【写真−1 十中十死の特攻作戦は作戦の外道との見方もある】
『南風崎駅』の次が写真−1の『小串郷駅』で、ホームのベンチの後ろの壁に『ようこそ小串郷へ』の下に『特攻殉国の碑』とあり、九州には旧陸軍航空隊の特攻基地が多くありその一つかと思ったら、これは旧海軍の舟艇部隊の碑であった。
『小串郷駅』の開業は1944(昭和19)年10月21日で、これは同地に『魚雷艇』訓練施設が造られたための開業で、同日にはフィリピンにおいて神風特別攻撃隊の『久能中尉』がセブ基地から飛び立って戦果不明、最初の戦死者となった日で、また、前年の同日には神宮外苑競技場で『学徒出陣』の壮行式が行われた日でもある。
そういった動きで分かるように日本の敗色は濃く、それ故に日本側は後先を見ない作戦を進め、魚雷艇というのは魚雷発射管2本を持ち30〜40ノットの高速で敵艦近くに近寄り魚雷攻撃をする小型艇で、これで有名なのはケネディー元大統領で魚雷艇に乗って負傷している。
日本の魚雷艇も機材不足で思うような効果を得ず、その次に海軍は艇もろとも体当たりする合板性の高速ボートの『震洋』に移行し、魚雷艇訓練所は震洋訓練所となったが、震洋の実戦的効果は限定的であり、駅のある川棚町には今も訓練所施設が戦争遺跡として残る。
【写真−2 長閑な風景だが戦時中は海軍の訓練艇が走り回っていた】
大村線は大村湾沿いに走っているので時々写真−2のような海岸風景が顔を出し、大村湾は対岸に西彼杵半島があり奥行きの深い湾で、そういう地形から軍事訓練の海に選ばれた。
【写真−3 新幹線駅と違って在来線のホームの造りはこのように簡素】
写真−3の『新大村駅』は2022(令和4)年の西九州新幹線開業に合わせて造られた新しい駅で、同駅から『諫早駅』までは新幹線と大村線は平行しているが、新幹線は高架上にあり大村線は地上駅の無人駅。
鉄道マニアの間では『鉄道一筆書き最長距離』など色々な記録があり、この『新大村駅』が生まれたことによって、最北端の『稚内駅』からの最長片道切符が従来の佐世保線と長崎本線が交わる『江北駅(旧肥前山口駅)』から『新大村駅』になった。
【写真−4 人口9万人半ばなのにホーム向こうは地味】
写真−4の『大村駅』からは、今は『大村入国管理センター』と名称は変わっているが、戦後に設立された『大村収容所』のイメージが強く、同施設は朝鮮戦争によって生じた半島からの日本への密航者を収容する治安施設が始まりであった。
『入国管理センター』はこの大村と茨城県牛久の2ヶ所にあり、強制送還する外国人を収容し、この他にも各地に入管の収容施設があり、最近では名古屋入管の収容施設で収容者が死亡したように人権上問題は多い。
【写真−5 全国的には諫早水害と諫早干拓で知られる】
『佐世保駅』を11:12の出た各駅停車列車は写真−5の終点『諫早駅』に12:28に到着し、同駅は大村線と長崎本線が交わる駅なので、駅表示も左側は長崎本線の『西諌早駅』で右側が『鳥栖駅』方面の『東諌早駅』。
その下が佐世保方面からの『岩松駅』で、なお、『諫早駅』には九州新幹線と私鉄の『島原鉄道』が乗り入れていて、そのためもあってか長崎県内では『長崎駅』に次いで利用者が多い。
【写真−6 こんな無機的な雰囲気では近寄りがたい人もいるのでは】
『諫早駅』も九州新幹線開業に合わせて駅舎を新しくしているが、写真−6は同駅の新幹線と在来線の券売機で、この機械1台で乗車する列車、指定席か自由席かと全て完了するが慣れない人は手間取るので『みどりの窓口』へ行く人も多いだろうし、またインターネットでの予約はこれからは盛んになるであろうが、ネット難民には住みずらい時代になっている。
『諫早駅』のある諫早市は長崎県では長崎市、佐世保市に次ぐ人口13万人を擁する大きな市で、長崎県の産業拠点になっているように工業団地が多く立地され、俳優の『役所広司』が生を受けた地でもある。
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【写真−1 セブ島沖に不時着の二式大艇の同型機は自衛隊基地に現存する】
