この化石は、ヨーロッパでネアンデルタール人だけと思われていた集団が、ネアンデルタール人と現生人類が一緒に暮らしていた可能性を示唆している、と科学者たちは指摘しています。
科学者たちは、8/4付けScientific Reportsのオンライン版(「Anatomically modern human in the Châtelperronian hominin collection from the Grotte du Renne (Arcy-sur-Cure, Northeast France)(レンヌ石窟(フランス北東部、アルシー=シュル=キュール)出土のシャテルペルロニア時代のヒト属コレクションに含まれる解剖学的に現生人類)」というタイトルで発表された)で、この発見について詳しく述べている。
この発見によって、私たちは古代の祖先について新たな知見を得ることになりました。
ヨーロッパにおける以前の研究では、ネアンデルタール人文化の最終段階はシャテルペロニアンと呼ばれるグループであった可能性が示唆されていました。
約44,500年前から41,000年前のシャテルペロニアン遺跡からの出土品は、スペイン北部からパリ盆地まで広がっています。
シャテルペロニアンは、その遺物が実際には現生人類によるものだと主張する科学者たちによって、長年にわたり大きな論争を巻き起こしてきた。
2009年の先行研究で、現生人類は約4万2000年前までに西ヨーロッパに進出していたことがわかりました。
新しい研究では、研究者たちはシャテルペロニアンの正体を探る上で重要な場所、パリの南東約200キロにあるヨンヌ県アルシー・シュル・キュール州のレンヌ洞窟に焦点を当てた(アルシーにある大きな装飾が施された洞窟ではなく、その近くにある小さな洞窟のひとつである)。
(レンヌ洞窟 (鹿の洞窟):ancientpagesより)
レンヌ洞窟は、何十年もの間、考古学と古人類学的探求の焦点となってきました。
この洞窟は、ネアンデルタール人と解剖学的現生人類(AMH:anatomically modern humans)という2つのヒト属の共存に関する洞察を提供しながら、その歴史的秘密を何層にも分けて明らかにしてきたとのこと。
より深い地層はネアンデルタール人が居住していた時代を反映しており、上層はAMHが居住していた時代を物語っています。
この2つの異なる層の間には、2つのヒト属が生息地を共有していたかもしれない曖昧な層(シャテルペロン層)があります。
科学者たちは以前、この層からネアンデルタール人の遺骨を発見していた。
この特定の地層には、シャテルペロニアン技術文化複合体に関連する石器が見つかっていますが、これらの石器がネアンデルタール人のものなのか、AMHのものなのか、それとも共同作業によるものなのかについては、科学者の間でも意見が分かれています。
この謎めいた状況の中で、考古学者たちは2019年に洞窟から腸骨(腰骨)を発掘していたが、その話は新たな展開を見せ注目を集めることになりました。
詳しく調べたところ、その骨は生まれたばかりの赤ん坊(AR-63)のものであることが判明、科学者たちは新生児の腰骨(骨盤帯を構成する3つの骨のうちの1つである腸骨)の調査を行った。
(左:新生児の骨格図に置かれたAR-63右腸骨の側面図、右:側面から見た新生AR-63の右腸骨と、同じ縮尺の2ユーロ硬貨:inee.cnrsより)
この骨は幅2.5センチほどで、以前は40,680年から42,335年前のものとされていた層から見つかり、科学者たちはDNAがネアンデルタール人起源であることを明らかにした他の遺骨もそこで発見していました。
そこで古人類学者は、この腰骨をネアンデルタール人の赤ん坊2人と現生人類の新生児32人の同じ骨と比較した。
その結果、レンヌ洞窟の化石はネアンデルタール人の骨とは明らかに異なっていることがわかったのですが、さらに最近の現生人類の骨ともわずかに異なっていました。
「ホモ・サピエンスの化石がシャテルペルロニア時代に発見されたことは、非常に驚くべきことです」
とロンドン自然史博物館の古人類学者で、今回の研究には参加していないクリス・ストリンガー氏は語っています。
(クリス・ストリンガー氏:wikipediaより・・・ストリンガーさん、もう少し普通のポーズとったらいかがですか)
研究者たちは、この腰骨は現生人類とはわずかに異なる初期現生人類の系統に属するものであることを示唆しました。
「我々の結果は、ネアンデルタール人と解剖学的に現代の新生児の腸骨の間に形態学的な区別があることを示しています。
AR-63は最近の変異からはわずかに外れていますが、ネアンデルタール人とは明らかに異なっている。
このことは、現生人類とはわずかに形態が異なる現生人類の系統に属するためであると考えられるのです」
と研究者たちは論文で述べている。
「われわれは、解剖学的に現代的な新しいヒトの系統を発見しました。
この腰骨には、典型的なネアンデルタール人や現代人の骨と異なって見えるような病気の兆候は見られません。
この骨が発見された土の層は、ある時点で乱され、シャテルペロン紀の地層との関連性を混乱させたと主張する人もいるかもしれないが、事前の研究では、この層は数千年の間、ほとんど無傷のままであったことが示唆されています」
と研究の主著者で、フランスのボルドー大学の古人類学者であり、フランス国立科学研究センター (CNRS) の研究責任者であるブルーノ・マウレイユ氏は指摘している。
(新しい骨(AR-63)の特徴を最近の人類およびネアンデルタール人と比較した分析:livescienceより)
研究チームは、洞窟のシャテルペロン層で発見された石器は、知識の拡散の結果であるという興味深いシナリオを提唱しています。
「ネアンデルタール人の遺骨に囲まれた初期現生人類の腰骨を説明する最も簡単な説明は、現生人類とネアンデルタール人のグループが同じ文化を共有していたということです。
もう一つの可能性は、現生人類とネアンデルタール人の両方が一緒に暮らしていた混合グループであったということです」
と彼は付け加えた。
(ブルーノ・マウレイユ氏:searchingformeaningより)
この仮説によれば、解剖学的現生人類がこれらの石器を先駆けて作り、ネアンデルタール人がそれを自分たち独自のニーズに合わせて採用し、適応させた可能性があるということです。
この拡散は、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスがヨーロッパ各地で共存していた時代に起こった可能性があり、この適応的な交流は、ネアンデルタール人とAMHが共存していた時代に広まっていたハイブリダイゼーションの一形態を意味しているのかもしれない。
これは、異なるヒト科の集団がダイナミックに相互作用し、アイデアや習慣が流動し、混ざり合い、変化していったことを示唆している、と述べています。
「もしこの発見がさらに精査されれば、私にとって最も可能性の高いシナリオは、シャテルペロニアン時代にホモ・サピエンスの集団がネアンデルタール人の近くに住んでいたことを明確に証明することです。
つまり、その時代にネアンデルタール人とホモ・サピエンスが接触していた可能性を示しているのです」
とストリンガー氏は言う。
最近、フランスのトゥールーズ大学の考古学者ルドヴィク・スリマク氏が、シャテルペロニアンは実は現生人類であったと主張しているが、
「もし彼の考えが正しければ、ホモ・サピエンスの化石をシャトルペロンのレベルで見ることは理にかなっていますが、そこにあるネアンデルタール人の化石は、侵入してきたものなのか、何らかの理由でそこに多く存在する現代のネアンデルタール人の集団を表しているのかのいずれかであることを示唆しています。
スリマク氏の物議を醸す考えの信憑性はともかく、この新しい発見は、シャテルペロニアンの本質に関する根本的な疑問を浮き彫りにしています」
とストリンガーは述べた。
(腸骨 (赤):hominidesより)
これは、約3,000マイル離れたシベリアの山中で発見された別の最近の発見と一致しています。
そこでの調査によれば、現生人類は約4万5000年前にネアンデルタール人やデニソワ人と洞窟を共有していたことを示唆していて、どちらも相手の文化を理解することができたので、ネアンデルタール人と人類がシャテルペロニアン文化を共有していた可能性が高いのだと、マウレイユ氏は考えています。
研究者たちがこういった謎の層に隠された秘密を解き明かしていくたびに、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスとの間で起こった複雑な相互作用ついての理解は、より深まっていくのでしょうね。
「今後の研究では、この時期の新生児の骨をさらに調査して、その起源を明らかにすることができるでしょう」
とマウレイユ氏は語っています。
**********
この2つのグループが重なっているかどうかは、論争の的となってきたといいます。
シャテルペロニアンの時代が約44,500年前から41,000年前であるということがキーワードになっているのですが、実はそれは42,000年前に地球の磁極が反転したということがわかったからです。
これが重要なのは、地球規模の気候危機をもたらし、その結果、気温と放射線レベルが変化し、多くの大型哺乳類が絶滅した可能性があり最終的にネアンデルタール人の絶滅につながったと考えられているからなのです。
追加された宇宙線がオゾン濃度を低下させ、大気中の紫外線の水門を開いた可能性がある。
気象パターンの変化は、北米の氷床を拡大し、オーストラリアを乾燥させ、多くの大型哺乳類の絶滅を促したかもしれない。
一方、太陽嵐は、古代人を洞窟に避難させたかもしれない。
資源をめぐる競争が激化するにつれ、絶滅した人類の最も近い親戚であるネアンデルタール人は絶滅した可能性がある。
ネアンデルタール人が地球の磁極が大きく変化した後に絶滅したのは、おそらく偶然ではないだろう、と研究は示唆している。
もしその時期に太陽が太陽嵐で特別に高いレベルの放射線をまき散らしたとしたら、ネアンデルタール人は身を隠す必要があったかもしれない。
実際、地磁気の逆転は、ヨーロッパと東南アジアで洞窟の利用が増加した時期と一致している。
特に、研究者たちはこれらの地域の洞窟で約4万年前の赤い黄土色の手形を発見している。
新しい研究によると、この色素は古代の日焼け止めの役割を果たした可能性があるという。
すべての研究者がこの分析に納得しているわけではない。
ロンドンの自然史博物館の人類学者、クリス・ストリンガー氏は、ネアンデルタール人がいつ絶滅したかを正確に知ることは難しいが、地磁気逆転はネアンデルタール人の絶滅に貢献した可能性があると語った。
「彼らはヨーロッパだけでなく、より長く、より広範囲に生存しており、アジア全域で最終的にいなくなる時期については、非常に不十分な修正しかできていない」
とストリンガー氏は述べた。
フロリダ大学の地質学者であるジェームス・チャネル氏は、4万2000年前の氷床コアの歴史的記録は、地球規模の気候危機を示すものではないと語った。
それでも、大型哺乳類の絶滅と地球の磁場の弱まりとの間には「関連性があるように見える」と彼は付け加えた。
ーbusinessinsiderよりー
またこれにより大気中の炭素14同位体を過剰に急増した可能性があるため、この時期の炭素年代測定を解釈するのが特に難しくなっているようなのです。
なお、ネアンデルタール人が絶滅した理由についてはいろいろ考えられていて、この磁極の反転であること以外にもネアンデルタール人がホモサピエンスと交雑したがゆえに滅んだという説や、以前このブログでも書きましたが、ネアンデルタール人の単位ごとのグループが少人数であったための自然消滅したという説もあります。
今のところ、4〜6万年前の後期ネアンデルタール人のゲノムには、ホモ・サピエンスの遺伝子を示す証拠はない。
一部の種は特定の方向にしか子孫を残すことができないので、これは交雑の過程そのものによる可能性がある。
例えば、カプセラ・ルベラの花粉はカプセラ・グランディフロラの種子とうまく受精できるが、その逆はできない。
ネアンデルタール人由来のミトコンドリアDNAが現生人類に存在しないことは、ネアンデルタール人のオスとホモ・サピエンスのメスしか交尾できなかったことの証拠とされているが、オスの雑種はメスよりも繁殖力が弱かったかもしれないという証拠もある。
ネアンデルタール人同士の交配が少なくなり、集団のサイズもすでに小さく、環境のために分散していたため、ネアンデルタール人の家族グループ以外での交雑が種を衰退に追いやった可能性がある。
しかし現時点では、どちらか一方に決めつけるには十分な証拠がない。
「一方通行に見える遺伝子の流れが、単にそれが起こらなかったからなのか、交配は行われていたがうまくいかなかったのか、あるいは我々が持っているネアンデルタール人のゲノムが代表的なものではないのか、わかりません。
より多くのネアンデルタール人ゲノムの塩基配列が解読されれば、ホモ・サピエンスの核DNAがネアンデルタール人に受け継がれたかどうかを確認することができ、この考えが正しいかどうかを実証することができるはずです」
とロンドン自然史博物館の人類進化研究リーダーであるクリス・ストリンガー氏は言う。
ーphysよりー
(ネアンデルタール人(左)とホモ・サピエンス(右)は互いに最も近い親戚であり、交配することができた:physより)
う〜ん、しかし地磁気逆転がネアンデルタール人だけに影響を与えたという説はどうだろうなあ。
いままでわかってきたように、ネアンデルタール人は予想以上に知恵があり、ホモサピエンスとそれほど違わなかったとすれば、ホモサピエンスだけが生き残り、ネアンデルタール人だけが絶滅したというのはあまり考えられない気がします。
それ以外の説は、それなりに理解できそうなので、それらの説が複合的に影響を与えた可能性はあるんだと思います。
しかし、最近よくストリンガー氏登場しますね(笑)
まあそれはさておき、さらに今後の研究を待ちたいと思います。//
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しかし、ネアンデルタール人の住処から回収された道具の中で、おそらく最も魅力的なものといえばそれは接着剤です。
そしてそれは、合成され加工された接着剤でした。
初期のヒト属は、この素材を例えば、石器を木の軸に取り付ける接着剤として使っていたと考えられてます。
考古学者がヨーロッパ各地のネアンデルタール人遺跡でタールに覆われた石や黒い塊を見つけたのは、今から約20年前のことでした。
驚くべきことに、この黒く粘着性のある物質は、約20万年前に白樺の木の樹皮から蒸留されたものだったのです。
しかし、ネアンデルタール人が使っていた白樺のタールは、ホモ・サピエンスがアフリカで使っていた樹木の樹脂や黄土の接着剤よりも、少なくとも10万年も前に使われていたのです。
合成物質を製造する現代人の能力は、常に私たちに他の動物に対する認知的優位性を与えてきた。
それは、学習されたプロセスを通じて原材料を変換するためには、意識的な思考、計画、行動の理解が必要だからです。
だから原始的と思われていた種が、思考ゲームにおいて私たちよりずっと先を行っていたことを発見したとき、研究者たちは驚きました。
これらの新しい発見は、ネアンデルタール人がこれまで考えられていたよりも進歩していた可能性があるという結論につながるものですが、彼らがどのようにしてこの接着剤を用意したのかは、研究者たちを悩ませ続けていた。
(ネアンデルタール人が使ったと思われるタール抽出法:interestingengineeringより)
ネアンデルタール人の接着剤製造方法
白樺のタールは、粘着性のある黒い粘液で、さまざまなものに接着、撥水、さらには抗菌のために古代から使われてきました。
ヨーロッパに住んでいた初期のホモ・サピエンスは、道具のパーツを結合させるのに使ったという。
ネアンデルタール人が、この耐水性があり、有機物の分解に強いという利点を持つ白樺タール接着剤をどのように作っていたかを理解すれば、古代人がどれほど賢かったかを直接知ることができます。
この物質は熱を使って白樺の樹皮から抽出できますが、ネアンデルタール人が意図的にタールを作り出したのか、それとも単に暖かい火を楽しんだ結果なのかについては、科学者の間でも意見が分かれている。
