【写真−1 駅を出た所に山頭火の句碑が建っている】
志布志市は俳人の山頭火が1930(昭和5)年の10月に3日間だけ訪れた場所で、その縁から市内には句碑が13基も建てられ、写真−1の『志布志駅』隣の『大隅夏井駅』前に句碑がある。
『大隅夏井駅』前の句碑は『線路へこぼれるゝ 萩の花かな』と詠まれているが、同駅が開設されたのは1935(昭和10)年であり、山頭火は串間から駅前を通る現在の『国道20号線』を歩いて志布志へ入ったように当時の日南線はまだ『志布志駅』とは繋がっていなくて、萩の花を見て詠んだ線路は別なのではないか。
【写真−2 全面は白い塗装だが車体の横に杉板が張られている】
『油津駅』に14:36に到着し同駅で14:51発の『南宮崎駅』行きに乗り換えるが、途中写真−2の列車に追い抜かれ、この列車は日南線で週末など期間限定の臨時特急『海幸山幸4号』で、『油津駅』2つ先の『南郷駅』−『宮崎駅』間を1時間21分で走っている。
同特急車両は旧国鉄、第3セクター路線であった『高千穂鉄道』が2008(平成20)年に廃線になった時に使われていた列車をJR九州が購入し、地元産の杉の木を内外装に多く使った車両で、全席指定の2両編成のワンマンカー。
高千穂線は『延岡駅』−『高千穂駅』間、19駅、50キロの山間部を走り、特に高さ105mの『高千穂橋梁』は日本一高い鉄道橋梁として知られるが、同線は2005(平成17)の台風で大きな被害を受け、復旧ならず廃線となった。
【写真−3 戦時中にこの沖合いに連合軍の上陸部隊が来るはずであった】
日南線は写真−3のように時々海の姿を見せるが、戦時中には沖縄の次に連合軍の九州への上陸地3ヶ所に挙げられていて、『志布志駅』のあった志布志湾はその一つで、残る二つは東シナ海に面する鹿児島県『吹上浜』と『宮崎海岸』となっていた。
この作戦が決行されていたら、本土決戦と叫んでいた日本は数百万人どころか1千万人を超す死者を生じたといわれ、それでも日本の軍部は本気で対抗作戦を立案していたから戦争の狂気というのは本当に怖く、煽って何事も好戦的になった今の日本に対して『新しい戦前』という指摘も当たっている。
【写真−4 国道220号線の山側にあり利用者は1日一桁の無人駅】
写真−4の『伊比井駅』では停まる時間が長かったのでホームに降りたが、日南市内には10の駅があり、同駅は日南市では最も宮崎寄りにある駅で、次の『小内海駅』から宮崎市内に入る。
『伊比井駅』の近くに『鵜戸神宮』があり、と言って歩いて行くには遠く駅の下にある国道220号からバス利用になるが、同神宮は海蝕洞窟内に建てられ参拝するには崖を降りて行く珍しい神社で、建造物は焼失したりして国の文化財指定にはならないが、日南地域では著名な観光地になっている。
【写真−5 駅の近くは大手のホテルなども建つリゾート地域】
『こどものくに』と名付けた駅は神奈川県横浜市や愛知県西尾市にもあるが、それらは平仮名表記で宮崎県の写真−5の『子供の国駅』は漢字表記で、同駅の最初は1923(大正12)年に『青島温泉駅』として開業した。
1939(昭和14)年に地元資本が『こどものくに』という名のレクリエーション施設を開設した時に『子供の国駅』と改称し、戦前なので『こども』ではなく『子供』が当たり前に使われたが、戦後の1949(昭和24)年には『こどものくに駅』となったが、日南線が国鉄所有になって現在の漢字表記の駅に戻った。
『こどものくに』は海岸沿いに造られた遊園地で、宮崎が新婚旅行地としてブームになった1960年代の最盛期には年間165万人が訪れたが、その後時代遅れの施設となって遊具は撤去され、開店休業状態となっていたが、『AOSHIMA PICNIC CLUB』と名前を変えて新規の設備と内容を導入して2024年春に再開する。
【写真−6 同駅には宮崎空港へ直結する列車も入る】
『油津駅』から14:51に出た各駅停車列車は16:10に写真−6の『南宮崎駅』に到着したが、本来の日南線は同駅を起点とするが運行上から一つ先の日豊本線の『宮崎駅』が離発着駅になっている。