『乙事件』は1944(昭和19)年3月31日、山本の後継の古賀峯一司令長官一行が、連合艦隊司令部のあるパラオから空襲を避けるために、司令部をフィリピン・ミンダナオ島ダヴァオへ移転するために、写真−1の『二式大艇』2機で移動中に荒天に遭い、古賀の搭乗する機は行方不明となった。
もう一方の機には連合艦隊参謀長の福留繁中将が乗っていて、この機はセブ島中部東海岸沖に不時着し、福留以下はセブ島のゲリラ組織に捕らえられて連行され、この時福留が携帯した海軍の暗号書など最高機密文書が押収され、以降連合艦隊の作戦が筒抜けになったが、福留は戦後になっても機密書類は不時着時に廃棄したと主張するも、米公文書館に保管されているように噓であり、この人物は事件後に全く処分をされず、以降も海軍の要職を歩み、フィリピンの航空特攻作戦にも深く関わっている。
【写真−2 セブ島の地質はセメント原料の石灰岩で出来ている】
福留機が不時着したセブ島中部の沖合いの傍には、戦前から日本のセメント会社工場が操業していて、その工場の灯火をダヴァオと見誤っての不時着であったが、同工場の名前は変わったが、現在も写真−2のように日本の大手セメント会社が操業していて、乙事件のあった当時はゲリラに何度も襲われている。
福留一行を捕虜にしたセブ島のゲリラ組織の指揮官はセブ島にある銅鉱山の技師であった『クーシン中佐』で、当時8500人の人員を擁しアメリカ軍の潜水艦による夜間の補給作戦で火器、物資は日本軍より充実していた。
一方、当時のセブ島の日本軍だが第35軍司令部があって兵員は1万5千人ほどを擁していたが、火器は貧弱で撃沈された海軍艦船の乗組員なども含まれ実戦には遠い寄せ集め部隊で、またレイテ戦で敗れセブ島に退却し消耗した師団も混ざり、士気は低かった。
そういった中、『乙事件』の発生する約2ヶ月前の1月22日に『独立歩兵第173大隊』が活発化するセブ島ゲリラ掃討作戦に従事するために派遣され、指揮官は『大西中佐』で部隊は2000人と大隊としての規模は大きかった。
この大西部隊はゲリラ掃討で派遣されたように経験の深い部隊で、福留一行の捜索、救出作戦に関わりセブ島中部山岳地帯の『タブナン』のゲリラ司令部に大西一行が捕虜になっていることを突き止め徐々に包囲網を狭めた。
【写真−3 セブ島のゲリラ司令部のあったタブナン方面の様子】
『タブナン』の現在は、セブ島中央の標高400〜500mほどの尾根筋を横断する、写真−3の幹線道路の途中にある小さな集落であり、ゲリラ司令部は起伏の富んだ山奥にあってここを突き止め包囲に至ったことは大西部隊の優秀性を感じ、交渉の末福留一行の解放に成功。
大西側が包囲した時に、クーシン中佐の妻子が司令部に居たためにクーシンは妻子の安全と引き換えに福留一行の解放を承諾したと伝えられ、戦後に大西はBC級戦犯として逮捕されたが、クーシンなどの証言によって釈放され、同部隊の慰霊碑がセブ市の観光地『サン・ペドロ要塞』近くに建っている。
叔父の足跡に戻るが『戦時死亡者調書』によると、6月15日から7月18日まで『マンカヤン(Mankayan)にて警備、戦闘』と書かれ、このマンカヤンというのはベンゲット州の一番北に位置し、標高が1200mから2200mもあって文字通り山岳地帯にある町で鉱山で開けた歴史を持つ。
【写真−4 重機が蟻のように見えるマンカヤン鉱山の露天掘り現場】
同地域はスペイン植民地時代以前から『金』の採掘が行われていたが、18世紀になって『銅』の採掘が大掛かりに始まり、20世紀にはアメリカ資本の鉱業会社が設立されて同地域は採掘で賑わったが、日本の占領下の1942(昭和17)年に日本に接収され、鉱山運営は『三井鉱業』が担った。
三井鉱業とは現在の『三井金属鉱業』のことで、同社の社史には1943年3月『昭和鉱業株式会社から日比製煉工場および竹原電煉工場を買収し、日比製煉所を設置』とあり、この日比製煉所が叔父の部隊が警備と戦闘をしたマンカヤン製煉所であった。