(以前は、ネアンデルタール人はたき火の後に白樺タールを発見するか、簡単な製造方法を用いていると考えられていた)
そしてドイツのパトリック・シュミット氏が率いるエーバハルト・カールス大学チュービンゲン校と州立先史博物館、フランスのストラスブール大学、ザクセン=アンハルト州文化財管理・考古学局の研究者たちが最近行った研究では、ネアンデルタール人が白樺のタールを作るために使った複雑な技術に光を当てています。
Archaeological and Anthropological Sciencesに5/22掲載された「Production method of the Königsaue birch tar documents cumulative culture in Neanderthals(ネアンデルタール人の累積文化を記録するケーニッヒザウエの白樺タールの製造法)」と題されたこの研究では、ドイツ、アッシェルレーベン・スタスフルト地区ケーニッヒザウエの有名な遺跡から発見され、採取された2種類の白樺タールと、石器時代の技術で作られた膨大な白樺タール・コレクション(化学的残存物)を比較化学分析した結果、研究者たちは、ネアンデルタール人が単にたき火の後に白樺タールを見つけたわけではなく、製造方法も単純ではなかったことを突き止めました。
ケーニッヒザウエ遺跡
ザクセン=アンハルト州アッシェルスレーベン近郊のケーニッヒザウエでは、1963年から1964年にかけて、露天掘り軟質炭鉱で考古学的発見層が発見された。
かつての湖畔にあったネアンデルタール人の季節的な狩猟キャンプの跡がいくつか観察され、最も古い発見層はおよそ8万年前のものだった。
出土品の中に、当初は目立たなかった白樺のタール片が2つあった。
この2つの破片のうち1つは、ネアンデルタール人の指紋と同様に、木と石器の痕跡が残っていることが、以前の調査で知られていた。
これはハレ(ザール州)の州立先史博物館の常設展示の一部である。
つまり、これらのネアンデルタール人は、合成接着剤を抽出するために、酸素を制限した地下加熱の段階的蒸留プロセスを含む非常に効率的な技術を使用していた、と研究は指摘している。
(ケーニッヒザウエの白樺のタール塊。石と木片の痕跡がタールの中で際立ち、かすかにネアンデルタール人の指紋が認められる:nachrichtenより)
ネアンデルタール人の高度な白樺タール製造技術の再現実験
しかし、本当にそうなのかどうかを確かめるために、研究者たちは白樺のタールを抽出する5つの異なる抽出技術(2つは地上に、3つは地中に)を再現する実験を行った。
白樺の樹皮を地上で燃やすと、野外の石の上や棒のドームの上でタールが凝縮する。
地下の方法は、基本的に丸めた樺の木の皮を火の下に埋めるというものだった。
白樺タールを抽出した後、赤外線分光法、ガスクロマトグラフ質量分析法、マイクロコンピューター断層撮影法を用いて、タール製造技術を分析し、古代の白樺タール遺物と比較した。
研究者らによると、この実験結果は、抽出時の酸素の利率率に依存して、地上法と地下法を区別する明確なマーキングがタールにあったとのこと。
土壌鉱物の相互作用と地上法では、すす関連炭素が存在しないため、古代の遺物は地下製造プロセスと一致した。
そして、古代のタールサンプルは地下の製造プロセスと一致したのだ。
(a KBP1、ケーニッヒスーエ1(左);KBP2、ケーニッヒスーエ2(右);b 凝縮法の図面;c 玉石溝凝縮法;d 樹皮ロール埋設法;e ピットロール法;f 盛り上がった構造。1、白樺の樹皮、2、白樺のタール:ancientpagesより)
この発見は、ネアンデルタール人のタールが、「野外での焚き火で意図せず生じた偶然の結果」ではなく、複雑な地下技術であることを示唆している。
地下での変形技術は地上での技術よりも実行するのが難しいため、その複雑さから、ネアンデルタール人の白樺タール製造法はその場で自然発生的に作られたものではなく、実験を通して進化したものである可能性が高いと推測している。
研究者たちによれば、この方法はおそらく試行錯誤の末に発明されたもので、時間の経過とともに少しずつ改良が加えられていったのだという。
彼らはこのようなプロセスに関する知識を保存し、後の世代に伝えることができたと考えることもできる。
この発見は、ホモ・サピエンスが最初に複雑な製造工程を開発したという考え方を覆すものです。
いくつかの要素は、一度手順を始めると観察も修正もできなくなるため、より正確なセットアップ手順が必要となるのですから。
(weather.comより)
ネアンデルタール人の技術的進歩と認知能力の再評価
増えつつある考古学的証拠によれば、ネアンデルタール人は、長い間現代人特有のものと考えられていた機械や製造方法を使うことができたのです。
この研究の著者は、
「ネアンデルタール人の白樺タール作りは、人類の進化において初めて記録されたものです。
アンデルタール人が、おそらくホモ・サピエンスからの影響とは無関係に、変形技術を発明し、洗練させたということを、私たちはここで初めて明らかにしたのです」
と主張し、現代人だけが複雑な製造工程や物質合成を行えるわけではないことを強調しています。
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もしかすると、ホモサピエンスが持っているこれらの知識は、ネアンデルタール人から受け継いだものかもしれませんね。
・・・と、この論文に関わる記事を調べていたところ、他にも興味深い記事を見つけました。
白樺タールを作るためには火をおこしてから製造の工程を進めなければなりませんが、この火をおこすというヒト属の特別な行為について、ネアンデルタール人とホモサピエンスの違いを研究した報告が発表されていましたので、この記事も紹介しておきます。
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火は人類の進化において重要な役割を果たし、私たちの生理学と文化を形成した。
火は暖かさをもたらし、初期の人類が寒い環境でも生き延びられるようにし、調理を可能にすることで食事の選択肢を広げ、捕食者から身を守る役割を果たした。
また、火を使いこなすことで社会的な交流も促進され、初期の人類はたき火を囲み、共同体の絆を育み、知識や技術を交換することができた。
多くの研究者は火を使うことの認知に焦点を当ててきましたが、火起こしの認知について研究したものはほとんどないようです。
(ancientpagesより)
初期のヒト属による火の使用は数百万年前からあった可能性があるが、今回この研究者たちは道具を使った火起こしに焦点を当て、初期の火おこしに関する認知的側面と、火おこしキットの発明者が誰なのか可能性を探りました。
Cambridge Archaeological Journalに掲載された論文「Minds on Fire:Cognitive Aspects of Early Firemaking and the Possible Inventors of Firemaking Kits(初期の火おこしの認知的側面と火おこしキットの可能な発明者)」では、研究者たちは、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの文化では、火おこし技術が別々に発明された可能性があり、それぞれの認知的な意味合いがあるとしています。
研究チームは、過去の狩猟採集民の主要な火おこし技術であったストライク・ア・ライト(火打ち石で火をおこす)とファイヤー・ドリル(手動の火おこし:木の棒を勢いよく回して摩擦力で火をおこす)の2つを分析し、因果関係、社会的推論、将来的推論の観点から評価された。
石器時代の考古学に焦点を当て、初期の火おこし技術の認知的な意味を調査した結果、科学者たちは古代人類が異なる火おこし技術を別々に発明したと考えるに至ったとのこと。
狩猟採集民は2つの石を叩いて火花を起こし、多くの場合、火打ち石や他の適切な岩石を黄鉄鉱の上に打ち付けて火を起こした。
科学者たちによれば、最近および現在の狩猟採集民は、手動式の火鑽り(ひきり)技法を使っているという。
「アフリカ南部では、この方法は今でもサン族とその子孫によって使用されており、その昔はこの地域の異なる狩猟採集民、牧畜民、農耕民の間でほとんど変化はなかったようである」
と論文では伝えています。
研究チームは、ストライク・ア・ライトによる火起こしは、ユーラシア大陸のネアンデルタール人が発明した可能性が高いことを示唆しています。
ヨーロッパでは、13万年前から3万5千年前まで、火に関する考古学的証拠が比較的普通に見つかっています。
ネアンデルタール人は火打ち石を使った石器の製作を盛んに行っていたので、本質的に火打ち石を使った火起こしの方法が発見され、採用されても不思議ではないと述べている。
そしてより複雑な技術であるファイヤー・ドリルはアフリカで始まり、そこでは現生人類によってのみ発明された可能性があるとのこと。
研究者たちは、アフリカ南部では16万年前から、岩石を熱処理するなどの高度な技術的プロセスに火を使っており、その結果、石器に刻む能力が向上したと指摘しています。
「私たちは、民俗学的、考古学的観察に基づいて、初期の火おこしに関する認識のいくつかの側面について仮説を立てました。
ストライク・ア・ライトとファイヤー・ドリルの火おこし技術の分布図から、ストライク・ア・ライトはより湿潤な高緯度地域で成功し、ファイヤー・ドリルはより乾燥した温暖な地域で最適であったという仮説も実証されました。
この分布は、アフリカにおける黄鉄鉱の露頭が稀であることとさらに関連している可能性があるが、これはまだ調査されていません」
と述べている。
(ストライク・ア・ライトによる火起こしの大まかな分布:論文より)
(ファイヤードリルによる火起こしの大まかな分布:論文より)
「火起こしは道具セットに依存するため、自然の火を使ったり、火を制御・維持したりする能力に比べて、より複雑な認知過程が必要であるというのが私たちの仮説です。
火起こしは、将来的な火起こしの目標に向けて、いくつかの段階を経て計画を立てる必要があるため、将来的認知の典型的な例といえます。
まず、着火のための道具一式が必要。
次に、適切な種類の燃焼材料を集めなければならない。
最後に、火がどのように使われるか、あるいはどのように封じ込められるかを予見しながら、点火し、火を起こし、維持することで、ある程度の見通しを立て危険な状態になるのを防ぐことができる。
これらの段階には、それぞれ異なる形の因果関係があります」
と科学者たちは説明しています。
(火起こしのための材料と動作の順序は、計画の深さと将来の認知を表す:physより)
「ホモ・サピエンスとネアンデルタール人では、概念を示したり伝えたりするような意図的な教育が共有されている可能性が高いため、彼らが出会ったときには、教育や学習だけでなく、文化的な交流も行われていたのではないかと推測されます。
おそらく、火おこしの技術や必要な材料の場所に関する技術や知識も交換されていたのではないでしょうか」
と同研究者らは述べています。
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なるほど、火打ち石はネアンデルタール人が始めたもので、火きりはホモ・サピエンスが元祖ですか。
しかし日本の江戸時代の庶民は、火打ち石を使って火をおこしていましたよね。
もちろん火打ち石がない場合は、火きりも行っていたんでしょうが、火打ち石と火口(ほくち)で火種を起こすのがポピュラーだったようです。
てえことは、やはり日本人のDNAにはネアンデルタール人の遺伝子が多く存在し、活性化されているのかもしれないなあ(笑)//
ネアンデルタール人は言葉も火も持たず、着るものも加工されておらず氷河期の厳しい寒さの中で、動物的な感覚のみで生き延びてきたと考えられていました。
しかし、2009年にスヴァンテ・ペーボ氏がネアンデルタール人のゲノム分離・解析に成功し、2022年のノーベル生理学・医学賞を受賞した時には、すでにその考えは考古学的証拠の前に崩れ始めていた。
それ以来、毎月のようにネアンデルタール人の才能や行動に関する新しい報告がなされてきました。
犬の専門家で作家でもあるマーク・ダー氏はPsychologyTodayのなかで次のように述べています。
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『例えば、ネアンデルタール人は30万年以上前にユーラシア大陸に出現した後、火を使いこなし、調理などさまざまな用途に使っていたようだ。
また、象牙に彫刻を施し、音声によるコミュニケーションも行っていたことはほぼ間違いない。
最近、リバプール大学セレン・カブク氏たちの研究により、ネアンデルタール人は一年中火を持っていただけでなく、火を使ってさまざまな食品を調理して食べていたことが明らかになった。
なお、アングリア・ラスキン大学(ケンブリッジ)科学技術学部生物学科のスチュワート・フィンレイソン氏らの2019年の論文によると、ネアンデルタール人はユーラシア大陸内で自由に使える最大の猛禽類を選択的に捕獲し、それが地域や地方の例外を除き、イヌワシであることが判明した。
ネアンデルタール人がイヌワシや他の猛禽類を捕獲したのは、その爪や羽毛を様々な儀式や装飾品に使用するためであったと思われる。
イヌワシと一緒に狩りをしたかどうかは不明だが、イヌワシの捕獲に費やした時間と労力を考えると、少なくとも飼いならすという試みをしなかったとは考えられない。
もしそれが本当なら、ヒト属が狩猟という特定の目的のために他の種を利用したことになり、現在のオオカミとホモ・サピエンスの最古の出会いよりはるかに早い時期になる。
オオカミから犬が初めて遺伝的に出現したのが13万5000年前と推測されているが、もし、犬の出現についてネアンデルタール人が関わっているとしたら。。
(マーク・ダ−氏:psychologytodayより)
ベルギー王立自然科学研究所のミーチェ・ジェルモンプレ氏はこう述べている。
問題は、ネアンデルタール人がオオカミや初期のオオカミ犬と何らかの関係を築き、利用することができたかどうかということである。
しかし、ネアンデルタール人は、クマ、猛禽類、ハイエナなど、他のさまざまな肉食動物と豊かな交流を持っていたのだ。
ハイエナとネアンデルタール人は、特に広範な関係を持っていたようだが、その境界は不明である。
ハイエナはネアンデルタール人の "犬 "だったのだろうかと思う人もいるかもしれない。
(2022年6月、Journal of Anthropological Archeolog「Being-with other predators: Cultural negotiations of Neanderthal-carnivore relationships in Late Pleistocene Europe(他の捕食者と一緒にいること: 後期更新世ヨーロッパにおけるネアンデルタール人と肉食動物の関係の文化的交渉)」シュモン・T・フセイン等)
後期旧石器時代の遺跡では、中期旧石器時代の遺跡とは対照的に、イヌ科の動物、特にキツネ、オオカミ、クマの歯で作られた大量の身の回り品が出土している。
研究者たちは、ネアンデルタール人が持っていなかった衣服の毛皮の縁取りを、ホモ・サピエンスがこれらのイヌ科動物を使って行っていたことを示唆している。
(2016年12月、Journal of Anthropological Archeolog「Faunal evidence for a difference in clothing use between Neanderthals and early modern humans in Europe(ヨーロッパにおけるネアンデルタール人と近世人の衣服使用の違いを示す動物相の証拠)」マーク・コラード等)』
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そうなると、ネアンデルタール人のような重要な種が、なぜ遺伝子の断片を残してこの世界から消えてしまったのだろうか?
