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コロナの影響で外出を控えていたのもあり、随分久し振りでしたが、先日は御徒町へ買い付けに行きました。
色々な用事を詰め込んでいますが、メインの用事はこちら。
オーダーで使うルビーとエメラルドを仕入れに行ってました。
色味やカット、照りなど、より良い石を、お客様にご提供出来るように、数が多いので自分の目で見て確認します。
その後は、所用にて隣町のアメ横まで。
こちらは何年振り? くらいもの凄く久し振りです。
中田商店が健在なのも、嬉しかったり。
買い付けの石選びは、非常にデリケートな仕事内容ですが、その後は人混みの中で探し物をしたり。
帰って来て、工房では、こんな作業。
建築現場等でよく見る、異形丸鋼です。
この1820cmを23cmの長さにカット。
頭は使いますが、なかなか楽しい業務内容が続いております。
オーダーメイドジュエリーの制作は是非、当工房にご相談下さい。
東京都町田市つくし野に工房を構える、ジュエリー工房ケンズセッション。
お客様のこだわりを、心を込めて形にさせていただきます。
https://kens-session.com/ordermade/
今までのオーダージュエリーはこちらからご覧下さい。
http://blog.kens-session.sub.jp/?cid=2
【作詞:関口義明 作曲:荒井英一 歌手:井沢八郎】
【写真−1 あゝ上野駅はデビューして3曲目の大ヒット】
この歌が出た1964(昭和39)年は東海道新幹線が開通し、東京オリンピックも開かれ、日本は公害問題を抱えながら高度成長まっしぐら敵なしという具合で、長期政権だけが自慢の佐藤栄作内閣が始まる。
井沢八郎は1963(昭和38)年にデビューしたが、歌謡界は『御三家』と呼ばれる橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦が席巻し井沢はパッとしなかったが、3枚目に出した『あゝ上野駅』が大ヒットの100万枚を超え、題名の『あゝ』の表記など今では使われず、読めない人も多いと思うと時代を感じさせる。
なお井沢八郎は2007(平成19)年1月17日に69歳で没するが、その長女が女優の『工藤夕貴』で、1990(平成2)年、今井正監督の遺作映画『戦争と青春』に主演し、日本アカデミー賞優秀主演女優賞、ブルーリボン賞主演女優賞を受賞。その後ハリウッド映画にも進出し、最近名前を聞かないと思っていたらNHKの連続ドラマ『山女日記』シリーズに出ているのを知る。
【写真-2 北の玄関口の上野駅も新幹線のタダの停車駅になってしまった】
この曲は高度成長を支えた東北からの出稼ぎ及び集団就職を象徴する歌として知られ、当時は中学を卒業して高校へ進学するのは半分もいない時代で、これら中卒者は『金の卵』と名付けられて都会に就職したが、東北方面からの集団就職列車の終着駅が北の玄関口として知られる写真-2の上野駅であった。
上野駅の現駅舎は2代目で、明治に完成した初代駅舎は煉瓦造りであったが関東大震災で倒壊、焼失し、しばらく木造の仮駅舎で営業をしていたが、今の建設会社大手鹿島の前身鹿島組によって建設され1932(昭和7)年に竣工した。
人と車の動線を分けた当時としては先を見越した斬新な駅で、工事で土台部分を掘り下げたら地中から幕末に上野で戦った彰義隊関係と見られる白骨や刀剣などの武器が多く出て来て、この辺りも上野寛永寺の寺領であったことが分かる。
駅舎は昭和通りに面し、かつては浅草、千住、須田町方面へ行く都電の乗り換え場所でもあったが東京オリンピック時に高速道路が昭和通りの真上に出現し、歩道橋なども出来て駅前の眺望は悪くなった。
上野駅駅舎を模した鉄道駅があり、旧満鉄の大連駅、函館本線の小樽駅が現存していて、その写真を見ると確かに似ていて、昭和のバブル期に現在の駅舎を建て替えて300mを超える超高層ビルにする計画もあったが、計画倒れとなり結果的には景観を崩す醜悪なビルを建てなくて良かった。
【写真−3 終着駅名残りの車止めの残る線路はまだ健在】
写真−3は上野駅のグランドコンコースと呼ばれる空間で、屋根を構成する鉄骨は竣工当時と同じ様に組まれ、この剥き出しの具合が上野駅らしさを醸し出していて、かつてはもっと暗い感じを受けたが照明を変えたせいか、かなり雰囲気は明るくなった。
正面突き当たりが中央改札口になり、その上に見える壁画は『猪熊弦一郎』制作の『自由』で1951(昭和26)年に完成。猪熊は香川県出身で2022(令和4)年に国の重要文化財に指定された丹下健三設計の香川県庁東館にも『和敬静寂』と名付けた壁画を残している。
【写真−4 こういう当時の世相を映す曲もスマホ時代では埋没している】