銅は軍需物質として重要な金属で広く使われ、日本は国内での生産は足りず梵鐘や銅像を供出させるようなことまでしたが、開戦当初から占領地での生産に目を付けていて、その先兵を担ったのが財閥系の会社になるが、そういった重要拠点に部隊を派遣しゲリラなどの襲撃から守っていたのは想像に難くない。
現在のマンカヤン製煉所は採掘を続けていて、写真−4で分かるように当時も今も露天掘りで鉱石を掘り出しているようだが、地下採掘所もあり精錬所の規模や様子は分からないが戦前同様に続けられているようだ。
セブの山中にも大きな銅鉱山と製煉所があり、だいぶ前に日本の商社の人と共に見学したことがあって、広大で深い大きな露天掘り現場には目を瞠ったが、或る時その上空を乗った飛行機が通過し、眼下の露天掘り地点が周囲の緑と違う異様な環境破壊状態には吃驚した。
【写真−5 防衛研究所へ至る門で防衛省周りは警察がウロウロしている】
叔父の部隊の月日の載っている調書だが、その上の項目は『勤務概要』と記されていて、戦闘が勤務になるのかと改めて思ったが、その最後の行は七月三〇日同島七十四Kノ戦闘参加中戦死』とあり、マンカヤンはバギオ北方94キロの地点にあり、記されている74キロ地点と合わず、移動した地点で戦死したのか或いは単なる記述の間違いかどうか分からない。
7月30日の戦闘中に『胸部盲貫銃創』で負傷した叔父は翌『31日午前9時に戦死』と記述されているので、恐らく手当などは満足にされず1日苦しんだ上の死亡となるが、いずれにしても遺体はその辺りに埋葬されたのか放置されたのかは今となっては分からない。
この『戦時死亡者調書』は叔父の上官に当たる『准尉』が報告していて、その報告期日は戦後の昭和21年2月25日となっていて、同准尉は戦後帰還してこの調書を書いたと分かるが、記憶だけではこれだけの詳細は書けず何らかのメモを持ち帰ったのではないかと推量する。
既にこの准尉は鬼籍に入っているのは確実で、直接証言を得ることは不可能になっているが、叔父が所属した歩兵第73連隊について以前から調べているがなかなか良い資料には会えず、恐らく同連隊は記録を残す余裕がないままに消滅に至ったと思うしかない。
戦史に関して4月に日本へ行った時に、日本最大の戦史資料を持つ市ヶ谷の『防衛省防衛研究所資料室』で連隊のことを調べようと思い同所へ行ったが、予約が必要とのことで門前払いされそれでもフィリピンから来たので何とかならないかと頼んだところ『予約』で一杯と追い払われた。
同所の前身になる研究所は目黒にあって何度か行っているが、当時は町の図書館と同じで身分を証明すればいつでも入所出来て資料に当たることが出来たが、市ヶ谷に移ってから敷居が高くなっていて、当方も予約が必要なことを知らなかったのは不味かったが、『予約で一杯』などと見え透いた嘘を言うとは噴飯ものである。
【写真−6 自衛隊主力戦闘機が戦後初めてフィリピンに着陸】
ロシアがウクライナに戦争を仕掛けてから、戦争をしたくて仕方がない連中の思惑通り世界は軍備増強の時代に入り、日本は軍事費を倍増させているが、特に狂犬国家の北朝鮮をダシにして脅威を煽っているが、北朝鮮がミサイル実験をすれば海に撃つしかなくそれをいちいち空襲警報を出して恐怖感を作っているが、そのミサイルはフィリピン近海に落下してもフィリピンはほとんど騒がず、日本の過剰な対応は戦争に突き進む戦争屋にはシメシメということになる。
戦争屋と書いたが、今ではフィリピンと日本の自衛隊、アメリカ、韓国、オーストラリアの各国軍が陸海空で合同訓練を大っぴらにしていて、この間には戦後初めて写真−6の自衛隊の戦闘機2機が神風特攻の行われたフィリピンに飛来したが、こういったニュースは日本では知られていないのではないか。
先日には海上自衛隊の最大艦船である『いずも』がフィリピンに寄港し合同訓練を行ったが、この艦は現在航空母艦に改装中で、日本がいよいよ空母を持つまでになったかと思うがこれもいつの間にかであり、『いずも』の甲板の長さは戦時中の主力空母より長く、日本の自衛隊も攻撃能力を持つ時代になったかと怖れ、『新たな戦前』という言葉を実感させる。 【了】