そんなとき、最近マックス・プランク進化人類学研究所のローリツ・スコフ氏たちが、シベリアの洞窟で初めてネアンデルタール人の家族を発見し、成人男性とその娘と思われる女性のゲノムから、ネアンデルタール人の社会構造を明らかにしたという報告を行ったので、取り上げました。
(ローリツ・スコフ氏:theconversationより)
この研究によって明らかになったことが、ネアンデルタール人に絶滅の道を歩ませた理由なのかもしれません。
お馴染みスヴァンテ・ペーボ氏を含むこの科学者チームは、研究成果を昨年10/19、Natureに「Genetic insights into the social organization of Neanderthals(ネアンデルタール人の社会組織に関する遺伝学的洞察)」というタイトルで発表しています。
研究チームは、シベリアの雪深いアルタイ山脈にある洞窟の中に断片的な骨と歯を発見し、13人のネアンデルタール人に属する17の骨からDNAの塩基配列を決定し、さらに初めて知られたネアンデルタール人の共同体を発見しました。
12万年前頃、ネアンデルタール人はシベリア南部のアルタイ山脈に生息していたことが、先行研究によって明らかになっています。
南シベリアは以前から古代DNAの研究にとって非常に実りの多い場所であり、有名なデニソワ洞窟でもデニソワ人の遺骨が発見されました。
長年にわたり南シベリアでは多くの研究が行われており、今回研究者たちもネアンデルタール人の社会構造をより詳しく知るために南シベリアで分析を行いました。
これまでの研究で、ネアンデルタール人とデニソワ人が数十万年以上にわたってこの地域に存在していたことが判明していますし、ネアンデルタール人とデニソワ人は互いに交流していたことが、デニソワ人の父とネアンデルタール人の母を持つ子供の発見によって明らかになっています。
研究チームは、デニソワ洞窟から100km以内にあるチャギルスカヤ洞窟から11体、オクラドニコフ洞窟から2体の計13体ネアンデルタール人の遺体を分析しました。
この研究によって、現存するネアンデルタール人の完全なゲノム配列のほぼ2倍となったといいます。
(シベリアのチャギルスカヤ洞窟:smithsonianmagより)
ネアンデルタール人は、約54,000年前の短期間これらの洞窟に住んでいたようです。
ロシア科学アカデミー考古学・民族学研究所の研究者たちは、過去14年間にわたりチャギルスカヤ洞窟を発掘しており、数十万点の石器や動物の骨、80点以上のネアンデルタール人の骨や歯の破片が出土しました。
これらはこの地域だけでなく、世界でも最大級の化石人類の集合体になります。
マックス・プランク協会によると、チャギルスカヤとオクラドニコフのネアンデルタール人は、洞窟が見下ろす川の谷間を移動するアイベックス、バイソン、馬などの動物を狩り、数十キロ離れた場所で石器の原料を採取していたことがわかったと述べています。
(オクラドニコフ洞窟:dailymailより)
研究チームは、このネアンデルタール人たちは大人と子供のグループが狩猟キャンプに避難している間に死亡したと推測した。
短期間のバイソン狩猟キャンプと考えられるチャギルスカヤ洞窟の有機遺物は、放射性炭素年代測定で51,000〜59,000年前と推定され、花粉と動物遺体からは、ネアンデルタール人がチャギルスカヤを占拠した短期間の気候がかなり寒冷であったことを示しています。
またこれまでの研究では、足跡や遺跡の利用パターンからネアンデルタール人のコミュニティの規模を推定していましたが、今回のゲノム解析では、ネアンデルタール人は20人以下の生物学的に関連したグループで暮らしていたという仮説を直接検証しました。
論文によると、チャギルスカヤ洞窟で発見されたネアンデルタール人の遺伝子データからは、父親とその10代の娘、他の親族2名、その他7名の遺骨であることがわかり、ネアンデルタール人の家族関係を証明する最初の揺るぎない証拠が得られたという。
計13人のうちネアンデルタール人男性が7人、女性6人であり、大人が8人、子供が5人だった。
彼らの骨と歯17本からDNAを抽出した結果、母系から受け継ぐミトコンドリアDNA(mtDNA)、男系から受け継ぐY染色体DNA、そして核DNAという複数の遺伝的祖先を紐解くことができた。
(本研究に含まれるチャギルスカヤ洞窟(A、B)とオクラドニコフ洞窟(C)のネアンデルタール人の歯と骨。各パネルの白い棒の長さは1cm:theconversationより)
ミトコンドリアDNAの中には、ネアンデルタール人個体間で共有されるヘテロプラスミー(少数の世代にのみ存続する特徴的な遺伝的特徴)がいくつか発見されました。
この現象は、チャギルスカヤ洞窟で調査したネアンデルタール人が、同じ時期に生きて死んだことを示唆していると研究者は述べています。
またY染色体DNAの遺伝的多様性は、ミトコンドリアDNAのそれよりもずっと低いことがわかりました。
この研究では、このグループにおいて、2人の男性個体が生きている約450年前に祖先を共有していると予想されることを計算した一方、女性個体の場合、それに相当する推定値は約4,350年だったそうです。
研究チームは、チャギルスカヤの小さな集団にいた女性ネアンデルタール人の60%以上が、他のコミュニティから移住してきたというのが、この現象の最も適した説明だと述べています。
前述の父娘については、最初DNAの半分を共有していることがわかり兄弟か親子であると推測されたが、母から子へ伝えられるミトコンドリアDNAは異なっていることから、父と娘であることが判明したのです。
(父親の肩に乗るネアンデルタール人の娘。研究者たちはシベリアの洞窟で、他のネアンデルタール人の骨とともに父親とその娘の遺体を発見した:livescienceより)
またこの2人は、この遺跡で発見された他の個体とDNAの特徴を共有しており、その中には2親等以内の親族、つまり叔母、いとこ、祖母と思われる成人女性の可能性がある女性と男性も含まれていることが判明しました。
この父親は、他の2人の男性ともミトコンドリアDNAを共有しており、
「例えば、祖母を共有していた可能性もあります」
と研究チームは示唆しています。
このように異例ともいえる豊富な遺伝子データから、科学者たちはネアンデルタール人がどのように生活していたのか、仮説を立てることができた。
このように旅を続け様々な経験をしてきたネアンデルタール人たちだが、同じ時期に同じ場所にいた可能性が高いにもかかわらず、近くのデニソワ人と交わったという証拠はないらしい。
(ネアンデルタール人の生息域。紫色はチャギルスカヤ洞窟周辺:ancient-originsより)
研究者たちは、
「デニソワ人はチャギルスカヤのネアンデルタール人が生きるおそらく3万年前に共通の祖先を持ち、チャギルスカヤとオクラドニコフのネアンデルタール人の個体は、アルタイ山脈のグループの子孫ではなくすべてヨーロッパのネアンデルタール人と同じ血縁と見え、同じネアンデルタール集団に含まれていた」
と推定しています。
それは遺伝子データから明らかになり、さらにチャギルスカヤ洞窟の石器を含む考古学的資料はドイツや東ヨーロッパで知られているいわゆるミコキアの文化に最も似ているからだという。
また、これらのネアンデルタール人のゲノムセグメントの類似性の高さから、「チャギルスカヤ・ネアンデルタール人の地域コミュニティーの規模は小さかったと結論付けられた」と述べています。
父親から息子に受け継がれるmtDNAとY-DNAにモデルを当てはめたところ、最良のシナリオは「20人のコミュニティサイズを想定」し、女性の移動が「チャギルスカヤ・ネアンデルタール人の社会組織における主要因」となったと、書いています。
つまり一部の女性は生まれた集団にとどまるが、他の多くの女性は結婚相手が見つかれば新しい集団に加わるためにコミュニティを離れたというのだ。
しかし彼女が移り住んだ地域には、おそらく見知った顔がいただろうという。
このようなコミュニティは遺伝的多様性が極めて低く、古今東西の人類のコミュニティで記録されたものの中で最も低いものであった、と述べている。
この多様性は、マウンテンゴリラのような絶滅寸前の絶滅危惧種が1,000人程度で暮らす集団の規模に近いものだという。
しかし、この集団の規模がアルタイ地域以外でも適用できるかどうかはわからない。
スコフ氏はこのグループの死因について、
「バイソン狩りの失敗による餓死かもしれない」
と語り、
地質学者で共著者のリチャード・ロバーツ氏は、
「もしかしたら、ひどい嵐だったのかもしれない。
何しろ彼らはシベリアにいるのだから」
と述べています。
(リチャード・'バート'・ロバーツ氏:theconversationより)
この研究の上級著者であるベンジャミン・ピーター氏は、
「ネアンデルタール人がより親しみやすく、ある意味より人間らしく感じられるようになったと思います。
ネアンデルタール人は小さな家族集団で生活し、過酷な環境の中で死んでいった人々です。
それでも、彼らは何十万年もの間、荒れた環境で耐え抜くことができました。
これは大きな尊敬に値すると思います」
と語っています。
(う〜ん、ピーターさん「いいね」10コ進呈します)
(ベンジャミン・ピーター氏:マックスプランク進化人類学研究所より)
しかし、今回の研究には参加していないロンドンの自然史博物館で人類進化の研究リーダーを務めるクリス・ストリンガー氏は、遺伝的多様性の欠如は、約4万年前に姿を消したネアンデルタール人の絶滅に必ずしも大きな要因ではなかったと述べています。
ストリンガー氏によると、クロアチアのヴィンディヤ洞窟など、調査したグループと同時期に活動した他のネアンデルタール人の遺跡は、より大規模で多様な集団を示しているという。
(核DNAが抽出されたネアンデルタール人の遺体のあるすべての遺跡の位置。シベリアのアルタイ地方にあるチャギルスカヤ洞窟とオクラドニコフ洞窟をクローズアップしている。複数個体が存在する遺跡の場合は括弧内に個体数を記載:dailymailより)
研究者たちは、今回発見された家族集団は、ネアンデルタール人全体の社会生活を代表するものではない可能性があると述べている。
今後、より多くのネアンデルタール人の個体やコミュニティの遺伝子配列の決定を含む研究を行うことを推奨しています。
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う〜ん、この分野の研究内容は、書いていてもなぜか楽しいんだよなあ(笑)
ネアンデルタール人のゲノム解析が可能になってからそんなに時間は経っていませんが、今回の発見によって多くのことがわかってきました。
おぼろげながら、ネアンデルタール人の実像が見えてきましたね。
真実はまだ先でしょうが、今後の進展は早そうです。
今後も注視していきますよ。//
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古代DNA解析は、古代の集団の遺伝的構成や移動パターンを知ることができる強力なツールであり、スヴァンテ・ペーボ氏がこの成果で昨年ノーベル生理学・医学賞を受賞したことはご存じの通り。
旧石器時代の狩猟採集民は、26,000〜19,000年前頃の氷期による海面低下期にシベリア北東部とアラスカ西部の間にできた陸橋(ベーリンジア又はベーリング陸橋)から北米大陸に入ったことを示す証拠があるそうです。
南米大陸の場合、古代人骨の遺伝子研究により、この大陸に最初に人が住み始めたのは約1万5千年前、ベーリング陸橋を渡り北米から南下してきた人々であった可能性が高いことが明らかになっています。
南米に最初に住んだのは、特徴的な尖頭石で知られるクロヴィス文化圏の人々(※)であったといわれています。
その後、数千年の間に、さらに多くの民族が移動し、遺伝子を受け継いだと考えられている。
(※:2/18のlivescienceに「人類はどのようにして初めてアメリカ大陸に到達したのか」というタイトルで、クロヴィス人やそれ以前の人々の移動ルートについて記事を載せていますので、参考までリンクしておきます。ホントは翻訳して載せればいいんですが、時間切れでゴメンナサイ)
(ブラジル12(ブラジル北東部)の骨格が発掘されたアウコバサ遺跡:ancient-originsより)
アメリカ大陸は、人類が最後に定住した大陸です。
そして最近、考古学的およびゲノム学的な証拠が増えつつあることで、複雑な移住の過程を示唆しています。
特に南米では、予期していなかった祖先の情報によって、この大陸の初期の移住について未解明のシナリオを提起しているそうです。
例えば、最初の人類は太平洋沿岸を南下したのか、それとも別のルートで移動したのかなど、多くの疑問が残されています。
古代先住民がアメリカ大陸に移住した当初、南北に移動したことを示す考古学的証拠がある一方で、古代人が移住した後、どこに行ったのかは謎のままでした。
フロリダアトランティック大学(FAU)の研究者は、ブラジル北東部のペドラ・ド・トゥバランとアウコバサの2つの遺跡から発見された古代人のDNAを、強力なアルゴリズムとゲノム解析を用いて、エモリー大学との共同研究により南米の複雑で深い人口動態史を地域レベルで解明し、予想外の驚くべき結果を得ました。
研究者たちは、南米に向かう北から南への移動という既存の考古学的データを支持する新たな遺伝的証拠を提供することに加え、大西洋岸に沿って逆方向への移動を初めて発見しました。
この研究は、複雑な古代の中南米への移動ルートについて、これまでで最も包括的な遺伝的証拠を提供するものだという。
そしてその中でも大きな発見は、古代南米人のゲノムからネアンデルタール人の祖先を示す証拠が発見されたことです。
Proceedings of the Royal Society B (Biological Sciences)」に掲載された「Genomic evidence for ancient human migration routes along South America's Atlantic coast(南米の大西洋岸に沿った古代人の移動ルートを示すゲノム上の証拠)」というタイトルの研究結果によると、大西洋岸に近い人類の動きは、最終的に古代のウルグアイとパナマを南から北への移動ルートで結び、その距離は5,277キロメートルであったことが判明しました。
古代の個体の年齢から推測すると、この斬新な移動パターンは約1,000年前に起こったと考えられています。
今回の解析では、ブラジル北東部で新たに塩基配列を決定した2種類の古代全ゲノム(2人の古代人の歯から得られたゲノム)と、現在のゲノムおよび南米やパナマで採取した他の古代全ゲノムとを比較した結果、メソアメリカ(現在のメキシコと中央アメリカの一部)と現在の南米人、およびブラジル北東部と南東部、ウルグアイ、パナマの古代人の間に明確な関係があることがわかり、南米に人がどのように広がっていったかを明らかにすることができたといいます。
(研究者はブラジル北東部の遺跡で採取された古代の試料から歯を使用しました。歯は歯内の生体物質の保存性が優れているため、古代のDNA解析において特に重要です:ancient-originsより )
例えばこの2つのゲノムは、9,000年前にブラジル南東部に住んでいた人物との間に明確な関係があることが示されました。
またこの古代の移住者は、ウルグアイやパナマなど、はるか昔に亡くなった人たちとも関係があった。
これらのことから、南米に最初に到着した人々はまず太平洋岸を南下していき、南米大陸の南部に到達した後、少なくとも1つのグループが主要な集団から分かれて東に向かい、ブラジルの大西洋岸にあるラゴア・サンタという場所に向かったと考えられるという。
この地域で最も古い人骨の年代から、著者は「分裂は少なくとも1万年前に起こった」と結論付けています。
ラゴア・サンタに到達した後、異なる集団が北へ南へと移動し始め、最終的には約1,000年前までにパナマとウルグアイを結ぶ大西洋の移動ルートが形成されたということです。
このことから、南米は当初、太平洋岸を南下する波によって人口が増加し、太平洋岸とアンデス山脈の大部分への入植の後に、大西洋岸を北上する第二の波によって人口が増加したことが初めて確認されたのです。
(南米の移動パターンを描いた画像:研究論文より)
「今回の研究は、南米の大西洋岸に沿った地域スケールで古代の移住イベントを示す重要なゲノム証拠を提供するものです。
これらの地域的な出来事は、太平洋沿岸に近い南米の初期先住民を巻き込んだ移動の波に由来すると考えられます」
と、ヒトゲノム、進化ゲノム、計算ゲノムを専門とし、FAUの工学部およびコンピュータサイエンス学部で准教授を務める共同執筆者のマイケル・デジョルジオ博士は述べています。
(マイケル・デジョルジオ氏:フロリダアトランティック大学より )
そしてさらに、パナマの古代ゲノムの中に、オーストラレーシア(オーストラリアとパプアニューギニア)の強い遺伝的情報をも発見しました。
(このオーストラレーシアの情報は、以前ブラジル南東部の古代遺跡から検出されたもので、現在もアマゾンのシルイ族に存在するそうです)
「オーストラレーシアとアメリカ大陸の間には太平洋があり、これらの祖先のゲノム情報が、北米に痕跡を残さずに中南米にどのように現れたのかは、まだわかっていません」