ホームの左側に停まるのは日南線の『油津駅』から乗って来た車両で、その右に見える車両は日豊本線を走る車両で、左は製造後やがて半世紀にもなろうとする古い気動車、右は最新式の仕様もデザインも優れた電車で、同じJR九州でも路線によって力の入れ方は違うことが分かる。
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【写真−1 JR九州管内だけに走らせるのは勿体ない車両】
日豊本線の各駅停車列車は長距離を走らずに短い区間を繋いで運行していて、そのためもあってか車両は近郊型の『JR九州817形電車』ワンマンカーを投入し、写真−1はその車内座席。
毎日乗車している人には目新しくもないだろうが、この座席は何度見ても面白くマジマジと見てしまうが、乗り心地の方は格別に良かったという記憶はないが、積層合板と頭乗せなどのカバーを綺麗な状態に保つには大変なことは確か。
【写真−2 宮崎駅から来る各駅停車列車はこの駅で折り返す】
都城市出身の知人がいて、長い間同人は鹿児島県出身と思っていたら都城は宮崎県であったというのは最近知ったが、地理的認識というのはそのくらい曖昧な面もあり、写真−2は宮崎県に入って2つ目の『西都城駅』。
同駅は写真でも分かるように1979(昭和54)年に高架になった駅だが、1987(昭和62)年に廃線になった志布志線の起点駅であり、この志布志線も途中まで高架化されていて、廃線後に鹿児島寄りの高架が鹿児島本線との分岐点でY字状に切られ途絶した状態で残っている。
志布志線はその名の通り大隅半島海沿いの『志布志駅』まで10駅、38.6キロの路線で、現在の『志布志駅』は『南宮崎駅』からの日南線のみ乗り入れ行き止まりになっているが、かつては鹿児島本線『国分駅』からの大隅線、そしてこの志布志線が乗り入れていて同地方の鉄道の要衝であった。
【写真−3 この駅先表示から都城駅の現在が分かる】
『国分駅』を13:55に出た『都城駅』行き各駅停車列車は14:44に写真−3の『都城駅』に到着したが、表示板の左側は鹿児島本線宮崎方面の『三股駅』、左側上は先述した『西都城駅』、その下の『日向庄内駅』は『都城駅』が起点になって肥薩線途中の『吉松駅』まで行く吉都(きっと)線。
吉都線は霧島山の北東側を走り、風光明媚な路線として知られ、17駅、61.6キロあり『えびの高原線』の別称を持ち、山岳地帯を走るのにトンネルが一つもない珍しい路線になるが、常に廃線の話が出て来る路線でもある。
【写真−4 古レールで造ったホームの構造は面白い】
『都城駅』は都城市の中心駅の様に思うが、市役所などの市の中心部は『西都城駅』で降りた方が近く、都城市は宮崎県で宮崎市に次ぐ第2の人口15万人8千人を擁し、『ふるさと納税』で全国自治体の中1位の195億円を集め、その巨額には驚かされる。
とかく問題のある『ふるさと納税』制度だが、都城市は牧畜業が盛んで地元産の牛肉や豚肉を返礼品として使っているのが人気の源で、こういう見返りの返礼品をなくしたら、恐らくどこの自治体も寄付はゼロに近くなるのではないか。
【写真−5 この後分かるが日豊本線は特急しか走らない時間帯がある】
写真−5の向こう側のホームに停まっている黒い車両は特急『きりしま』で、同特急は『宮崎駅』−『鹿児島中央駅』間125.9キロを2時間強で走り、この区間の乗車運賃は2530円、特急料金2330円で計4860円になるが、各駅停車列車の旅には関係ない。
現在の『都城駅』の駅舎は3代目で、2代目は1945(昭和20)年8月6日の都城空襲で焼失したが、同駅を含めて九州方面の駅は敗戦間際の空襲で被害を受けた所が多く、軍需物質を運ぶ鉄道は空襲目標になり、上空から見て長く伸びる線路は目立つから狙い撃ちされ易い。
【写真−6 本日最後に乗る宮崎駅行き各駅停車列車】
乗り継ぐ『宮崎駅』行きの電車は20分ほどの待ち合わせでやって来て、『都城駅』を15:08に出て『宮崎駅』には16:21に到着するが、4時台にホテルへチェックイン出来るのは初めてではないか。