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【ある年の靖国神社境内で見た海軍予科練戦友会の催し】
父から軍隊時代の話というのはあまり聞いたことがなく、それでも階級は『中尉』だとか、敗戦後にビルマだかタイに抑留されていた話を聞いているが、直接父から聞いた訳ではなく母親からの情報だったようだ。
実家を取り壊した時、多くの物を廃棄処分にするも、特に亡くなった父母の書籍は数多くこれはという物以外は躊躇わずに捨てたが、たまたま目にした『鉄道兵物語 南方編』という戦友会が編著した本は残してセブに持って来た。
この本に挟まれていた紙片に『鉄道兵物語 南方編』1500円、『鉄道部隊写真集』2000円、書籍小包料410円、合計3910円、平成元年の日付と共に鉄道連隊戦友会の代表名と印が押され、いわば領収書のようになっている。
その宛先が鉄道第五聯隊○○中隊と印刷され、父の名前が書かれていて、これで父が鉄道第5連隊に所属したことは分かったが、父は昭和の代に亡くなっていて、戦友会というものには一切関わらないといい軽蔑していたことを覚えている。
平成の日付けの領収書で分るように、戦友会からの案内が既に亡くなっている父宛に来てそれを見た母が何を思ったか知らないが、申し込んだものではないかと思われ、この母も先年亡くなっていて詳しいことは分からなくなった。
戦友会が編纂し出した本というのは都合の良い所だけを書いた勇ましさと懐旧の入り混じった文の羅列になっているのが多く、この本もその例に倣っているが、戦争の体験者というものが激減して行く今、戦争の証言として貴重なことは間違いない。
鉄道連隊というのは第1〜第20まで作られているが、第5連隊は『泰緬鉄道』敷設に関わった部隊として有名で、『鉄道兵物語 南方編』の中にも泰緬鉄道に関する記述が多く載っている。
20年くらい前になるが、小生と家人がタイへ旅行に行き、その時カンチャナブリへ行き、かつての泰緬鉄道路線上を走る観光列車に乗ったことを母に話すと、父にその泰緬鉄道を一度見せたかったといわれ、戦後の父は泰緬鉄道に思い入れが深かったことを知る。
泰緬鉄道は映画『戦場にかける橋』で知られ、この映画は1957年公開、翌年の第30回アカデミー賞で作品賞とアレック・ギネスが主演男優賞、挿入歌の『クワイ河マーチ』などが音楽賞を受賞し、捕虜収容所所長を演じた早川雪洲は助演男優賞候補になったが受賞を逃した。
『鉄道兵物語 南方編』の中に陸士出身の士官が『鉄道隊50年略史』を書いていて、『昭和17年〜19年 泰緬線の建設』の項があり、これによるとタイ側から第2鉄道連隊、ビルマ側から第5鉄道連隊が工事を進め、全長415キロを実働1年の昭和18年10月20日に『コンコインター』で開通式が行われたとある。
この文中にも捕虜虐待に触れていて、他の資料では連合軍捕虜1万3000人近く、タイ、ビルマなどから徴用した現地労働者7万人以上が死亡し、枕木1本に1人の死者といわれるほど過酷な鉄道敷設であり、戦後のBC級戦犯追及は厳しかった。
泰緬鉄道は後に世紀の愚策といわれる『インパール作戦』に使うために開通させたものだが、実際は敗走を重ねた日本軍兵士を運ぶような状態となり、戦後の同線はビルマ側は廃線、タイ側は観光路線として一部が残った。
先述したが、その観光路線に乗ってクワイ河鉄橋を渡り、断崖に沿って木で造られた桟道上ではギシギシと鳴る音に戦時中とはいえ良くぞ造ったと思ったし、終点の折り返し駅まで猖獗を極めたジャングルを切り開いた割には開けているなと感じたが、乾季の時に行ったから印象が違うのであろう。
勿論、カンチャナブリにある戦争博物館や連合軍共同墓地などにも訪れ、捕虜虐待の実態を目の当たりに見るが、父がこの泰緬鉄道に関係しているとはこの時は知らず、知っていたらまた違った視点で考え、感じられたかも知れないと今では思う。
