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中央左上にはドーム競技場が見えます、、、この少し高い所は天面山です。
三重町から天面山へ行くには犬飼の商店街を通って大分市と豊後大野市の境を左折、ひたすら山の方へ進みます。
我が家から40分くらいかかるかな。。。
ちょっと雪が降ってて、草の上に雪が積もってて、その写真を撮影するのに夢中になりました(笑)
ところで天面山には城があって色々とあった城主なんですが、、、結局自害したという悲しい?、、、情けない?最期だったんですよ。
こんな大きさのどんぐりを見たのは久しぶり、思わずシャッターを押してしまいました。
なんだろう、、、雪っていいですよねぇ。。。
つい最近大雪が降りましたが、あんな雪はごめんですけど(笑)
うっすら積もった雪はいいなぁ。。。
あーカメラ持って出かけてぇ。。。
今日はここまで、それではご機嫌よう♪
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昨日の朝、午前6時過ぎに停電がありました。
「すぐつくじゃろぅ」
すると2分ほどして回復、と思ったらすぐに停電。
何度か回復したんですが、すぐに停電、「これはいつもと違うぞ」。
最終的には20分ほど停電して回復、ここ数十年で一番長い停電時間でした。
我が家では朝食をいただく時間帯だったので、薄暗い部屋で朝食をいただきました(^^ゞ
今の家って停電すると何もできないんですねぇ。
昭和の時代には停電なんて日常茶飯事、停電になると「ロウソクを持っちきよ」とお袋が号令(笑)
ロウソクは常備してましたから、ロウソクをつけてご飯をいただいたのを覚えてます。
では本日の記事です。
前日に雨が降ったんですが、この日は晴れ。
ちょっと足を伸ばして大分市の竹中に行ってきました。
竹中駅の前を過ぎて2キロくらいかなぁ、竹中郵便局があって、そこから300メートルほど進むと道路の右側に「鏡城址」の小さな看板があります。
看板のある場所から200メートルほど坂道を上ると写真の広場にたどり着きます。
車で上ることは出来ますが、離合は出来ない細い道なので徒歩がいいでしょう。
ただ、最初は緩い上り坂なんですが、写真のところからは急坂です。
坂の角度は30度はあるだろうなぁ、、、私は写真奥まで上るのに2度休憩しました(^0^;)
奥まで進むと左に再び上ります、、、60を過ぎた爺さんには優しくない坂です(苦笑
ここが鏡城址からの眺望です、実際の鏡城は竹中トンネルあたりにあったという説もあるようですが、どうなんでしょう。。。
写っていませんが、川向こうの右側に鶴賀城址があります。
「戸次川合戦」をご存知でしょうか、ここがその戦場だったんです。
天正14年(1586年)豊後へ侵攻した島津軍は利光宗魚が堅守する鶴賀城を包囲していた。
島津軍の豊後侵入に対処するため、大友義鎮(宗麟)は豊臣秀吉に援軍を要請した。
秀吉は本隊が九州に到着するまでのつなぎの軍として、四国の仙石・長宗我部・十河の軍の出兵を命じた。
府内に上陸した四国勢は、大友の家臣・戸次統常が誘導して鶴賀城救援に赴くことになり、大分市の上野の原から戸次川の左岸にある竹中村の鏡城に達し、ここで作戦会議が行なわれた。
長宗我部元親・十河存保などの慎重論に対して、仙石秀久は直ちに渡河し鶴賀城を囲む島津軍を攻撃すべきだと主張し、ついに渡河作戦が決行されたが、島津軍の反攻に遭って四国勢は潰滅した。
このとき島津軍がとった戦法が「釣り野伏せ」です。
この写真だと「あぁ、あそこかぁ」って、わかる方が多いんじゃないんでしょうか。
国道10号線を通ってると戸次の手前、水管橋が道路の上に渡してあるじゃないですか、その対岸に鏡城址があります。
約440年前、ここで合戦があったなんて信じられないくらい穏やかな風景です。
今日はここまで、それではご機嫌よう♪
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津久見にやってきました、この日は天気がよかったんで気持ちよかったぁ\(^O^)/
ここは大友宗麟公墓で高台に眺望所があります。
右側に小さい駐車場、奥に見える三角屋根の建物はトイレです。
途中から住宅地を通るんですが、その道が狭い!