と、筆頭著者で考古学者、FAUの電気工学・コンピューター科学科の博士研究員であるアンドレ・ルイス・カンベロ・ドス・サントス氏は述べています。
(アンドレ・ルイス・カンペロ・ドス・サントス氏:linkedinより)
サントス氏によると、古代の北米の遺跡にはオーストラレーシアのシグナルを示す証拠はなく、古代のオーストラレーシア人がベリンギアを横断せずにアメリカ大陸に到達した可能性を示唆しています。
このため研究チームは、今後の研究でより古代のアメリカ先住民や現在のポリネシア人のゲノムを調べることを希望しています。
「アメリカ大陸のオーストラレーシア人の祖先は、空間と時間を大きく隔てた孤立したサンプルについて報告されており、明確なパターンを示さないため不可解です。
このような祖先は、オーストラレーシア人が有能な船乗りであったことから、ベーリング海以外の太平洋を横断するルートによる移住とともに広まった可能性がありますが、オーストラレーシア人がアメリカ大陸に渡ったという証拠はありません」
と、この研究に関係していないハーバード大学の遺伝学者ヨシフ・ラザリディス氏は、述べています。
そしてさらに興味深いことに、研究者たちはパナマとウルグアイの古代住民にデニソワ人とネアンデルタール人の祖先を発見したのです。
しかしここで驚いたのは、これらのゲノムにはネアンデルタール人よりもデニソワ人のDNAの方が多く含まれていたことです。
(アメリカ大陸の古代個体の深い祖先と古代南米とパナマの古代の祖先を描いている。円グラフの半径は、個体で共有される古代の祖先の割合を反映している:ancient-originsより)
現在の私たち、つまり世界中のホモサピエンスのほとんどはその逆で、ネアンデルタール人の方がデニソワ人よりも多いといいます。
この論文の共同執筆者で、古代DNA解析を専門とするエモリー大学人類学部のジョン・リンド助教授は、
「デニソワ人の祖先が南米まで到達したことは驚異的です。
混血はずっと以前、おそらく4万年前に起こったに違いありません。
デニソワ人の系統が存続し、その遺伝的シグナルが、わずか1,500年前のウルグアイの古代個体に入った(デニソワ人の祖先は4万年も前に南米の人類に混じっており、そのシグナルはウルグアイの1,500年前の個体の遺骨に残っていた)という事実は、ヒトの集団とデニソワ人の間の大きな混血事象があったことを示唆しています」
と述べています。
(エモリー大学の人類学者ジョン・リンド氏は、古代DNAラボでアメリカ大陸のほとんど調査されていない人類の血統をマッピングすることを専門としている:エモリー大学より)
このことは、大西洋岸に複数の祖先の複雑な移動の波があったことを示唆していると、研究者は結論付けています。
「古代ネイティブアメリカンのゲノムにこれらの祖先が存在することは、解剖学的に現代人とネアンデルタール人やデニソワ人との交雑のエピソードで説明できます」
と、サントス氏は述べています。
リンド古代DNA研究所は、アメリカ大陸のほとんど調査されていない人類の血統のマッピングを専門としていますが、これまで南米の古代DNAの配列決定にはほとんど焦点が当てられていなかったといいます。
その理由の一つは、南米大陸の大部分は温暖で湿度の高い気候であるため、有用な古代DNA標本の収集が困難だったことでした。
「本論文の発表時点で、南米大陸の古代ゲノムの配列が決定され、公表されたのはわずか12件に過ぎません。
南米大陸で発表された古代ゲノムの配列は、ミトコンドリアDNA(母方遺伝によってのみ伝えられる)と標的DNA配列(ゲノムの1パーセント未満を捕らえる)に限られていました。
この論文では、南米で入手可能な古代の全ゲノムを全て分析し、いくつかの驚きを発見しました。
南米の全ゲノムがより多く配列決定され公開されれば、南米がどのように最初に定住したのかについて、より多くのニュアンスが明らかになる可能性があります」
とリンド氏は指摘しています。
(qsstudyより)
ブラジル北東部、ウルグアイ、ブラジル南東部、パナマの試料を産出した遺跡では、集団埋葬が行われていたことを除けば、これらの遺跡の間で文化的特徴を共有していることを示す証拠は考古学的記録には存在せず、さらにブラジル北東部、ウルグアイ、パナマは、年代が近いとはいえ互いに数千キロメートル離れた場所に位置しています。
しかし重要なことは、ブラジル南東部からの分析対象者は、ブラジル北東部、ウルグアイ、パナマからの分析対象者よりも約9,000年古く、文化的分岐が予想され、顕著になるのに十分な時間があることだといいます。
今回の研究結果は、これらの初期入植者の移動と祖先について新たな光を当てるものですが、得られた知見は、この地域の遺伝的歴史が私たちの想像以上に複雑であることを示唆しています。
**********
今回の研究では、多くの興味深い発見がありましたね。
・パナマの古代ゲノムの中に、オーストラレーシアの強い遺伝情報を発見したこと。
・パナマとウルグアイの古代住民に、デニソワ人とネアンデルタール人の遺伝情報を発見したこと。
・そしてこれらのゲノムには、ネアンデルタール人よりもデニソワ人のDNAの方が多く含まれていたこと。
数万年前の古代人が優秀な航海術を持った人たちであったことは、旧石器時代の日本(琉球)に海を渡って到達したヒト属がいたことを考えれば明らかだと思いますが、南米の古代人がデニソワ人とネアンデルタール人の旧人類遺伝情報をどのようにして有することになったか、そしてどうしてデニソワ人のDNAの方が多く含まれていたのか、この辺はとても興味のあるところです。
ベーリンジアを渡ったホモ・サピエンスの中には、デニソワ人と交雑した人たちの子孫が多くいたんでしょうね。
なんだか多くのドラマがあったような気がします。
より多くの古代のゲノムが解読されれば、我々ホモ・サピエンスがどのように大陸に分散していったのか、また私たちを人間たらしめているものの多くが、実は滅んでいった数多くのヒト属のDNAが融合しているからこそ生まれたものではないのか、科学者が今後より完全な答えを導き出すことであろうことを期待しています。//
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「やだねえ、今年ももう終わりかい?
早いわねえ」
「毎年言ってるけど、このあいだ正月になったばっかりだと思ってたのになあ」
「おや、玄庵先生じゃねえですか。
どうしたんです?」
「どうしたじゃないよ、今年もあと数日だからな、年末の挨拶に来たんだ」
「この一年いろいろありましたねえ、今年もお世話になりました」
「今年は想定外のことがあったからなあ。
北のおろしや国は隣の国に侵略戦争をしかけたそうな。
理不尽に戦争をしかけられたほうは、いい迷惑だよなあ、必死に頑張って抵抗しているらしい。
この戦いの影響で、世界中で物資の不足やら物の値段が上がって大変になっているっていうぞ。
日本はいま鎖国しているからいいが、いつかは開国して世界中と商売をするようになると思うが、そのときにこんな状況が起こっても困らないように、日本の中で自給自足できる体制をちゃんと作っておかないといけない。
我々の子孫が苦労することにならないように、お上が危機管理をしっかり考えておかなければいけないんだが、さてどうなるか、未来の日本人におまかせすることになるがね」
「そうですかい。
ところでおろしや国とか隣の国の民族って、どんな風貌をしてるんです?」
「どうもな、日本人よりも色が白いが体が大きくて、寒いところだから毛深いそうだ。
しかしな、日本にも遠い昔にそんな人たちがいたかもしれないという者もおる。
日本を作ったイザナギ、イザナミやアマテラス、スサノオなどの神様がやってくるよりずっとずっと昔のことだ。
遠く西のほうからやってきた、我々のような人間に似た人たちだ。
その民たちはみな心優しく、お互いに慈しんで生活していて、涅槃に至ったと思えるような民だったそうな。
それゆえに「涅槃の国から出でたる民」と言われるが、通称”涅槃出たる人”と呼ばれているらしい。
色が白く、目の上が少し隆起していて鼻が大きく、身体がずんぐりして頑丈なのだそうな」
「神様が日本を作る前ですかい?
それ誰が言ってたんです?」
「管理人だ」
「アイツか。
怪しいなあ、マユツバだな、あの人妄想癖があるからなあ」
「いやその証拠は、いまの我々にその涅槃出たる人の性質が引き継がれているということだそうな。
罹りやすい病気だとか煙草や酒への依存症があったり、冬になるとよく眠くなってじっとしているとかな。
いまの我々には問題になるが、当時は何かしら生きるために役立っていたんだろうがね。
そういや、熊さんは酒好きで、毎日飲まないと気が済まないだろ。
それに寒いと、布団の中からなかなか出られなくて、一日中ゴロゴロしてるんじゃないのか」
「おい熊さんどうした、遠い目をして」
「ああっ!思い出したぞ。
遠い遠い昔、それは雪の降りしきるなかだった。
オレは獲物を探してあてもなく歩いていたんだ。
夜は寒いと、狼に温めてもらって寝ていたよ」
「何言ってんだい、この間大酔っ払いで夜中帰ってきたようだけど、かなり寒かったんだろうねえ、朝になったら軒下でポチと抱き合って寝ていたじゃないか。
たぶん、それのことじゃないのかい。
まったく、飲み過ぎなんだよ」
「そうだったかなあ、しかし八っつあんのあの長走りも依存症じゃねえのか。
たぶん、あれは涅槃出たる人の性質を受け継いでるな」
「呼びました?」
「また来た、呼んでねえって」
「まあ長い時間走り続けるのは、涅槃出たる人に限ったことじゃない。
それは我々ヒト属の特質なんだ。
そういう意味では、八っつあんは我々の得意な能力を十分に発揮しているということだな。
来年は熊さんも、古代人からもらったヨッパライの性質を活かせるようにしたらどうだい?」
「そうだなあ、そういえば先生、けっこうイケるくちだって聞きましたよ。
どうです、こんど飲み比べしやせんか」
「まあそりゃ嫌いじゃないが、そういうことじゃなくて、全国のいい酒を飲み比べてどこがどう旨いか、瓦版屋にネタを提供するとかしたらどうだってことだ」
「なるほどねえ。
そうだ八っつあん、けっこういろんな土地に行くことあるんじゃねえか。
飛脚仕事のついでに、その土地のいい酒を買ってきてくれねえか」
「いや〜〜、ちょっと待って。
あっしは書状専門なんで、そんな重いもの持って帰れねえですよ」
「おまいさん、自分でどこでもあちこち行って飲んでくればいいじゃないか。
あたしはかまわないよ、仕事さえしてくれればね。
日帰りで帰ってこれるだろ」
「またまた出たあ〜、かかあの無理やり日帰り指令!
やれやれ、来年もまた歩かされそうだ」
**********
小話ですが、少し行間を広くしてみました。
読みやすくなったかな。
涅槃出たる人、ねはんいでたるじん、ネアンデルタール人
ん〜、苦しい(笑)
さて、熊さんがネアンデルタール人の生まれ変わりかどうかはわかりませんが、玄庵先生の話していたネアンデルタール人の姿形やホモ・サピエンスとの違いなどについて、溝口優司著「[新装版]アフリカで誕生した人類が日本人になるまで」に解説されていますので、少しだけ引用します。
ネアンデルタール人は、熱を放出しにくい体形をしているなど体が寒冷地適応していた。
ヨーロッパで暮らし始めたクロマニョン人は出身地アフリカの暑い気候に適応した姿形をしていた。
背が高く前腕と下腿が長くすらっとした熱を放出しやすい体形をしている。
顔は上下に長く平坦で幅広く、鼻は現代ヨーロッパ人よりは幅広いもののネアンデルタール人よりは小さいという特徴がある。
道具によって寒さから身を守れるようになったため、ネアンデルタール人のように熱を放出しにくいずんぐりとした体形や外気を十分に温め湿らせられる大きな鼻にならなかった。
しかし最寒気に向けて気温が下がるにつれて、多少は寒冷地適応をしたようで、後期のクロマニョン人は初期のクロマニョン人に比べるとずんぐりした体形をしている。
おそらく(肌の)色も白くなっていったものと思われる。
(中略)
寒冷地適応とは、寒冷な環境に適応して形質を変化させること。
例えば、熊は寒い地域では体が大きくなり、耳などの出っ張りは小さくなっていく。
なぜかというと、一つには体が大きいほど熱を体内に溜め込みやすく、体外に放出しにくくなるから。
同じ種類の動物であれば寒いところへいくほど体が大きくなるという法則があり、これを「ベルクマンの法則」という。
もう一つ、寒いところにいくほど凸凹が少なく丸くなるという法則を「アレンの法則」という。
例えば中国では、南の方の人は小さく、北に行くほど大きくなることが知られている。
日本でも南方起源だとされる縄文人は小さく、北方起源だとされる弥生人は大きいという特徴がある。
またアフリカの密林地帯に住む人々は体が小さく、熱を溜め込まない体形をしているし、サバンナや西アジアの砂漠地帯に住む人たちは手足が長くすらっとした表面積の大きい体形をしている。
これに対し、北アジアや北極圏に住む人たちは手足が短くずんぐりした熱を溜め込みやすく放出しにくい体形をしている。
(溝口優司著「[新装版]アフリカで誕生した人類が日本人になるまで」)
今年のクリスマスは全国的に寒波の影響を受けて、苦労されている方が多いと思います。
雪のクリスマスといえばイメージはいいですが、大雪に悩まされている地域は大変ですね。
そして戦争で苦しんでいる国の人も、コロナでツラい人も、ひとりぼっちで寂しい人も、聖なる夜に口笛を吹きながら、”今夜は大丈夫さ”と言えるといいのですが。
メリークリスマス!!//
(佐野元春「Christmas Time in Blue - 聖なる夜に口笛吹いて:mybarbugさんありがとうございます)
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まあそれだからこそ、未知の歴史を究明し真実を知ることに面白さがあるんでしょう。
今回の発見と研究報告は通説の人類アフリカ誕生説に対し一石を投じるもので、とても興味深いものです。
ヒト属の進化がアフリカだけに限らず同時多発的に起こったというのは、確かにカンブリア紀の大爆発※などのように歴史の中ではありうることなので、可能性がないとはいえないでしょうね。
(※:2018年の論文によると、カンブリア紀に生じた突然の生命の増加は、地球が有機分子を含んだ彗星が地球に衝突した結果だと発表していますし、また2018年6月に行われた第19回酵素応用シンポジウムの企画講演で東京薬科大学生命科学部の山岸明彦名誉教授が「宇宙での微生物暴露実験と将来の生命探査計画」と題した講演を行っていますが、資料の中で「銀河の分子雲中には多種の有機分子の存在が明らかとなった」と記載していて、数億年前に太陽系がこの有機分子雲の中を通過していれば地球に降り注いだということもあるかもしれませんね。
いや、今回はその話ではありませんでした笑)
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ヒト属の歴史は約400万年前に霊長類から始まったとされていますが、それによって最初のヒト科の動物は他の四足類人猿から分離し、二足歩行の進化が始まったと考えられています。
二足歩行によって、ヒト属は完全に腕を自由に使えるようになり、また親指が他の4本指と向かい合う形状に変化したおかげで物が握れるようになり、やがて道具を作ったり、木の実を取るために背伸びをしたり、社会的表示やコミュニケーションに手を使ったりできるようになったといわれています。
(砂の中の足跡。2017年にクレタ島のトラキロス付近で確認された初期人類の先達の50以上の足跡のうちの1つ。年代測定技術により、現在では600万年以上前のものであることが判明している:scitechdailyより)
Natureのscientific reportsに昨年10/11掲載された新しい研究「Age constraints for the Trachilos footprints from Crete(クレタ島から出土したトラキロスの足跡の年代制約)」によれば、テュービンゲン大学人類進化・古環境センターのウーヴェ・キルヒャー氏とマドレーヌ・ベーメ氏が率いるドイツ、スウェーデン、ギリシャ、エジプト、イギリスの国際研究チームは、2002年にギリシャのクレタ島の堆積石板から発見された足跡を検証したところ、605万年前の先住人類によるものであったと発表しました。
(足跡はギリシャのクレタ島の西端にあるトラキロス村の近くにある:dailymailより)
今回、新たな年代測定により、当初考えられていた570万年前よりも35万年ほど早い605万年前に足跡がつけられたことが判明し、二足歩行として使われたヒトに似た足の直接的な証拠として、これまでで最も古いものになる可能性があることが明らかになりました。
(この時代は、地質学的に中新世と呼ばれる時代に相当します)
このクレタ島の足跡が世界最古のものとなれば、ダーウィンの「アフリカから生まれた説」に疑問を投げかけるものになるかもしれない。
つまり、この足跡が初期人類の進化に関する科学者の理解を覆し、ヒト属の出発点をアフリカから地中海に移す可能性もあるのかもしれないということです。
クレタ島の足跡がアフリカ出自説に挑戦!?