日本陸軍には『兵籍簿』という徴兵した個人個人の記録があり、これを調べればその人物がどのように徴兵され、どこの部隊に配属されどの地で戦い、最後は戦死したのか生還したのかどうかが分かり、この記録は戦後も残され現在は本籍のあった都府県に保管されている。
最初、ルソン島で戦死した叔父のことを調べようと県に兵籍簿の存在をメールで照会したが、こういった個人記録は戦死者との続柄が証明出来ないと開示出来ない決まりになっていて、それでも父の記録があることは分かり、叔父については生年月日がはっきりしないと存在の有無が分からないという。
わざわざ日本まで行かないとどうにもならないと半ば諦めたが、2019年11月に『新幹線全線乗車の旅』をジャパンレイルパスを使って回った時に、この際だと思い切って福島県に足を伸ばす。
福島県へ行く前に小生と父の関係が分かる戸籍謄本をまず東京で取り、次に小生と叔父の関係を証明出来る戸籍謄本を取るが、どうせなら分かる範囲一族全部の戸籍を取ったら戸籍で一番古い人は江戸時代末期の生まれと分かった。
それ以前の戸籍の記録がないのは1872(明治5)年に初めて本格的な戸籍制度が開始されたためで、この時作られた戸籍を『壬申戸籍』というが、身分や犯罪歴などが記載されていたために門外不出になった。
その後1886(明治19)年に『明治19年式戸籍』が作られ、これが手に入れた一番古い戸籍の形式と思うが、ファミリー・ストーリーを調べている訳ではないのでこの件は端折る。
それら戸籍書類を持って福島県庁へ行くが太平洋側から内陸部の福島市へ行くには意外と不便で、それでも高速バスが繋いでいることを知り常磐自動車道、東北自動車道を経由して福島県庁にたどり着く。
通常はアポイントを取って関係部署へ行くものだが、時間もなく直接兵籍簿を扱う部所へ行き事情を話すと、こういう突然の来客というのは慣れているのか担当する人間が現れ、戸籍書類やパスポートを確認した後依頼を調べてくれた。
そこで分かったのは叔父、父とも兵籍簿は存在していなくて、叔父の場合は『戦時死亡者調書』一枚、父の場合は『帰還軍人軍属個別調査票』という名称の書類二枚があることが分かりコピーをしてもらった。
兵籍簿が存在していない理由は分からないが、戦時中のどさくさで往々にしてない例もあるとのことだが、もう少し事前に連絡しておけば他の関係書類も見つけられたかも知れないと思うがない物ねだりになるようだ。
突然の依頼でも県の担当者の対応は丁寧で感謝したいが、こういう風に訪ねて来る人は年に何人も居るということで、戦争は遥か遠い昔になったがまだそういう関係者が居るのかと思った。
戦死した叔父は父の弟で、小生から見ると三親等に当たり、例年武道館で開催される『戦没者慰霊祭』の出席者は三親等まで認められているというから、小生にも出席する資格があるなと思うが『君が代』の流れる式典には行く気は毛頭ない。
こうして、冒頭に書いたように叔父の戦死までの軌跡は既に描いているので、次に手に入れた記録を基に父の従軍記録を読み解くことにするが、惜しむらくは20歳になって徴兵検査を受け本籍のある連隊で訓練を受けたという様子が全く分からないことで、それでも今まで曖昧模糊としていた父と泰緬鉄道との関係が分かっただけでも良しとする。
【続く】
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こんにちは、Machです。
当時、大阪市長であった橋下徹氏の『慰安婦』等に関する発言が問題となっていた時にアップした記事です。
【アーカイブ?21】2013年6月14日記(アメブロ)
橋下発言をきっかけに、歴史認識の問題が再び大きく浮上してきています。
その中で本著を読むことができたのは、とてもトピックなことでした。
日本の近現代史について、私はしっかりと学んだ記憶がありません。
歴史認識が問題になるたびに、自分の歴史認識の無さが痛感され、周囲の意見に左右されておどおどしている情けない自分がいることを自覚します。