普通車はもちろんですが軽自動車でも離合することが不可能なくらいの狭い道を通ります。
トイレの先を進むとお墓の下に出ます。
進むといっても10メートルほどの距離です(笑)
階段を上るとすぐ右側に。。。
大友宗麟の銅像がたっています、大きさは1メートルちょっとくらいかな。。。
階段を上って左側にキリスト教式の墓碑があります、でもこの墓碑は昭和52年に並べられたものです。
キリスト教式の墓碑から少し離れた右側に旧家臣の末裔「臼杵城豊」によって改葬されたお墓があります。
詳しい説明はしませんが、詳しく知りたいって方は「大友宗麟 墓」で検索してください。
大雑把に言えば、大友宗麟が亡くなってお墓はキリスト教式だったんですが、秀吉によるバテレン追放令が発せられると長男が仏式に改葬、その後墓は荒れていき家臣の末裔が改葬して現在に至っているってことです。
駐車場の上には大友宗麟の像があります。
でも階段を上がった所にある銅像と顔が全く違うんです(笑)
小さい銅像は凜々しい顔をしてるんですが、こちらの像はお爺ちゃんになってます。
ここには桜が数本あるだけでモミジが多い公園です、秋に訪れると紅葉がきれいでしょう。
興味のある方は一度足を運んでみませんか。
今日はここまで、それではご機嫌よう♪
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いやーほんとに寒くなりました、「涼しい」じゃなくて「寒い」んです(苦笑
日中は暖かいんですが、朝が寒い!
まぁ考えてみれば今年も残り三ヶ月ですから、、、寒くなって当たり前なんですけどね(^0^;)
ても冬は大っ嫌いだぁ!
では本日の記事です。
安心院に行った一番の目的は「佐田神社」です。
実は国営放送で放送されたファミリーヒストリーという番組、多くの方がご覧になった思うんですが、この番組で女優の賀来千香子さんのご先祖が紹介されました。
そのご先祖の偉業が反射炉、佐賀県の反射炉や山口県の反射炉が有名ですが、大分県に反射炉があって鉄製の大砲などを造りあげたんだそうです。
写真は文化財の両部鳥居で、 民間ながら反射炉を築き大砲を鋳造した実業家、賀来惟熊の寄進によって、弘化2年(1845)に造られました。
両部鳥居の正面、2本の柱には、惟熊が師事した帆足万里の書が刻まれています。
テレビ放送では、この場所に反射炉があったんじゃないかと話してましたが、どこにあったのかは不明。
でも、神社の境内にあったことは間違いないようです。
反射炉に使われていた「耐火煉瓦」でできた塀が、佐田神社本殿裏に築かれています。
この耐火煉瓦の表面は溶けていて、かなりの高温にさらされていたことがうかがえます。
でも本殿裏に回ると塀が一部崩れているんです、その前後をみても崩れ落ちるのは時間の問題かな。
境内には他の文化財もあります。
右端の板碑は、 元弘3年(1333)、示阿が願主となり中村青蓮寺中興の源秀上人を導師に仰いで供養されました。
一般的に板碑と言えば、板状のものが多いですが、こちらの板碑は方柱をなし「角塔婆」「四面板碑」とも呼ばれています。
四面いずれにも梵字が薬研彫されています。
左から二番目の板碑は、 正慶元年(1332)、示阿をはじめ時衆ら80人が阿弥陀に天長地久御代円満を祈願して建てられました。
なお、この板碑に刻まれた「正慶元年」は北朝の年号であり、この年に後醍醐天皇が隠岐に遷されています。