クレタ島に残る50個以上の足跡群は、精巧な年代測定技術によって年代が測定され、この分析結果に至っているわけですが、その研究と主張内容は、人類の進化の時間軸に関する従来の理解を覆し、いま深い論議を呼んでいます。
まずこの足跡は、2002年にポーランド地質学研究所(ワルシャワ)のジェラルド・D・ジェリンスキー教授が、休暇中に島の西端にあるトラキロス村付近の古代地中海海岸で形成された一種の堆積岩の中から発見したことから始まります。
(ジェラルド・D・ジェリンスキー氏:researchgateより)
発見当初、ジェリンスキー氏は、この足跡は、前肢を土に押し付けた形跡がなかったことから二足歩行の猿のものであると推論した。
その10年後彼はこの地に戻り、古地磁気と微古生物学の手法を用いて海底の藻類とその下にある堆積岩の表面の年代を測定したところ(堆積岩の中に見られる有孔虫の化石を調べた模様)、この岩石は約560万年前に形成されたことがわかり、足跡はその約10万年前(570万年前)のものであると判明した。
「これは、人類の最初の祖先として広く認識されているタンザニアのラエトリから出土したアウストラロピテクス・アファレンシス(ルーシー)の足跡よりも250万年近く古いものです」
とウーヴェ・キルヒャー氏は述べています。
(しかし、アフリカではもっと古いヒト科動物の化石が見つかっており、人類の系統はルーシーの種をはるかに超えていることが示唆されている)
(ウーヴェ・キルヒャー氏:google scholarより)
2017年の先行研究の論文で、この足跡が初めて約570万年前の中新世とされたとき、著者たち(ジェラルド・D・ジェリンスキー、パー・アールバーグ氏、マシュー・D・ベネット氏など)は、古代クレタ島の足跡と人類の足跡の間に見られる重要な類似点を指摘し、一般的なアフリカで生まれ、後に世界に進出したという説に異議を唱え、初期の人類がユーラシアとアフリカを放浪した証拠が他にもあるとし、通説に挑戦したと述べています。
しかし、この足跡は類人猿のものであり、クレタ島のヒトの足跡ではないと主張する学者もいて、最初の研究の結論はすぐに反故にされてしまいました。
ところがNatureに掲載された第二の研究の新しい出現証拠は、先の主張をさらに30万年分前に戻し、形態学的な人間の類似性を主張を再び強めています。
アフリカ出自説は、チャールズ・ダーウィンがその代表作「人間の進化」(1871年)の中で唱えたもので、解剖学的に現代人の起源と初期の拡散はアフリカ大陸からであると主張したものです。
(この説は、1980年代に現在のミトコンドリアDNAの研究と古代の標本の身体人類学に基づく証拠によって裏付けられるまで、推測の域を出ない概念でした)
(クレタ島の足跡を間近で見ると、最終的に人間のような足跡が浮かび上がってくる。(マシュー・ロバート・ベネットとパー・アールバーグ The Conversation ):ancient-originsより)
分離進化の背景には、環境的な理由が?
そして研究チームは、レーザースキャンと3Dプリンターによる解析を行った結果、球形領域、引き上げ動作、外反母趾といった、ヒトの祖先と結びつく重要な特徴や反論の余地のない証拠を発見したのです。
この二足歩行の古代人が誰であれ、現代のヒト科動物の祖先であり、現代の二足歩行類人猿への連鎖の一歩を表しているのではないかと、ジェリンスキー氏と研究チームは推論している。
「直立歩行に使われた人類最古の足は、球形で、強い平行の母趾と、順次短くなる側趾があるなどのヒト特有の特徴がある一方、足の裏はアウストラロピテクスよりも短かく縦長の内側アーチはまだ顕著ではなく、踵はより狭く(非球状)なっていたなど霊長類にも見られる観察可能な特徴があります」
と2017年と2021年の両研究の共著者であるウプサラ大学のパー・アールバーグ教授は述べています。
(パー・アールバーグ氏:theconversationより)
著者たちによれば、「ゾクゾクするほどヒト科に似ている」のだといいます。
これによりこの足跡は、アフリカで最も古い直立二足歩行として知られるケニアで発見され610万年から580万年前に生息していたオロリン・トゥゲネンシスの化石と同じ年代となった。
ただ、この二足歩行動物に関連する発見物には大腿骨があるが、足の骨や足跡はないそうだ。
トラキロスの足跡は、オロリン・トゥゲネンシスと並行して発展した種によって作られた可能性があり、両者を合わせると二足歩行ヒト科動物の最古の証拠となるのです。
(古人類学の最近の研究で、アフリカの類人猿サヘラントロプスが二足歩行である可能性は否定されている)
(610万年〜580万年前に生息していたケニアのオロリン・トゥゲネンシスの想像図:dailymailより)
そのため、トラキロスの足跡の持ち主と他の初期ヒト属との正確な関係については不明な点が残っているものの、今回の年代測定は600万年以上前のヒト属の初期の歩行進化に新たな道を開くものになるわけです。
600万年前、クレタ島はペロポネソス半島を経由してギリシャ本土とつながっていたようです。
ベーメ氏は、
「これらの足跡が、720万年前のヨーロッパに生息し、これまで知られていなかった先住人類、クレタの足跡からわずか250キロしか離れていないアテネで発見されたグラエコピテクス・フレイベルギ※と関連を否定することはできません」
と主張しています。
※:1944年に発見され、"エル・グラエコ "というニックネームで呼ばれた初期人類の祖先。
2017年の論文によると、化石が見つかった地層を地質学的に分析し、グラエコピテクス属が活動していた環境を推定したところ、当時は北アフリカの広い範囲で乾燥化が進み、塩分を含んだ砂塵がヨーロッパに吹き付けていた。
砂塵を含んだ大気で太陽が遮られ、地中海の表面温度は約7度まで低下。地中海沿岸の劇的な寒冷化によって、南ヨーロッパではサバンナの草原が広がるようになったことがわかった。
カナダ・トロント大学古人類学者のデービッド・ビガン氏は、
「この年代から、ヒトとチンパンジーの分岐が地中海エリアで生じたと考えることができる」
と語っている。
ベーメ氏は、類人猿からの分岐の背景には環境の変化があった可能性が高いとし、700万年以上前に形成された北アフリカの砂漠や南欧のサバンナ化が、ヒトとチンパンジーとの分岐において中心的役割を果たした可能性があると説明する。
「仮に、グラエコピテクス属化石がチンパンジー系統と分岐した後の人類系統に分類され、推定年代も妥当なのだとしても、チンパンジー系統と人類系統との分岐も含めて、ヒト科系統の主要な分岐がアフリカで起きた可能性もまだじゅうぶんあると考えられ、彼らは森林環境だけではなく開けた草原環境への適応能力にもなかなか優れていたため、アフリカからヨーロッパへと進出したものの、その後の気候変動や他種との競合などが原因で絶滅したのではないか」
と言う人もいる。
(マドレーヌ・ベーメ氏:academia-netより)
研究者たちは、625万年前に始まったメソポタミア地域の乾燥化によりサハラ砂漠が短期間に拡大したことで、多くの哺乳類、特に霊長類がユーラシアからアフリカへの移動が始まった可能性があると考えている。
一方、600万年前にサハラ砂漠によって大陸が封鎖された第2期では、オロリン・トゥゲネンシスが、ヨーロッパの先住人類と並行して別々に進化したことを説明できるかもしれないという。
(ベーメ氏はこれを、いわゆる「砂漠のブランコ」原理と呼んでいます。
この説によれば、約625万年前にメソポタミアで、そして600万年前にサハラで連続して起こった短期間の砂漠化によって、ユーラシアからアフリカへの哺乳類の大移動が起こり、古代のヒトと霊長類が別々の、しかし潜在的には類似した進化の道を歩み出したのだろうと考えられるとのこと)
しかし仮にこの足跡がヒト科のものであったとしても、アフリカが人類発祥の地であるという考えをまったく否定はできない。
グリフィス大学の古生物学者で古生態学者のジュリアン・ルイス氏は、過去200万年間のヒトの進化を研究しているが、足跡は化石や歯などの身体資料を伴わなければ推論が難しいことで有名だという。
「足跡は気まぐれなもので、化石や歯のような物質的な証拠がなければ、正しく理解し、裏づけることはできません。
また、足跡は堆積後に変形しやすく、自然界における風化や侵食の起こり方を考えると、特定の種に結びつけることはさらに難しくなります。
足跡の研究者は、足跡の命名と分類に対処するために、独自の分類体系を持っているほどです。
いくつかの足跡は、二足歩行の動物のように見えますが、他の多くの足跡は、非常にあいまいで、大きさもまちまちです。
中には全く足跡に見えないものもあります」
とルイス氏は言っています。
(ジュリアン・ルイス氏:グリフィス大学HPより)
ルイス氏は、この足跡は、二足歩行のヒト科動物のものである可能性があるが、ヒト科動物、つまり、ヒトとは関係のない別の類人猿的生き物のものである可能性もあると考えている。
そしてルイス氏は、
「移動が双方向であったことを示唆することは議論の余地はないでしょう。
この新しい論文で主張されている興味深いことは、この二足歩行ヒト科動物のヨーロッパからアフリカへの移動が証明されていることです。
大陸間の移動に関する我々のすべての研究は、それが単なる一方通行ではないことを示しているのです。
だから、これらがヒト科の足跡であると額面通りに受け取るとしても、それらがヨーロッパで発生し、その後アフリカに移動したことを示すものではなく、それらがアフリカで発生しヨーロッパに移動した可能性も等しくあるのです。
この種の移動と帰還の繰り返しは、哺乳類の世界全体で証明されています。
多くの大型哺乳類がこのような動きをしているのです。
地質学的なタイムスケールでは、アフリカ、ヨーロッパ、アジアの間で絶え間ない交流が行われています」
とも語っている。
(トラキロス村海岸:the-pastより)
科学者の中には、この研究の主張に懐疑的で、グラエコピテクス・フレイベルギという種が存在したことさえ疑っている者もいる。
研究者は、体の化石が見つかっていないため注意が必要であることを認めており、他の考古学者も懐疑的な見方を示してはいるが、今回の研究のチームは、「この足跡の持ち主は原始的な二足歩行のヒト科の動物であると暫定的に特定することができる」と考えているとのこと。
ヨーロッパに先住人類の足跡があるとすれば、ヒトの進化に関するこれまでの常識が覆されることになるが、しかしトラキロスの足跡が収斂進化(同じ機械的特徴が別々の種で独立して進化したこと)の一例である可能性もありえるという。
ただ、このトラキロスの足跡自体には、そのような収斂を示唆するものは何も見つかってはいません。
**********
トラキロスの足跡が人類とどのような関係にあるのか、系統樹のどの位置にあるかはさておき、初期ヒトの進化を理解する上で極めて重要な情報源であることは間違いないし、今回の研究で、この足跡の年代はより信頼できる地質年代学的な根拠に基づくものとなったことは成果かと思います。
今後さらに分析を進めていくなかで、この判明した年代基づいて、トラキロスの足跡の真実とヒト属との関係をより正確に評価できるようになることを期待したいと思います。
(ギリシャ・クレタ島トラキロスの海岸で見つかった50個のクレタ島足跡の2017年航空写真( ポーランド地質研究所 ):ancient-originsより)
研究チームは論文の中で、「ヒト属の進化史と分散パターンは複雑なため、まだまだ議論の余地がある」とも説明しています。
「多くの出版物がアフリカ起源を指摘しているが、最古のヒト科動物はユーラシアで進化した可能性があるという証拠もある。
また、ヨーロッパに中新世のヒト属が存在したことを示す証拠としては、体や足跡の化石が挙げられます」
と彼らは付け加えている。
何百万年も前に誕生した古代人の祖先となると、厄介で複雑な網の目のようなものを解き明かさなければならないのは容易に想像できます。
「霊長類が多様化し、最終的に人類が進化したこの興味深い時期を、どこで最初に起こったかにかかわらず、よりよく理解するために、現場の研究者たちは、より多くの足跡や、よりよい身体の化石の発見に乗り出すことになるのです。
この種の科学の真髄は、探索、発見、証拠に基づく推論、そして議論にあります。
この論文が議論を刺激し、さらなる発見を促すことを期待したい」
と2017年にパー・アールバーグ氏とボーンマス大学のマシュー・ロバート・ベネット氏は述べています。
(マシュー・ロバート・ベネット氏:theconversationより)
ヒト属を含む霊長類の発生年譜がdailymailに記載されてましたので、最後に把握しやすいように今回の話の登場人物も参考に加えて載せました。//
人間の複雑な進化
5,500万年前:最初の原始的な霊長類が進化する。
1,500万年前:テナガザルの祖先からヒト科(類人猿)が進化する。
800万年前:最初のゴリラが進化する。その後、チンパンジーとヒトの系統が分岐する。
720万年前:グラエコピテクス・フレイベルギがヨーロッパに生息(アテネで発見)
610万年-580万年前:オロリン・トゥゲネンシスがアフリカに生息(ケニアで発見)
605万年前:ギリシャの先住ヒト属(クレタ島で発見)
550万年前:初期の「原人」であるアルディピテクスは、チンパンジーやゴリラと形質を共有する。
400万年前:猿に似た初期人類、アウストラロピテクスが出現。脳はチンパンジーと変わらないが、より人間に近い特徴を持つ。
390-290万年前:アウストラロピテクス・アファレンシス(ルーシー)がアフリカに生息。
270万年前:パラントロプス、森の中で生活し、噛むための巨大な顎を持っていた。
230万年前:ホモ・ハバリスが初めてアフリカに出現したと考えられる。
185万年前:「現代の」最初の手が出現。
180万年前:ホモ・エルガスターが化石に登場し始める。160万年前:手斧が最初の大きな技術革新となる
80万年前:初期人類が火をコントロールし、囲炉裏を作る。脳の大きさが急速に拡大
40万年前:ネアンデルタール人が出現し始め、ヨーロッパとアジアに広まる。
20万年前:ホモ・サピエンス(現生人類)がアフリカに出現。
4万年前:ホモ・サピエンスがヨーロッパに到達
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人類はいつから服を着はじめたのでしょうか。
衣服の起源はどこにあるのか。
衣服を身に付ける行為は私たち人類だけの特徴ですが、それが習慣となった経緯を解明しようという試みが研究者たちによって続けられています。
毛皮や皮革などの有機物は一般的に化石としてほとんど残らず、数万年も経つと骨を取り巻く軟組織と同じように朽ち果ててしまう。
しかし研究者たちは、染色された植物繊維や衣服に寄生するシラミなど間接的な証拠物を手掛かりにして、次第に明らかにしてきています。
古代の服飾類では、アメリカのオレゴン州で出土した樹皮の繊維を素材とする約8,000年前のサンダルや、エジプトの約5,000年前のシャツやビーズ付きドレスが見つかっています。