『鹿児島中央駅』から『宮崎駅』間を3台の各駅停車列車で乗り継いだが、一列車当り40キロ前後の運行距離で短いと思うが、東海道本線でいえば『東京駅』から『横浜駅』の次の『戸塚駅』間が40.9キロあり、それと比較すると納得する。
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西武鉄道が創立110周年記念企画として2000系を旧武蔵野鉄道時代の電車をイメージした茶色に塗装するそうです。アプリで走行位置が分かるようになっているのは目撃したい人にとってありがたいと思います。(ぉぃ)
昨日「ブラタモリ」の宮崎編再放送を見ました。今日は高千穂編をやります。
その宮崎編では宮崎が南国リゾートになったことが出てきました。
今日は何で宮崎が南国リゾートになったのかを書きます。
私の妹の旦那が宮崎出身で宮崎の名門高校野球部で甲子園にも出場しましたが、私は宮崎に一度も行ったことありません。
宮崎県は皇祖発祥の地として古くから人気観光地になっていましたが、昭和初期になると宮崎の観光地化が顕著になってきました。
その宮崎の観光地化に大きく貢献したのが1926(大正15)年にバス会社の宮崎交通を創業した岩切章太郎で、当初は地域のローカル路線バスと現在のJR九州日南線の事実上の前身となる鉄道線を運営していましたが、1931(昭和6)年には皇祖発祥の地であることを利用した県内遊覧バスを運行開始しそれが好評で、1933(昭和8)年開催の産業博覧会には約23万人が訪問して宮崎は一躍人気の観光地になりました。その勢いで1939(昭和14)年には遊園地の「こどものくに」がオープンしています。
また、岩切さんは宮崎を南国風に見立てるために宮崎市南部の堀切峠にヤシの木の一種であるフェニックスを植栽しましたが、それが現在でも続く人気スポットになりました。
戦時中には観光バスは一時中断しましたが、戦後間もなくの1948(昭和23)年には再開し、翌1949(昭和24)年には現在の宮崎観光ホテルを創業し、1954(昭和29)年の南国宮崎産業観光大博覧会開催が宮崎の人気観光地化の原動力になりました。
そして1950(昭和25)年には白い砂浜と奇岩が組み合わさった絶景スポットの「鬼の洗濯板」で有名な青島から都井岬までの海岸線が日南海岸と命名され、これが宮崎を南国リゾートに仕立てる原動力になりました。
そんな中で1960年代には現在の上皇ご夫妻と島津夫妻の皇室2組が新婚旅行で宮崎を訪問していて、これが一般夫婦の宮崎新婚旅行ブームにつながり、ちょうどその頃には東京(TYO・JT01)発着のブルートレイン「富士」や新大阪(JR-A46)発着のブルートレイン「彗星」の運転が開始された上に飛行機も気軽に乗れるものになり始めていたためこれが宮崎へのアクセス向上に大きく貢献し、最盛期の1974(昭和49)年には約37万組以上のカップルが宮崎旅行をしていました。
平成以降は海外旅行に行きやすくなったこともあり宮崎観光客は減りましたが、1994(平成6)年には大型リゾートの「宮崎シーガイア(現在のフェニックス・シーガイア・リゾート)」が開業し宮崎の新しい観光の目玉として人気を集めるようになりました…が、バブル崩壊や料金の高さやアクセスの悪さを理由にあっという間に経営が低迷し2001(平成13)年には早くも経営破綻し、その後2度経営母体が交代し、積極的なリニューアルで息を吹き返し、インバウンドでも人気を集めています。また、同施設はサッカーキャンプ地やテレビ番組のロケ地などでも人気を集めています。
また、宮崎県はプロ野球キャンプととしても有名で、読売ジャイアンツやオリックスバファローズや福岡ソフトバンクホークスなどがキャンプ地にしていて、WBCやオリンピックの日本代表「侍ジャパン」も宮崎でキャンプしています。
宮崎の南国リゾート誕生秘話を知ると、もっと宮崎に行きたくなります。
]]>2022年11月18日加筆修正
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