、入管法の改悪が国会を通ってしまいました。「逃れの町」に逃れて来る者を追い出し、復讐者の手に冷たく委ねて行く傾向をますます助長する法律です。政治家たちは、入管職員たちの酷い虐待を改善の機会とするのでなく、むしろ真の亡命者たちを拒絶するために用いました。その罪は非常に重い。主がいつまでもこの罪を放って置かれることはないでしょう。
日本を愛するがゆえに、このような国になって行くことを心底悲しみ、憂います。政治家たちと虐待当事者の真摯な悔い改めが為されるよう、祈ります。
同時に、教会が政治的亡命者だけでなく、虐待や貧困から逃れて来る人たちの受け皿、「逃れの町」となることができるよう、祈ります。
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「主が与えた割り当て地を、彼らが支配できなかった理由は何だろう」と『みことばの光』は問いかけます。
一般的な回答は、武力不足、戦略不足、強大な敵、地理的な問題等々でしょう。
ですが、聖書の回答は違います。彼らが肉に従って戦った(あるいは戦わなかった)からです。神に従って戦わなかったからです。
そこを見誤ると、その後の進む道とゴールは大きく異なって来ます。
もし一般的回答に従うならば、何を置いても自分たちを鍛えることと肉的・物理的戦いに向かいます。
もし聖書的回答に従うなら、何を置いても祈りと霊的戦いに向かいます。
そして、一般的回答に従うならゴールは絶え間ない競争と破滅です。
聖書的回答に従うならゴールは平和と、神との交わりにある永遠のいのちです。
「ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。」(ローマ8:13)
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「『だれがおまえを、指導者やさばき人として任命したのか』と言って人々が拒んだこのモーセを、神は、柴の茂みの中で彼に現れた御使いの手によって、指導者また解放者として遣わされたのです。」(35)
モーセと重ね合わせながら救い主イエスを宣べ伝えるステパノです。
まことに、イエスはそのような方でした。主は何の悪も行われなかったのに、人々から、拒まれ、捨てられたのです。そして、主のしもべステパノもイエスのように、イエスという真理を語ったために、拒まれ、捨てられて行きます。しかし、その彼を通してイエスが明らかにされ、救われる人々がたくさん起こされてくるのです。
わざわざ拒まれたり捨てられたりを望む人はいないしそうされるようなことをする人もいません。
でも、イエスの指導に従い、イエスに仕えるイエスのしもべたちは、拒まれ、捨てられることを覚悟しなければなりません。そのような歩みこそイエスご自身の歩みであり、イエスのしもべとして標準的な歩みだからです。悪を行って拒まれるのは論外ですが、「しもべはその主人にまさるものではない」ので拒まれることがあるのです(ヨハネ15:20)。
むしろ、この世から「拒まれ、捨てられる」ということが全くないとしたら、本当にイエスのしもべとして歩んでいるのか、主の愛に生きているのか、自らに問いかけてみなければならないでしょう。そして、そこに生きることができるよう、祈らなければならないでしょう。
今日も世界のどこかで、ただキリストを信じ、キリストの証しに生きているだけで、迫害されている人々がいます。
その方々のために祈ります。
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「ただし、彼らは、ゲゼルに住むカナン人を追い払わなかった。カナン人はエフライムのただ中に住んだ。今日もそうである。カナン人は強制労働に服すことになった。」(10)
たびたび繰り返される、「追い払わなかった」という記述。「追い払えなかった」ではありません。追い払う力はあったのです。したがってそれは、彼らの能力の問題ではなく、選択の問題でした。
同時に、追い払う力は神ご自身が与えると、みことばによって約束されていました。したがってそれは、能力の問題でないばかりか知識の問題でもなく、神とそのみことばに対する信仰の問題であり、信仰による選択の問題なのです。ここに私たちが本当に悲しむべき、そして悔い改めるべき罪があります。
「どうせ赦されるから」とか「やがて良くなるから」とか言いながら、この信仰による選択を軽視したり放棄したりし続けることは、あの「放蕩息子」が「どうせお父さんが自ら迎えに来て神さまが回復してくださるから」と言いながら放蕩し続けるようなものです。外見は信仰的な背信行為です。一方で、自分でどうにかしようとすることも同じです。自分でどうにかなると父親の許を離れた放蕩息子の不信仰のメンタリティがそのままです。いずれにしても、赦しも回復も期待することはできません。
神がそこで切に願って下さるのは、私たちの努力ではなく悔い改めです。罪(神とそのみことばに背いていたこと)を認めて悲しみ、謙って神の許に帰るなら、そこにはキリストによる豊かな赦しと回復があります。みことばに従って歩む、新たないのちが溢れます。
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「人の目にはまっすぐに見えるが、/その終わりが死となる道がある。」
「人の目」は実にまったく当てにならない、ということ。みことばにのみ信頼しなければならない、ということ。
ですがその「みことば」も、「人の目」による解釈に拠れば、死の道となります。
みことばの前に謙り、みことばそのものと御霊による解釈によって、歩ませていただきたいものです。
「ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。」(?ペテロ1:20)
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「主に信頼する人々はシオンの山のようだ。/揺るぐことなく とこしえにながらえる。」(1)
「自分は『シオンの山』のようだろうか」と問われます。少なくとも「気持ち」はぐらぐらと揺らぎます。逆算して、自分の信頼も揺らいでいるのではないか、と疑いの気持ちが湧いて来ます。
でも、そういうことが言われているのではないことが2節を見ると分かります。
「エルサレムを山々が取り囲んでいるように/主は御民を 今よりとこしえまでも囲まれる。」(2)
それは私がシオンの「山」のようになることではなく、堅固な山々より遥かに堅固な主によってとこしえに取り囲まれた状態のことなのです。私自身は揺るぎやすいけれど、主は揺るぐことなく私をとこしえに愛し取り囲んでくださっているのです。
しかし、それは決して地上的な意味での困難や苦しみ、痛みから、神が私をまったく守ってくださるということではありません。神はその「ため」に私を取り囲んでくださっているのではありません。
「それは 悪の杖が/正しい人の割り当て地の上にとどまることがなく/正しい人が不正なことに手を伸ばさないようにするためだ。」(3)
「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」を思い起こします。それはこの地上にあって、エデンの園での堕落を繰り返さず、神との交わりを失うことがないため、そして最終的にとこしえの御国で神とともに歩むようにするためなのです。この、もっと根本的な目的のためなのです。神との交わりこそ私たちのいのちだからです。
私たちの罪のために死んでよみがえられた方に四方八方を囲まれていることを覚え、心から感謝し、御名をあがめます。これほど堅固な山、神の愛の現れは、他にありません。そのことを覚え、御霊の助けをいただきながら、自ら禁断の実に「手を伸ばす」ようなことがないようにしたいと願います。
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