またアルプス山中で発見された約5,300年前のアイスマン(1991年、アルプス山脈にあるイタリア・オーストリア国境のエッツ渓谷氷河で見つかったのでエッツィと呼ばれています)が身に付けていた獣皮と干草の編み靴、毛皮の上着、皮製のゲートルや下着などが知られています。
(5,000年前にしてすでに現在の衣服の基本構成ができあがっているということですね)
アメリカジョージア州の洞窟群からは、約3万年前の植物繊維が見つかっていて、ピンクや黒、青に染められており、当時の布地作りに関する手掛かりになっています。
また約2万年前の骨針までも発見されていて、これはおそらく衣服や装飾品の縫製に使われたと推測されています。
なお日本においては、縄文時代後期(約3,200年前)の編み込み模様のある布が出土しているそうです。
(Hans BennによるPixabay画像)
そして現在の研究結果によって、次のような理論が示されています。
7万年前から7万5,000年前に、インドネシア、スマトラ島にあるトバ火山が大噴火を起こして気候の寒冷化を引き起こし、その後の人類の進化に大きな影響を与えたというトバ・カタストロフ理論です。
これは近年の遺伝子の研究から、ヒトに寄生するヒトジラミの亜種であるアタマジラミ(主に毛髪に寄宿)とコロモジラミ(衣服に寄宿)が分化したのがおよそ7万年前であることが分かっているので、トバ火山の噴火とその後の寒冷化した気候を生き抜くためにヒトは衣服を着るようになったのではないかと推測するものです。
アフリカ単一起源説では、ホモ・サピエンスは7万から5万年前にアフリカからその他の地域へ移住し始めたということになっていて、この時期とほぼ重なってます。
(2003/8/19のカレント・バイオロジーで、ドイツ・マックスプランク進化人類学研究所の研究グループが発表。研究者らは、3種類のシラミのうち人間の衣類に付くコロモジラミに着目。シラミの細胞にあるミトコンドリアからDNAを採取し、他のシラミなどと比べて分析し、コロモジラミが生まれた時期を人類がアフリカから欧州に移動し始めた約7万年前(最終氷河期であるヴュルム氷河期(7万〜1万5,000年前)がちょうど始まった頃)と特定した)
なお、人に特有のコロモジラミは体の接触によってうつり、人体を離れると24時間生存できないそうです。
そして今回の調査により、その時期がさらに数万年さかのぼることが明らかになりました。
**********
9/16にiScienceに掲載された今回の研究は、モロッコの大西洋岸付近で発見された作業用の骨の集合体について報告したもので、12万年前までさかのぼって衣服を製造していたことを示す強力な証拠になるということです。
アリゾナ州立大学(ASU)の古人類学者カーティス・マレアン氏と同大学の博士課程に在籍するエミリー・ハレット氏は、マックス・プランク人類史研究所(MPI-SHH)の人類起源研究所およびリセ・マイトナー汎アフリカ進化研究グループの研究の一環として、2011年にモロッコテマラ市の大西洋岸から約250メートル離れた場所にあるコントルバンディエ洞窟から初めて発掘された60種類以上の骨製の道具と、クジラ、イルカ、ネズミなどの鯨類の歯から作られた道具を詳しく調査したところ、これらは動物の死体から皮や毛皮を丁寧に取り除くために使用されたもので、皮は衣服に使用されたと思われると述べています。
(モロッコ、コントルバンディエ洞窟の位置:arizona state university newsより)
しかしこれらの骨器は約12万年前のものと思われるため、衣服を作る習慣があった時期を科学者たちがかつて考えていたよりもはるかに過去に遡ることになります。
(とはいえ革や毛皮の衣服は10万年以上も保存するにはあまりにもデリケートなため、コントルバンディエ洞窟の発掘で実際に衣服のサンプルが見つかるとは思っていないとのことです)
これらの出土品は、考古学的記録の中で最古の衣服の代理証拠であり、アフリカ全域で複雑な文化と特殊な道具製造が出現したことを証明しているといいます。
(エミリー・ハレット氏:Max Planck Institute for the Science of Human Historyより)
ホモ・サピエンスは20〜30万年以上前にアフリカに初めて出現し、その後世界中に広がっていきました。
(23〜18万年前が間氷期であるため、この時期に拡散していったのではないかと思います)
「私たちは、寒い地域での種の分散には、衣服が重要な役割を果たしていたと想定していました」
とドイツのマックス・プランク人類史研究所の進化論的考古学者でもあるハレット氏は述べています。
またこうも言っています。
「コントルバンディエ洞窟の骨器は、およそ12万年前までに、ホモ・サピエンスが骨を使って正式な道具を作り、革や毛皮の加工などの特定の作業に使うようになったことを示しています。
この汎用性は、ユーラシア大陸に進出した後に生まれた特性ではなく、人類の根幹をなすものと思われます」
・道具が物語るもの
論文によると、これらの骨は12万年から9万年前の地層から出土したもので、その時代に洞窟を利用していた人間の骨と一緒に発見されたのだといいます。
ハレット氏は言う。
「こうした物を発見するとは予期していませんでした。
私は当初、古代人の食事を再現するために動物の骨に注目すべく、この集合物を研究していたんです。
1万2,000点前後ある骨を調べていたときに、非常に異なる形をしたこれらの骨に気づき始めました。
自然な形ではなく、つやや光沢があり、筋が入っていたのです」
(モロッコのコントラバンディエル洞窟で発掘作業を行う考古学者:CNNより)
動物の骨の中には様々な道具に加工されたものが62個あったが、その中でも特に注目した道具がありました。
牛の肋骨を丸めてヘラ状にした頑丈なものです。
「ヘラ状の道具は、皮や毛皮を加工する際に、皮や毛皮に穴を開けずに内部の結合組織を削って除去するのに適しています」
ハレット氏たちが見た骨の中には道具になっていないものもあったが、それらの骨には付着した皮膚や毛皮を徹底的に丁寧に取り除いたことを示す擦過痕があったといいます。
「このような形状の骨器は、皮膚を貫通せず耐久性があり、毛皮にダメージを与えずに結合組織を取り除くのに有効なので、現在でも毛皮の準備に使われています。
何より肉食動物の皮を剥いだ痕跡に興奮しました。
このパターンが言及されているのを、いままで見たことがなかったからです。
皮を剥いだ跡のある肉食動物の骨と、毛皮処理に使われたと思われる骨製の道具の組み合わせは、考古学的記録の中で最古の衣服を示す非常に示唆的な代理証拠となります」
とハレット氏は言う。
(道具がどのように作られ、使われたか:ancient-originsより)
注目すべきは、このような痕跡のある骨は、古代のキツネやヤマネコ、ジャッカルなど厚い毛皮を持っていた可能性の高い種のものであるということです。
ハレット氏は他にも現代の牛に似た種の骨も見つけましたが、これらには切り口や擦り傷に異なる特徴があったことから、このマークは食用に供するために肉を剥いだときの傷だろうといいます。
ASU人類起源研究所のアソシエイトディレクターで人類進化・社会変動学部の基礎教授、ネルソン・マンデラ大学アフリカ沿岸古科学センターの名誉教授であり国際副所長でもあるマレアン氏は、こう語っています。
「コントルバンディエの集合体は、今やブロンボスに代わって最古の骨器集合体となっています」
(カーティス・マレアン氏:Arizona State Universityより)
・この道具は布を作るだけのものではなかった
コントルバンディエ洞窟で発見された複雑な人類文化の痕跡は、布を作るための道具だけではありませんでした。
もう一つの興味深い発見は、巨大なマッコウクジラのものと思われる、人間が使用した形跡のあるクジラの歯も発見されたことです。
これは石を削るために部分的に加工されたものだろうといいます。
このクジラの歯もやはり12〜9万年前のもので、考古学的な発掘で見つかった海洋哺乳類の骨を使った道具としては世界最古のもので、北アフリカの更新世における海洋哺乳類の唯一の遺物であることが確認されています。
「骨角器のような複雑な技術は、現生人類の原点である水生適応にのみ関連していることが改めてわかりました。
海岸が重要だったのです」
とマレアン氏は言います。
「これまで北アフリカでは、この種のものはどの時代にも発見されていないことを確認しました。
もしかしたらこの希少な物体は、12万年前の先史時代の人類が大切にしていたものかもしれません。
モロッコの大西洋岸でマッコウクジラが打ち上げられたという記録がありますが、コントルバンディエの集合体の中にはクジラの歯が1本しか出てないので、この歯は打ち上げられたクジラから採取され、人間によって洞窟に運ばれたと考えてよいでしょう。
クジラの歯は、先史時代や歴史上のもっと若い時代に、個人の装飾品としてよく使われていたので、このクジラの歯はとても興味深いものです」
とハレット氏は説明しています。
(洞窟から出てきた骨角器。12万〜9万年前に皮仕事で使われた:CNNより)
・もちろんネアンデルタール人も衣服を作っていた
衣服を作ることの利点を発見したのは現生人類だけではなく、我らがネアンデルタール人も、現代人がヨーロッパにやってくる前、約4万年前にはすでに動物の皮や毛皮を使って衣服を作っていたとハレット氏は考えています。
「ヨーロッパのネアンデルタール人や他の姉妹種は、12万年よりもずっと前に動物の皮から衣服を作っていたと考えるのが妥当だと思いますが、これまでのところネアンデルタール人の遺跡では、皮を被った肉食動物の骨格と革や毛皮の加工用骨器が一緒に見つかっていません」
とハレット氏は指摘。
例えば2013年には、考古学者がフランス南西部にある2つの洞窟(アブリ・ペイロニーとペッシュ・デ・ラゼ)の発掘調査で、リソワールと呼ばれる特殊な革細工の道具を発見しました。
これらの洞窟にはかつて人類ではなくネアンデルタール人が住んでいたことから、この道具は5万年前頃に製造されたものであることが判明しています。
(現生人類が到来するはるか前、寒冷な気候の下で暮らしていたネアンデルタール人などの旧人類は、極端な気象から身を守るために衣服を身に着けていた可能性は高いのですが、残念ながら確かな証拠はまだ少ないようです)
ハレット氏は、イタリアで最近発見されたゾウの骨から作られた40万年前の骨角器98点の一つが、皮なめしのために用いられた可能性があると指摘、この道具類を用いたのはネアンデルタール人である可能性が高いといいます。
なお、穴があいた針が登場するのは考古学の記録上もっと後で、約4万年前となるそうです。
(肉食動物の皮を剥いで毛皮を作り、骨製の道具で毛皮を整えていた:arizona state university newsより)
ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの考古学者マット・ポープ博士は、今回のモロッコでの発見について、こう話しています。
「これらの古代人は、熟練した革職人であったに違いありません。
これは、単なる衣服の採用にとどまらない適応です。
これにより、単純な擦り切れた皮よりも防水性が高く、体にフィットして動きやすい衣服を想像することができます。
ヨーロッパではネアンデルタール人が同じような高度な道具を使っていたのですから、彼らは様々な種類の革製品を作ることにも長けていたのではないでしょうか」
ポープ氏は、よく加工された革は、容器や防風林、シェルターなどにも使われていただろうと述べています。
(マット・ポープ氏:University College Londonより)
・衣服には装飾の意味もあったのかも
ハレット氏は、12万年前のモロッコの気候は現在と同じく温暖(13〜7万年前が間氷期)であることから、初期の衣服が身体の保護のほか、装飾のために使用された可能性があると指摘しています。
「過去も現在も、極端な気温や気候条件は存在しないことから、衣服が完全に実用性だけなのか、または象徴的なものであったのか、もしくは両方の要素が少しずつあったのかを考えさせられます」
ハレット氏は、アフリカの他の地域で人間が住んでいた洞窟を調査している考古学者たちが、古代の衣服製造の証拠を同様に発見するかどうかにとても興味を持っているそうです。
今後、ハレット氏は、他の研究者と協力して、研究対象となる集団の中で同じような皮剥ぎのパターンを特定し、この行動の起源と普及について理解を深めていきたいと考えていると述べています。
(ancient-originsより)
**********
私たちヒト属は寒さをしのぐために、動物から毛皮を剥いでただ単にマントのように体を覆っていただけではなく、道具を作り出しそれを使って衣服を発明したのは重要なブレイクスルーですが、それが十数万年も前から(いやたぶんもっと以前から)使われていたのですから、人類の経験の積み重ねから得られる知恵や発想力・想像力のポテンシャルの高さは本当に素晴らしいですね。
数万年という時間があれば、現在の私たちももっと進歩していくことができるのでしょうけど、その前に滅亡しないようにいまから考え方を変えていかないといけません。
目先のことだけ考えていないで、数万年、数十万年というスパンで人類が進んでいくべき道を想像することも必要なんじゃないかと思うのです。//
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久しぶりで八幡さんを見ましたが、コロナ禍のなかいつものTシャツ、短パン、ギョサンで頑張ってますね(笑)
海が本当にきれいでした。
そういえば数十年前奄美大島に行って、南岸のマングローブエリアでシーカヤックを漕いだことを思い出しましたよ。
さて、最近ネアンデルタール人の研究が進んでいて、ホモ・サピエンスと同等の能力を持っていたことが次第にわかってきています。
今回の研究報告もその一つになります。
直近ではドイツ北部ハルツ山地のアインホルンホーファーには、神話ではなく、ネアンデルタール人が作成した象徴的な芸術作品があることが明らかになっています(7/24記事)。
**********
そして8月、ヨーロッパのネアンデルタール人は、やはり高度な認識力と感性を持ち合わせヨーロッパで芸術作品を生み出していた根拠を示す一つの例が見つかったのだということが、また新しい研究で示唆されました。
(ドイツ ネアンデルタール博物館より)
この研究結果は、8/17のPNASに「The symbolic role of the underground world among Middle Paleolithic Neanderthals(中期旧石器時代のネアンデルタール人における地下世界の象徴的役割)」として掲載されています。
スペインの洞窟で発見された黄土(粘土に含まれる天然色素)の赤色の印は、ネアンデルタール人が作ったものに間違いなく、おそらく数千年もの間、象徴的あるいは儀式的な目的で使用されていたことが確認されました。