金の卵を運んだ東北からの集団就職列車は1954(昭和29)年4月5日、青森駅発15:33の臨時夜行列車が最初で、それから集団就職列車は1975(昭和50)年3月24日に廃止されるまで延々と続いた。
同じ月には山陽新幹線が博多まで伸び東京−博多間にひかりが走り、5月には女性で世界初めてのエヴェレスト登頂に田部井淳子が成し遂げ、7月に沖縄海洋博開幕、広島カープが球団創設以来優勝したのもこの年である。
その集団就職の出来事を末永く残そうと広小路口ガード下に2003(平成15)年に建立されたのが写真−4の『あゝ上野駅』の歌碑で、高さは2.6m、建立資金の2000万円の多くは集団就職で上京した人々の寄付で賄った。
嵌められているレリーフは集団就職列車を牽引したC−62蒸気機関車と集団就職の少年少女達を浮き立たせ、先頭で旗を掲げているのも時代を感じさせるが、右上の18という数字は今は欠番になった上野駅18番線ホームに集団就職列車が到着していたことを表している。
【写真−5 この地下道昭和通りの向こう側まで出られ京成線とも繋がっている】
上野駅というと小生の年代には薄暗い地下道のイメージが強く、写真−5はアメ横口から出て左側にある地下道入口で、写真−4の歌碑はスロープが地上から潜る上の舗道の裏にあり、このスロープの先は地下鉄銀座線と日比谷線の改札口に繋がっている。
今は地下鉄などといわず『東京メトロ』と呼んでいるが東京の人間にとっては『民営化される前の『営団地下鉄』といった方に馴染んでいるし、地下鉄銀座線は1927(昭和2)年に上野−浅草間で開通した日本で初の地下鉄で、その関係で昔から東京メトロの本社は写真−2の上野駅の昭和通りを挟んだ真向かいにある。
この地下道、こどもの時に通ると今でいうホームレスが寝転び、地下には食堂から流れて来る異様な臭いが籠って怖かった記憶を持つが、今は綺麗に整備されホームレスも近づけないようにしているが、壁の立ち上がりなど基本構造は変わっていないのでかつての時代を思い出させる。
地下道は敗戦後には焼け出されて浮浪者になった人々が住み着いていて、1945(昭和20)年12月25日に警察力を使って排除、収容した時は2500人も居たといい、この時代の警察の出動は『狩り込み』と称し時代を感じさせるが、現代でもかつて多かった上野公園のホームレス・テントは排除されてすっかり消えたが、目に入らなくなっただけでホームレスは分散し減ってはいない。
【写真−6 2022年の桜の開花は例年並みという】
上野駅から東京文化会館や、ル・コルビュジエ設計で2016年に世界文化遺産に登録され、前庭にはロダンの考える人などの一連の作品が置かれた国立西洋美術館を過ぎると写真−6の場所に出てここは上野を代表する花見スポットになる。
この写真は2010(平成22)年4月2日に撮っていて少々古いが、毎回花見時に日本へ行って必ず撮る場所で、他の写真は雨であったり人の映り込みが悪くこの写真を選んだが、この頃は海外から日本の桜を観に来る人が増え出し、日本語よりも外国語で話している人が目立った。
上野公園は正式には『上野恩賜公園』というように1924(大正13)年に宮内省から東京市に払い下げられ天皇家の持ち物なので『下賜』という言葉が付いていて、元々は江戸時代創建の上野寛永寺の境内で、今もその名残りの清水観音堂、上野東照宮、五重塔が園内にある。
【写真−7 この先は御徒町駅に出て、広小路は右側に出た所】
上野駅と御徒町駅間のガード下で発展したのがアメ横で知られる『アメヤ横丁』。アメヤの名称は戦後『飴』を売っていた説と『アメリカ』進駐軍の放出品を売っていた説があり、今では魚介を中心とした食料品の安売り店が並ぶ通りとして有名になった。
小生が都電で中学に通っていた時は仲御徒町停留所で乗り換えるために、いつも寄り道していた場所だが、戦後の闇市の余燼は残っていて、ガード下内の小さな店でまだ自由化されていない高級化粧品や時計などを扱う店が店を構える中、軍装品やモデルガンを扱う店が点々とあった。
写真−7の高架線路に沿った左側の通りは、安売りの魚介類を売る通りで知られ、客寄せの濁声が威勢よく飛び交うが、品物自体はあまり良くなく安い値段に買い込むと臍を噛むことが多く、それでもセブへ帰る時はここで大きな乾燥わかめをいくつも買っている。
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]]>4月15日まで延びました
dimancheの新作も今週末に入荷予定ですので、
お花見と一緒に楽しんでくださいね
シャンシャンの整理券は23日は午前中で配布終了してたようです。
早めに来て、パンダも観れるといいですね。幸運を祈ります
3/23日の上野公園の桜..5分咲きくらいでしょうか..でも人はいっぱい!
やっと..春が来ました
それでは、良い日曜日を...!
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