ただ、私は、どんな立場の人間であれ対等なものであるとの意識が強かったので、他人に対して一方的に卑屈になる人や逆に尊大な態度を取る人に与することはできませんでした。
ですから、本書でも問題にされているような自虐的な歴史認識に対しては、以前から違和感を感じざるを得ませんでした。
自虐的な歴史認識を声高に主張する人の意識の根底には、ある種の優越意識のようなものがあるような気がしてなりません。
別の言葉でいえば、絶対的な弱者に対する特権意識のようなものです。
歴史的、社会的な弱者に同情する気持ちは分かるのですが、当時の歴史的、社会的な状況の中で一方的に自分たちが間違っていたと言い切れるものでもないと思います。
こういった傾向は、左翼といわれる人たちの中にも多くみられるものです。
人間的にはとてもいい人なのですが、いつも偉そうに自分の意見を主張するのがとてもやっかいです。
本書は、日本の近現代史に対する一つの視座を与えてくれるものとして私にとってはとても有用なものでした。
自ら歴史を貶める日本人 (徳間ポケット)/徳間書店
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【写真はセブ島東海岸から見たレイテ島方面でパロはこの海域の反対側にある】
銅像はマッカーサーとその幕僚たちが膝上まで漬かって上陸した様子を再現した物で、後にセブが生んだ大統領として知られるオスメニャ(当時の大統領が在任中死亡したために副大統領から昇格し大統領後の選挙では落選)も一緒だが、やらせを好んだマッカーサーの取り巻き連中で『マッカーサー・ボーイ』と揶揄されている。
20日の上陸を期に最も日本兵の死傷者を生み悲惨な戦場といわれる『レイテ戦』は始まるが、連合軍は一気にレイテ島に上陸したのではなく、レイテ島上陸の3日前の10月17日に、レイテ島の隣にあるサマール島近くの島とミンダナオ島北端の島に上陸し、日本軍守備隊を蹴散らしている。
サマール島近くの島とは同島の南端にある『スルアン島』と『ホモンホン島』、ミンダナオ島北端の島とは『デナガット島』で上陸部隊は第6レンジャー大隊というから編成人数は500〜600人ぐらいだが、今でいう特殊部隊の精鋭を先遣隊として送り込んだようだ。
対する日本軍を守備隊と書いたが、恐らく数十人単位の小銃と手榴弾程度しか持たない守備というより見張りを主にしていただろうから、重火器で武装された精鋭を送り込まれては戦うまでもなく勝負は呆気なかった。
連合軍が上述の島に上陸したことを受けて日本の陸海軍を統括する『大本営』は『捷一号』作戦を発動するが、『捷』という字は『勝』と同じでわざわざ分かり難い語を使うことに日本軍の事大主義の性格が出ていて、号数が付いているようにこの作戦は四号まであった。
二号は台湾、沖縄などの南西諸島、三号は本州、四国、九州、四号は北海道に区分されているが、何れも連合軍の上陸を前提にした作戦で、三号以降はいわゆる『本土決戦』であり、もしこの作戦まで至ったら日本人の死者は数百万人どころか千万人単位に至ったといわれ、平気でこういう作戦を考える頭を持つ職業軍人の時代は悍ましい。
フィリピンの日本陸軍は第14軍が駐屯していたが、連合軍上陸の事前分析から7月には上級の第14方面軍に昇格させ、9月には満州の第1方面軍司令官であった山下奉文大将を第14方面軍司令官にし、フィリピン防衛戦を担わせることになる。
『マレイの虎』として勇名を馳せながら満州に追い払われていた山下は、9月末にマニラの飛行場に着任するが、飛行機を降りた時の第一声が『レイテってどこだ』と本当だか嘘のような話が伝わるが、そのくらい当時の日本軍は負け戦の中で相当ドタバタしていたことが分かる。
山下の前任は黒田という中将で、この人物マニラの享楽に溺れた司令官として有名で、それが部下たちに蔓延してフィリピンの防衛体制を築くのを怠り、山下が着任してから急遽防衛体制が作られたというが、既に時遅しで泥縄とはこのことを言う。
当時のフィリピンはアジアでも有数の経済力を持ち、マニラなどはアジア一の歓楽街が繁栄し、そういう地域に駐屯した日本軍将兵が享楽に染まることは当然で、軍紀の乱れは酷かったという。