(スペイン、マラガ近郊のクエバ・デ・アルダレスにある325フィート(100メートル)の巨大な石筍に、6万年以上前にさかのぼる赤い印がつけられていた:cnnより)
石器時代の祖先は、私たちが考えている以上に実は美や装飾的な感覚を大切にしていたのかもしれません。
発見されたのは、スペイン南部にある岩石層です。
ここでは、流紋岩層がところどころ赤く染まっています。
スペイン、マラガの100メートルもの大きさの石筍(鉱物が堆積してできた柱で、上に向かって成長する)が豊富にあるアルダレス洞窟(Cueva de Ardales)は、西南ヨーロッパの旧石器時代の洞窟壁画の中でも、最も印象的で保存状態の良いもののひとつです。
この石筍のドーム状の形状は、水によって堆積した鉱物の柱によって形成されており、マークは、カーテンを引いたような岩のひだの中に作られていました。
この洞窟では、1,000以上の異なる表現が発見されており、何世代にもわたって初期の人類が住んでいたことを示しています。
その中の一つの石筍は、現代人がヨーロッパに出現する数千年前に黄土で塗られており、ネアンデルタール人の歴史と文化を垣間見ることができると述べています。
専門家の観察によると、この鉱物標本には、黄土による赤色の顔料として知られる酸化第二鉄と粘土の混合物のようなマークが描かれていたという。
ネアンデルタール人がこの石筍を赤く塗ったと最初に示唆されたのは2018年のことでしたが、顔料の最初の年代測定により、少なくとも64,800年前のものであることが判明し、この問題は先史考古学界で論争を呼んできました。
この結果には異論がでていて、
「ある科学論文では、おそらくこれらの色素は自然のものだと言われていました」
と共著者のボルドー大学フランチェスコ・デリコ氏は説明しています。
(フランチェスコ・デリコ氏:wikiより)
その論文では、洞窟内に浸入した水によって酸化鉄(鉄)が沈着した結果、マークができたのだろうと述べていました。
しかし、フランス国立科学研究センター(CNRS)の研究者を含む国際的な科学者チームの発見により、この仮説は否定されることになった。
チームメンバーは、流紋岩の表面から採取した赤い残留物のサンプルを分析し、洞窟内の酸化鉄を多く含む堆積物と比較した結果、この顔料の沈着と組成のパターンが、自然のプロセスと一致しないことがわかりました。
色素の組成と配置は自然の作用と合致せず、飛び散らせたり吹き付けたりする動作を通じて色素が塗布されたことが明らかになった。
「このマークは、現代人がまだヨーロッパ大陸に進出していなかった頃、ネアンデルタール人が意図的に塗ったものであり、おそらく口で噛んだ顔料を吹き出したり、骨をストローのように使ったりして塗料を散らしたものだと考えられます」
また今回、ネアンデルタール人が作ったこの色は、色素の質感が洞窟から採取された自然の試料と一致しないため、同じ洞窟の中ではなく別の場所で採取されたものであることがわかりました。
この顔料は、洞窟に入って石筍を描く前に収穫し、運搬し、準備したものだといいます。
(クエバ・デ・アルダレスの一部着色された石筍の塔の全体像とアップの写真:zmescienceより)
さらに、サンプル間で色素組成の違いが検出され、それらの間には何千年もの時間を隔てて適用されていたことがわかりました。
つまり、何世代にも(少なくとも10,000年以上にも)わたってネアンデルタール人がこの洞窟を訪れ、大流紋岩層のひだを赤黄土で着色したと考えられるのです。
この行動は、何度も洞窟に戻ってこの場所を象徴的に示す動機を示しており、伝統が世代を超えて受け継がれていることを証明しています。
また少なくとも2種類の異なる顔料がマークの作成に使用されており、異なる時期に使用されていたことも分かりました。
「フローストーンの年代測定結果は、ネアンデルタール人がフローストーンのある部屋を何度も訪れて象徴的な印をつけたという仮説と一致しており、長期にわたる象徴的な伝統を扱っていることを示しています」
とデリコ氏は述べています。
この研究では、赤く染まった岩層を、フランスの地下洞窟内で984フィート(300メートル)の高さから石筍でできた謎の円形構造物が発見されたブルニークル※という場所と比較しました。
175,000年以上前に洞窟の床から引き剥がされ、綿密に組み立てられたこの構造物の発見は、専門家がこれまで初期の人類の能力を過小評価していた可能性を示唆しています。
(176,500年前のネアンデルタール人の洞窟のサークルを発見:cnnより)
※:フランス南西部にあるブルニケル洞窟の300メートル内部に、400個近くの石筍を組み合わせたサークル型の構造物が作られています。
これらの破片は、ホモ・サピエンスが4万年前にヨーロッパに到着するずっと前、洞窟の床から引き剥がされ、主に2つの円形の壁に緻密に再配置されました。
175,000年以上前にこの地域に住んでいたネアンデルタール人が作ったものであると研究者は考えています。
2016年のNatureに掲載された報告によると、この円形構造は慎重に計画されたものであることが示唆されていますが、なぜ作られたのかは明らかになっていません。
研究者たちは、洞窟が避難所として使われたのか、それとも象徴的な理由で使われたのかをまだ決定していないといいます。
(研究者たちは、この種サークルとしては初めてのそして最古の発見であると主張している:cnnより)
「確信を持って言えることは、彼らにとって地下は重要だったということです。
また、それが神話的な理由によるものであったことも推測できます」
とICREA(カタルーニャ州研究・高等教育機関)の研究者でバルセロナ大学とリスボン大学の教授であり、この研究の著者であるジョアン・ジルハオ氏はいいます。
(ジョアン・ジルハオ氏:uniarqより)
デリコ氏は、
「今回の発見は、ネアンデルタール人が数千年の間に何度もやってきて、洞窟に顔料で印をつけたという仮説を裏付けるものです」
と述べています。
このマーキング自体、数千年前に私たちの祖先(ホモ・サピエンス)が作ったケーブアートとは異なっているようです。
「ドームがシンボルであり、むしろこれらのマーキングは、"ある空間の象徴的な意味を永続させるためのグラフィックな行動の結果 だ」
と著者は説明しています。
洞窟の絵は、芸術的なデザインの表現(美しい画像や物体あるいは感情を表現するもの)ではなく、ネアンデルタール人にとって文化的、象徴的な聖域としての場所を示す印であると著者は言いますが、実際にはその理由や意味はいまのところわかっていないとのこと。
今回の研究は、ネアンデルタール人が必ずしもいままで考えていたような単純な存在ではなかったことを示しています。
彼らは、高度な道具を製造・使用し、芸術作品を制作し、言語を使用する能力を持っていました。
ジルハオ氏は、
「この地下の場所は、ネアンデルタール人のライフスタイルや、おそらく彼らの神話的な信念に関して間違いなく重要です。
ネアンデルタール人は洞窟を塗る全過程を包括的に計画していました。
意図的な計画を立てるためには、ネアンデルタール人が活動を行うための適切な照明が必要であり、それは今回の研究結果にも示唆されています」
と述べています。
(黄土で作られた赤いマークのアップ:cnnより)
洞窟壁画や貝殻の絵などは、長い間ホモ・サピエンスの作品と考えられてきましたが、新しい年代測定技術の出現により、一部の作品がネアンデルタール人の作品であることが認められるようになりました。
サザンプトン大学の考古学科学教授であるアリスター・パイク氏は今回の研究には関与していませんが、説得力があると述べています。
「ネアンデルタール人の象徴的能力に関する問題は非常に論争の的になっていますが、これは時代遅れで人種差別的な19世紀の考えに起因しています」
研究者たちは、ネアンデルタール人はアフリカから出た後、約4万年前に絶滅するまでの3万年以上の期間、現代人と地理的に重なり合っていたと考えています。
著者たちは、この洞窟画はアフリカから大移動したネアンデルタール人と現代人の時間軸が重なったことによる影響だと考えています。
研究チームは、
「鍾乳石はネアンデルタール人の一部の集団が有した象徴的な制度で重要な役割を果たしていたが、その象徴が何を意味していたかについては、まだ謎のままだ」
としています。
**********
今回の発見は、現生人類である私たちはいままで初期のヒト属の能力をあまりに過小評価してきたのだということを示唆しています。
長年、ネアンデルタール人は洗練されておらず粗野で野蛮だったと考えられてきました(ホモ・サピエンスがそうではないとはとても言えませんが)。
これまで科学者たちは、ネアンデルタール人はまだ地下深くには進出しておらず、今回のような精巧な構造物を作るほどの知能はなく、照明や火の使い方もそれほど洗練されていないと考えていたました。
しかし最近の研究では、ネアンデルタール人が美的感覚を好んでいたかもしれないという証拠が次々と示されています。
研究者たちの努力によって、ネアンデルタール人の高い能力を知ることができる新しい発見が次第に増えてきていることはとてもうれしいことです。
ネアンデルタール人は、ホモ・サピエンスよりも十数万年前にアフリカを出で、数々の苦難の歴史をのなかを生き延びながら得てきた経験、知恵、免疫能力や感性などをDNAの中に保存してくれました。
そのおかげで、交雑により遺伝子を受け継いだ私たちホモ・サピエンスは、彼らの果たせなかった繁栄を得ることができたのですから。
今後もまた新しい事例が明らかになれば、記事に書きたいと思います。//
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【500年前にマゼランを倒し今はフィリピンの英雄となったラプラプの像】
基本的にはマレイ系になるが、その中で多数派を占めるのはルソン島中部のタガログ族とセブを中心にするヴィサヤ族(セブアノ)で、母語別に分けるとヴィサヤ語を話す人の方がタガログ語より多いとされる。
フィリピンの公用語に『ピリピノ(フィリピン語)』があり、この『ピリピノ』は1987年のアキノ(母)政権時代に憲法によって国語と採用されているからかなり新しいが、ピリピノの中身はタガログ語なので全国的に見ればタガログ語が優位である。
また学校教育でピリピノを学ばせていることもあるが、日本のNHKが標準語と称する言葉で全国放送をしているように、フィリピンもテレビや映画などの全国ネットはタガログ語で作られているために、タガログ語の浸透度は違う言語を持つ部族にとっては気に食わなくても浸透度は高い。
小生がフィリピンに初めて足を踏み入れた1980年代、まだフィリピンはフィリピン人の国という括り方しか認識していなかったが、やがて二大部族のタガログ族とヴィサヤ族の相容れない関係を知り、結構複雑な国だなと思った。
これはタガログ族はヴィサヤの人間を田舎者と見下し、ヴィサヤの人間はタガログ人をお高く留まっているという感情的な面が強く、例えば東京の人間が関西の人間を小馬鹿にするのとは少々違う感情で、違う部族というのが底流にはある。
政治面ではその傾向はかなり強く、フィリピンの政治は地縁、血縁での結び付きが強く大統領を生んだ部族を見ると、ルソン島を地盤とする部族出身者が多く、その代表的なのがルソン島北部に住むイロカノ族の独裁者マルコスである。
ヴィサヤ地方出身の大統領も過去に3人いて、現在の大統領ドゥテルテはミンダナオ島が生んだ初めての大統領といわれるが、一族の元々の出自はセブで父親はセブ州知事を務めたことがあり、ドゥテルテという名前の多い町もセブ島東海岸にある。
さて公用語としてピリピノの他にフィリピンは英語があり、これはタガログ族とヴィサヤ族同士の仲の悪さがあるように、各地の部族同士で相容れないところが多いために、共通言語としてアメリカの植民地時代に普及した英語を採用していて、アジア圏で最も英語の分かる国の一つとなっている。
ちなみにフィリピンにある言語はこれも分け方によって違うが、100前後の言語とされ、同じヴィサヤ語圏のセブ島の人間が隣のボホール島へ行くと、また少し違う言語を使って通じ難いといったといった具合で、そういったものを含めると数はもっと多くなる。
フィリピン民族はマレイ系と書いたが、そのマレイ系はアフリカ大陸を起源とし、マダガスカル島を経て、インド洋を渡りマレイ半島に至り、それがミンダナオ島南部に上陸したとされている。
実際、マダガスカルをかつて旅行をした時に、今まで接していたアフリカ系の人々とは風貌は明らかに違っていて、アフリカ民族とアジア民族との混淆のような印象を受け、アジアに近いなと感じた。
そのアフリカ起源とされる人類は500万年前に生まれこれを『猿人』とし、次に『原人』と呼ぶ180万年前に生まれた『ジャワ原人』が知られ、同じ原人では中国の『北京原人』が知られる。
『北京原人』の骨の化石は1941年から不明になっていて、そこに着目した推理小説が伴野朗の『五十万年の死角』で、この作品は1976年の第22回江戸川乱歩賞を受賞した傑作だが、最近の研究では北京原人は68〜78万年前と少し古くなっている。
原人の次は20万年前のネアンデルタール人で、火を使うなどかなり高度な人々であり、スペインの洞窟で発見された壁画で知られるが絶滅し、現代の人類とは繋がりはないとされ、4万年前に出現したと見られるクロマニヨン人が現代の人類の祖先といわれる。
その絶滅したとされるネアンデルタール人の系譜を引く、『デニソワ人』と名付ける集団がフィリピン民族の祖先になるのではという研究が最近発表された。
デニソワ人というのはシベリアのアルタイ山脈にあるデニソワ洞窟から発見されたこどもの骨を調べたところ、4万1千年前と分かり名付けられたが、しかもDNAでこのデニソワ人とフィリピンに住む少数民族のDNAと共通点を持つことが分かった。
人類はアフリカ起源で大移動を開始し、ユーラシア大陸からベーリング海を渡って北米から南米に到達したというのが定説で、その大移動で枝分かれがいくつも出来各地に定住して行くのだがデニソワ人もその一つで、クロマニヨン人との交雑が確認されている。
フィリピンにもマレイ系の部族が進出する前に先住民族があり、この先住民がデニソワ人と共通のDNAを持っているとされ、これら先住民はアエタ族、アティ族、バタク族などで、総称をネグリートと分類されている。
ネグリートというのはスペイン語の『小柄で黒い』という意味から来ていて、その風貌は暗褐色の肌を持つ小柄な民族で、アンダマン諸島からマレイ半島、スマトラ島、ニューギニア、フィリピンに分布している先住民をいう。
セブ島の隣にネグロス島というのがあり、この島の名前の由来も黒い先住民が居たことから名付けられたものだが、かなり前になるがレイテ島へ行った時に現地でソーシャル・ワーカーをしている知人がいて、その知人が山の中に住む先住民の家を訪問するというので一緒に行ったことがあった。