右端の板碑に刻まれた「元弘3年」は南朝の年号であり、この年に北條氏が滅び後醍醐天皇が再び京都に戻っています。
以上二基の板碑が文化財です。
佐田神社にあったという反射炉について詳しく知りたい方は、「安心院町 佐田神社」で検索してください。
大分に反射炉があって、実際に大砲が造られていた、、、それも民間人の手によって。
でも反射炉は取り壊し大砲も鋳つぶしました、なぜか。。。
調べてみると面白いですよぉー(笑)
今日はここまで、それではご機嫌よう♪
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宇佐市安心院町にある「山蔵のイチイガシ」、大分県指定の天然記念物です。
前の家に住まわれてる方は、、、怖いでしょうねぇ、でも慣れてるかな(^0^;)
上さんは、こういう大木に出会うと必ず触って運気を上げようとします(笑)
根回りが12.1メートル、北側地上から高さ1メートルの胸高幹囲は7.4メートル、樹高は24メートルの大木です。
残念なのは樹齢がわかっていないようです、想像ですが最低でも「ん百年」以上の樹齢であることは間違いないでしょう。
そして上さんと話したのが元気なんですよ、ですから幹や枝を支えていませんし、そのまんまの状態なんです。
この土地との相性がいいのかなぁ。
今日はここまで、それではご機嫌よう♪
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朝の平山温泉です、温泉地らしくない風景でしょ?(笑)
撮影している場所の道路が平山温泉地のメインな道路になっていて、この道路沿いに宿泊施設が点在してます。
散歩中に見つけた文化財です。
石橋を文化財として保存したようです。
まさか散歩しているときに文化財と出会うとは思ってませんでした、カメラを持ってて良かったぁ。。。
道路の拡幅工事で移築したようで、豊後大野市にも同様の石橋があるんですよ。
道の駅「あさじ」の裏に保存されてる「中渡橋」、知ってましたか?
私のブログでもご紹介させていただきました。
本日は文化財の紹介を省略するため、現地にあった案内板を撮影しご紹介させていただきました。(笑)
実は、この散歩から帰った後、宿で鼻血が(笑)
思い返しますと、散歩から戻った部屋はエアコンで涼しい(私的には寒いんですが)、体は温まってる、その温度差で血圧が上がって鼻血が出やすくなった、、、のかな。
これで旅のご報告は終わりですが、生きてるうちに撮影したかった教会と初めて見た劇場、そして自然の不思議「不動岩」や鞠智城址、
いやー知らない名所がたくさんあるんですねぇ。
そして忘れてはいけないこと、天気が良かったんです!
暑すぎたのは予想外でしたが、天気が良かったから旅も楽しかったし写真撮影も気持ちよくできました。
そして、愛車が目立ったことも。。。
考えてみれば愛車は24歳、現在20代の若者は私の車を全く知らないはず、それにエンブレムなども全て取っ払ってるので何の車かわかるはずがない。
それでガソリンスタンドに立ち寄ったとき、若い従業員が車を遠巻きにして眺めてたんだぁ。
上さんが「見らるんと恥ずかしいなぁ」って言ってましたが、私もちょっと恥ずかしい思いをしました(笑)
このブログの読者で「旅に出ると天気が悪いんだよなぁ」そんな方がいれば、私と上さんをセットでレンタルできます!