当初、フィリピン防衛は首都マニラのあるルソン島に連合軍は上陸すると見て立案されていたが、レイテ島に上陸する見通しが高くなったために、急遽レイテ島で戦う作戦に変更されたが、軍というのは巨大組織でそうは簡単に対処出来るものではなく、こちらも泥縄的対処となった。
ルソン島防衛に備えた師団をレイテ島に移動させたり、大陸から多くの師団を逐次回したが、既に制空、制海は連合軍の手に落ちていて、兵員と武器弾薬を積んだ日本軍の輸送船は餌食になって沈められ日本軍は消耗する。
さて、フィリピンに発動された『捷一号作戦』は陸海軍の総力を挙げて連合軍を叩く作戦だが、特に海軍は機動部隊を投入するが、その年の6月にマリアナ沖海戦で日本海軍は空母3隻、搭載機400機近くを失う大敗戦を喫していて、特に大量の操縦員を失ったのは大きかった。
その後、操縦員の補充は何とか繕ったが、その技量はかなり低く技量レベルは上からAは少なく技量度が最低のDに入る搭乗員が大部分であったとの記録もあり、いくらゼロ戦が優秀でも操縦する人員は簡単には養成、補充出来ず、戦後連合軍の『物量』に負けたと嘯く元軍人たちは多いが『人』の問題の方が大きかった。
このマリアナ沖海戦の大敗がサイパン島上陸に繋がり、時の軍事政権を一手に握っていた東条英機が辞職して内閣は瓦解するが、後任も軍人出身の小磯であり、完全に劣勢となった戦争を止めるなどの発想は日本には全くなく、『一億火の玉』など空虚な標語で戦意高揚を叫ぶだけで、内外の犠牲者は増える一方であった。
さて10月17日にサマール島南端の2島に上陸したアメリカ軍のレンジャー大隊だが、その一つに『ホモンホン島』があり、この島は大航海時代に世界一周航海を成し遂げたとされる『マゼラン』が1521年3月17日に上陸した島で、その日からスペインによるフィリピンの植民地支配が始まる。
長い時間を挟んで同じ島にマゼラン艦隊とアメリカ軍部隊が上陸したのは偶然かも知れないが、レイテ島に上陸するには地勢的には重要な島で、マゼランはいきなりレイテ島に上陸するのは躊躇い、様子見のために小さなホモンホン島に上陸したらしい。
その後マゼランはよりレイテ島に近い『リマサワ島』に上陸し、この島でカトリックのミサを行ったとされ、これがフィリピン最初のミサといわれフィリピンのカトリック教徒には聖地になっているが、スペインによるフィリピンの植民地化が始まったと評する見方もある。
マゼランは4月7日にセブ島へ達し、セブ本島の首長を懐柔してカトリックのミサを行い布教に成功するが、その余波をかって4月27日セブ島隣のマクタン島に上陸するが、マクタン島の首長『ラプラプ』率いる地元民と戦いマゼランはその地で戦死する。
マゼランを失った一行は這う這うの体でフィリピンを離れ、艱難辛苦の末翌年の1522年9月6日、スペインにたどり着くが、これが巷間いわれる『マゼランの世界一周』となるが、マゼラン艦隊の手による世界一周といった方が正確である。
話を戻すが、10月20日にレイテ島に上陸した連合軍に対して日本海軍は戦艦武蔵などを含む3つの戦隊をそれぞれ別の方角からレイテ島に向かって動員をするが、何れもレイテ島に達する前の海域で圧倒的な航空攻撃によって艦隊は壊滅的打撃を受け武蔵もシブヤン海に沈んだ。
この戦闘は『レイテ沖海戦』『サマール島沖海戦』といわれ、日本艦隊のレイテ島突入攻撃を目論んだが、栗田艦隊によるレイテ島直前の謎のU字ターン行動など、今でも真相は解明されていない部分もあり、日本軍の挽回は仮に突入成功しても難しかった。
そこから10月20日になって海軍は航空機によるレイテ島連合軍艦船への体当たり『神風特別攻撃』作戦を発動するが、同日は天候不良で出撃機は全機引き返し、翌21日にセブの海軍基地から出撃した久納中尉が戦果不明の帰らぬ人となり、これが神風特攻作戦戦死者の嚆矢となった。
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