山の中に建てられた簡単な家には母親とこどもが住んでいたが、その風貌は肌は黒く巻き毛で明らかに普段見るフィリピン人とは違い、アフリカで見た少数部族の風貌を思い起こした。
フィリピンはホスピタリティーに溢れた国と宣伝するが、それは表向きでこれら少数民族の人々はその容貌から差別を受けているのは明らかで、たまに街中でそういった少数民族の人を見かけると周りの人は奇異の眼で眺めていることが分かる。
これら少数民族はスペインがフィリピンを植民地にする前は低地に住んでいたが、追われて山に逃げ込んで生活し、アエタ族はルソン島中部のピナツボ山に多く住んでいたが1991年の大噴火によって大被害を受け、その後政府の再定住政策で固有の文化、風俗が失われつつある。
その他アティ族はパナイ島に住む部族で、固有の言語は失い既に人口は1000人台というからいずれ失われる少数民族になり、この他パラワン島に住むバタク族などこれら少数民族をフィリピンでは『ルマド(Lumad)』と呼んでいるが、その数の多さと文化の多様性には驚かされる。
少数民族あるいは先住民については近年見直しが行われ、その権利を認めるようになり、かつて日本の総理大臣が『日本は大和民族の国』といって問題になったが、日本にもアイヌやウィルタ、ギリヤークといった北方系の先住民がいる。
アイヌに関しては2019年に法律を制定して、その権利は守られるようになったが、法律以前に日本人が朝鮮や中国に対する蔑視感と同様、アイヌ民族に対して公平な目が醸成されているとは言い難い日本社会である。
最後に小生がアフリカに住んだ頃、もしかすると腰蓑を付けて槍を構える少数部族に逢えるかと期待したが、車を乗り継いでかなり奥地へ行っても逢う人はTシャツにGパン姿でがっかりした記憶があり、これも誤った差別感から来ているのであろう。
現代人(ホモ・サピエンス)にしかないと思われがちな特徴が、かつてはネアンデルタール人にも存在していた可能性を示す証拠が増えています。
中世には「ユニコーンの骨」で有名だったドイツ北部ハルツ山地のアインホルンホーファーには、神話ではなく、ネアンデルタール人が作成した象徴的な芸術作品があることが、新しい研究で明らかになりました。
今回の発見はネアンデルタール人が、音声を生成して聞き取る能力、道具や技術の生産、死者を弔うことなど、複雑な行動特性を持っていたことを示す従来の研究結果に追加されるものになります。
(ベルギーのスパイ村で発見された4万年前の遺骨をもとに作られたネアンデルタール人のモデル:livescienceより)
ドイツのハノーバーにあるニーダーザクセン州文化遺産局の考古学者のダーク・レザー氏、トーマス・テールバーガー氏たち研究チームによると、このアートワークは、現在は絶滅してしまったギガンテウスオオツノジカ(Megaloceros giganteus)の足の骨に彫られた正確かつ芸術的なシェブロン模様だということです。
研究チームは、この骨の年代を、ホモ・サピエンスがまだこの地域に進出していなかった5万1,000年前と算定しました。
このことから、「ネアンデルタール人は、解剖学的にホモ・サピエンスの影響や助けを借りずに、自分たちだけでこの骨を彫ったのではないかと考えられる」と7/5のNature Ecology and Evolutionで研究者たちは述べています。
これまで、ネアンデルタール人の象徴性や芸術性を示す証拠はほとんど見つかっていませんでしたが、今回の発見は、ネアンデルタール人の行動がどれほど複雑であったかというとても興味深いものです。
(ダーク・レザー氏:niedersachsen.academiaより)
約4万年前に姿を消したネアンデルタール人が、芸術的な表現や象徴的な思考をどの程度行っていたのか、またそのような能力は彼ら自身が身につけたものなのか、それともこの時期にヨーロッパに最初に到来した初期の現代人との交流を通じて身につけたものなのか。
この象徴的なアートワークは、ネアンデルタール人が従来考えられていたよりも高い認知能力を持っていたことを示唆しているのです。
ダーク・レザー氏は、こう語っています。
「ネアンデルタール人は非常に賢かった。
彼らはコミュニケーションをとり、シンボルで表現することができました。
彼らの認知能力は、私たち人類と非常に似ていたのかもしれません」
(トーマス・テールバーガー氏:ゲオルク・アウグスト大学ゲッティンゲンHPより)
しかし、考古学者の中には、ネアンデルタール人が独自に象徴的な芸術を生み出したことに疑問を持つ人もいます。
「素材の選択、彫刻前の準備、彫刻に用いられた巧みな技術は、いずれも骨加工に関する高度な専門知識と優れた能力を示すものです。
巨大な鹿の骨に芸術的にシェブロンパターンに配置された切り込みがあることは、この発見の象徴的な意味を裏付けるとともに、ネアンデルタール人の行動がいかに複雑であったかについて新たな疑問を投げかけています。
最近発見されたチェコ共和国のズラトニー・クエニの古代ホモ・サピエンスの頭蓋骨には、ネアンデルタール人のDNAが長く残っており、5万年以上前に交配が行われたことを示しています」
と、ロンドン自然史博物館の人類進化研究センターの研究者で、どちらの研究にも関与していないシルビア・ベロ氏が、Nature Ecology and Evolutionの論文に添えられた解説の中で述べています。
(この小さな彫刻入りの骨が発見されたドイツのハルツ山地にあるアインホルンホーファー洞窟の一般入口:cnnより)
またベロ氏は論文にこのように書いています。
「このように早い時期に遺伝子が交換されていたことを考えると、現代人とネアンデルタール人の間で同様に早い時期に知識が交換されていた可能性も否定できず、それがアインホルンホーファーの彫刻品の制作に影響を与えたかもしれません。
言い換えれば、もしホモ・サピエンスが考えられているよりも早く中欧にいたのであれば、ネアンデルタール人は自分たちで芸術作品を作るのではなく、彼らから芸術作品の作り方を学んだのかもしれないということです」
この洞窟は「アインホルンホーファー」(ドイツ語で「ユニコーンの洞窟」)と呼ばれ、由緒ある歴史を持っています。
中世からトレジャーハンターがユニコーンの骨を見つけたという話からこういわれています。
「もちろん、それらはただの洞窟の熊の骨だったのですが、薬や治療薬として薬局に売って利益を得ていました」
ということです。
(ドイツ北部にある「ユニコーンの洞窟」と呼ばれるアインホルンホーファーの様子:livescienceより)
1985年に考古学者がこの洞窟でネアンデルタール人が作った石器を発見したが、さらなる調査のためレザー氏たちは2014年に再び訪れ、洞窟の入り口付近に埋まっていた足の指の骨を発見したのは、2019年になってからだった。
「最初は、骨に刻まれた1本の線が見えただけだった」とレザー氏は言います。
考古学者たちが何か特別なものを見つけたと確信したのは、発掘者たちが砂利の混じったシルトをきれいに取り除き、シェブロンのデザインが見えてきてからだったとのこと。
この骨は、人の手のひらにすっぽり収まる大きさで、面積は5.6×4cm、厚さは3.1cm。
この36グラムの物体には、10本の線が彫られていました。
そのうち6本は三角形のシェブロン模様を構成し、4本は底面に垂直に伸びています。
(巨大な鹿の骨は実用的な用途はなく、純粋に装飾的なものだと考えられている:cnnより)
線は深く彫られており、無造作に肉を切ったときの跡ではないことがわかるとのこと。
また線の間隔はほぼ均等で、「意図的に彫られた」ことを示しているとレザー氏は言います。
しかし、ネアンデルタール人がなぜそれを彫ったのかは謎のままです。
「研究チームは、顕微鏡とマイクロCTスキャンを使って、この骨に摩耗痕があるかどうかを調べました。
そのような痕跡があれば、ペンダントなどのジュエリーとして身につけられていたかどうかがわかるのでが、それは見つかりませんでした。
しかし、この足指の骨は倒れずに自立しているので、ネアンデルタール人が展示物として台座に置いていたのかもしれません」
とレザー氏は言う。
この彫刻が施された骨は、小さくて曲がっていて、自立することはできてもあまり安定していないので、実用的な用途はないと研究者たちは研究の中で指摘しています。
つまり、この骨はまな板や加工用の表面としての用途ではなかっただろうという。
むしろ、その正確な幾何学模様と、オオジカが「非常に印象的な草食動物」であり、当時アルプス以北ではめったに見られなかったという事実から、この骨には象徴的な意味があったのではないかと、研究者たちは述べています。
(刻印された骨をコンピュータトポグラフィーでスキャンすると、シェブロンマークの形を示す6本の線が見えた:cnnより)
レザー氏のチームは、この物体がどのように作られたかを理解するために再現実験として、バルト海のフリントから採取した石の刃を使って独自のバージョンを作り、リムジン牛の5つの骨を深さ2mmの線を入れて彫った。
骨は、生のもの、部屋で乾燥させたもの、屋外で乾燥させたもの、4つ目は1回、5つ目は2回煮たものと、それぞれ異なる方法で処理されました。
「新鮮な骨は...うまくいきませんでした。骨は本当に硬い」
ダーク・レザー氏は言います。
レザー氏らは、煮沸した骨が、より柔らかい「まろやかな」表面を提供し、元のアイテムに近い形で制御された切り込みを入れることができることを発見しました。
1本の線を引くのに2枚の刃(すぐに鈍くなる)が必要で、約10分かかったという。
つまり、シェブロンを形成する6本の線は、約90分で作られた可能性があるということです。
アフリカやユーラシア大陸のホモ・サピエンスが使っていた古代遺跡には、象徴的なアートがたくさんありますが、ネアンデルタール人が使っていた同様の証拠はまばらで、解釈も難しい。
初期のホモ・サピエンスが文化的革新や芸術的表現を行っていたことを示す最も初期の証拠はアフリカで発見されたもので、約10万年前にさかのぼります。
ここでは、石以外の素材(骨、象牙、角など)で作られた道具や、貝殻で作られたビーズの装飾品が見られ、顔料の使用、洞窟美術、意図的な埋葬などの進歩が見られました。
ヨーロッパのネアンデルタール人の遺跡では、数は少ないものの、同様の技術的・文化的革新が発見されています。
猛禽類の爪などの装飾品、歯のペンダント、葬儀の証拠などである。
例えば、Scienceに掲載された2018年の研究によると、現代人がイベリア半島に到来する前の6万4,000年以上前に、ネアンデルタール人は赤い顔料である黄土を使って、スペインの異なる洞窟で、動物、線状の模様、幾何学的な形、手のステンシル、手形など、さまざまなものを描いていたということです。
(鹿の骨にはシェブロン模様が描かれているようで、風景や人物などの抽象的なイメージが描かれています:inverseより)
ただ、科学者の中にはアートの年代に異論があり、ネアンデルタール人が線画や点画を描いた可能性はあっても、動物の絵などのより複雑なアートワークを自力で作成したかどうかは議論の余地があると言う人もいます。
ホモ・サピエンスは約45,000年前にヨーロッパに渡ったと考えられており、ネアンデルタール人と数千年にわたって重なり合っていたと考えられています。
その間、2つのグループはお互いに出会い、時には交雑し、私たちの遺伝子にネアンデルタール人のDNAの痕跡を残しました。
今回の研究では、鹿の骨に刻まれた文字は「ネアンデルタール人が独自に作成したもの」であり、ホモ・サピエンスとの交流とは無関係であると考えているという。
そして「アインホルンホーファーのネアンデルタール人が、ホモ・サピエンスの意見を取り入れずに、この鹿の足の指を彫ったのです。
ホモ・サピエンスとの交流とは無関係であると考えています」
と主張しています。
ネアンデルタール人は、43万年前から4万年前にかけてヨーロッパに生息していた。
中央ヨーロッパのドナウ川上流域、約400キロ南にいるホモ・サピエンスの最も古い証拠は、4万3,500年前のもので、
「アインホルンホーファーの彫刻品が作られた数千年後のことだ」
と研究者たちはこの研究で述べています。
また、ヨーロッパで最も古いホモ・サピエンスの証拠は、4万5,500年前の動物の歯で作られたペンダントで、1,500キロ離れたブルガリアで発見されたものだといいます。
ホモ・サピエンスからアインホルンホーファーのネアンデルタール人への直接的な影響は
「ありえません。
ネアンデルタール人の抽象的な文化表現を説明する唯一の要因として、ホモ・サピエンスの文化的影響を支持することはもはやできない」
と研究チームは結論づけています。
(装飾された骨は、画像右の杖を持っている人の約1メートル後ろの洞窟の旧入り口で発見された:cnnより)
「遺伝子データによると、当時ホモ・サピエンスがこの地域にいた可能性があることから、そのような単純なケースではありません。
しかし、仮にアインホルンホーファーのネアンデルタール人がホモ・サピエンスから学んだとしても、学習能力、イノベーションを自国の文化に統合する能力、新しい技術や抽象的な概念に適応する能力は、行動の複雑さの要素として認識されるべきです。
ネアンデルタール人の認知能力を過小評価するものではないと私は考えています。
素材の選択、彫刻前の準備、彫刻に用いられた巧みな技術、これらはすべて、骨加工における高度な専門知識と優れた能力を示しています
アインホルンホーファーの刻印された骨は、ネアンデルタール人の行動を現代のホモ・サピエンスの行動にさらに近づけるものです」
とベロ氏は書いています。
ダーク・レザー氏は、ユニコーン洞窟が寒冷で予測不可能な気候の中にあることが、革新を促した可能性があると語っています。
「ここにいるネアンデルタール人は、北限に位置し、環境条件の変化にも対応しています。
そのため、彼らはよりダイナミックで創造的にならざるを得なかったのかもしれません」
**********
どうも現代人は、人類(ホモ・サピエンス)が最も知能も精神性も勝っていて、他のヒト属はそれ以下でしかないと考えてしまう悪い癖があるようです。
人類のこういう性質がいろいろな状況で差別を生じさせているんでしょう。
でも私はそんなことはないと思っています。
すでにいままでの研究結果からも、言葉を話しそれを理解し、道具や技術の生産を行い、死者を弔う慈しみの心を持つなど、複雑な行動特性を持っていたことがわかっています。
そんな人類の”いとこ”が、想像力をあふれさせた象徴的な芸術作品を作れないわけがないと思うのです。
仮にホモサピエンスとの交流が実際にあったとしても、数万年先にヨーロッパで苦しみながら生きてきたネアンデルタール人から新米のホモ・サピエンスに知識を分け与えていたのかもしれませんし、お互いの知識や経験をそれぞれ相互に伝え合っていたのかもしれません。
これからさらに研究が進むことで、さらにネアンデルタール人の能力が発見されることを期待してしまいます。//
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