レンタル料は二人分の宿泊料金+焼酎2合で結構です(笑)
晴れ男と晴れ女のレンタルで天気を気にせず楽しい旅ができますよ、是非ご検討くださいませ☆爆笑☆
今日はここまで、それではご機嫌よう♪
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?津教会から八代に移動、ちょっと距離がありましたが八代城址に到着。
城址といっても現在は八代宮です。
この神社には相撲場があるんです、それも立派な相撲場。。。
肥後国は一国二城体制が特別に認められていたんですよ、元和五年(1619)の大地震で崩壊した麦島城と熊本城の二城です。
熊本藩主の加藤忠広は幕府の許可を得て、城代の加藤正方に命じて徳渕の津北側に城を再建し、元和8年(1622年)に竣工。
これが現在の八代城で、明治維新まで肥後国の一国二城体制が続きました。
明治3年(1870年)に八代城は廃城となり、同13年に八代町民の願いが叶い、南北朝時代の後醍醐天皇の皇子懐良(かねよし【かねなが】)親王顕彰(けんしょう)のため
本丸に八代宮を設置することとなり、同年官幣中社(かんぺいちゅうしゃ)に列せられることとなりました。
同16年に社殿が落成し、南側石垣部分を開いて参道を設け、翌17年4月に神霊鎮座(しんれいちんざ)の大祭が執行。
同19年1月には良成(りょうぜい)親王が配祀され、現在に至っています。
城址の中をくまなく歩けば八代城の名残が残っているようなんですが、できれば案内板が欲しいかなぁ。
そして順路を示してくれれば歩きやすいと思うんですが、、、市長、考えてもらえないでしょうか。
写真は拝殿の前にあった井戸跡です。
平成9年の霊社改築に伴う発掘調査で発見された井戸跡です。
こういう城の遺構を見学したかったんですが、暑くて何もわからん城址を歩き回るのは無理!
それで駐車場に戻り、この日の宿、日奈久温泉に行くことにしました(^0^;)
今日はここまで、それではご機嫌よう♪
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この文化財、場所は三重町の鷲谷地区になるようです、撮影している位置から左に進むと鷲谷地区、右方向に進むと松谷地区に出ます。
この文化財を見学するためには松谷地区から来るしかありません、自宅からであれば鷲谷地区からが近いんですが、一部の道が草が伸び放題で車は通れません(T-T)
若い方は知らないでしょうが、この道は旧国道326号線、三国峠に行く道で道沿いには桜の木が植えられていたんですよ。
昔は「三国峠マラソン」でしたっけ、、、桜が開花した時期にそんな大会名のマラソンがあったんです。
ところが、桜の木がほとんどない(°0°)
道路沿いに植えられている杉の木が大きくなったせいでしょうか、桜の木が枯れていたり、伐採されていたり、あの桜並木の面影はありません。
ただの山道になっちゃいました(>o<)
旧326号線を走って最初のトンネルをくぐらず、左へ進む山道を走ると文化財に出会うことができます。
実は並石石幢のご紹介は、2015年9月18日にしています(笑)
じゃあなぜ今回ご紹介するのか、、、真相を包み隠さずお話ししましょう(苦笑
前回の記事を読んでいただくとわかると思いますが、石幢の写真は2枚しかありません。
実は、この現場に来たときどっちの石幢が文化財に指定されているのか、、、わからなかったんです(笑)
上の写真でいえば、右の石幢の前に標柱があったので「こっちか!?」いやいや「それともあっちか!?」迷いました。。。
最後までどちらかわからないまま、両方の石幢(右は単制、左は複制の石幢)を簡単に撮影して帰宅。
帰宅して調べたら左の石幢が文化財だとわかったものの、詳細な写真がない(苦笑
そこで、石幢以上に気になったものを中心に記事を書きました。
その気になったものが、これです(笑)
前回の記事で色々書いてますから今回はパス!
改めて文化財をそこそこ詳細に、ご紹介させていただきます_(_ _)_
これが市指定有形文化財の「並石石幢」です。
基礎・幢身・中台・笠いずれも平面は円形で、総高は220cm。
龕部は八角で、六地蔵と十王像2体が平丸彫り 。
幢身に銘文があり、室町時代の永正14年(1517)現世安穏を祈願して造立したもの 。
こんな文化財です。
石幢は笠塔婆の一種として分類されています。
石幢は二種類あって「単制」と「複制」に分けられ、南北朝時代ころからは六地蔵を刻出す六地蔵石幢が多く作られてきました。
写真の石幢は、単制で銘文は見つからず。
単制の石幢と複制の石幢が同じ場所にあるのは市内ではここだけ、、、のはず(笑)
並石石幢、完璧にご紹介出来ました(^^)v
今日はここまで、それではご機嫌よう♪
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