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日本でジョン・レノンゆかりの地と言えば、軽井沢。
ファンの間では「ジョン聖地めぐり」の定番となった数々のスポットがありますが、今回はその軽井沢でジョンが残したユニークなエピソードをご紹介します。
貴重なお話を聞かせて頂いたのは、当時お父様所有の別荘で過ごしていた御年92歳(2023年3月現在)の石井さん(仮名)。足が不自由になったため数年前から施設に入られていますが大変お元気な方で、2019年に直接お会いして話を伺い、この度あらためてブログに記載する旨をお伝えすると「はい、どーぞ、どーぞ」と力強いお声で快諾して頂きました。
それでは始めたいと思います。
第2回『ジョン・レノン 夏の軽井沢で雷に怯えはしゃぐ?』
1978年夏(7月末頃?)
◆時は1978年の夏。石井さんの記憶によると(ご自身が8月に入るとすぐに奥様のご実家のある長崎に向かい10日ほど過ごした、その出発の直前だったので)おそらく7月下旬、末辺りではなかったかと思われます。
石井さんと奥様が過ごしていた別荘は、皆さんご存知の小野家別荘からは少し小道を回り込む形になるため、歩くと約10分程の場所にありました(現在もご親族が所有)。当時の写真を見せて頂きましたが、イメージとしては周りの雰囲気は小野家とほぼ同じで、庭の広さはややコンパクト。建物は純和風な感じでした。
石井さんご一家のお住まいは横浜でしたが、数年前に一人娘のYさんがご結婚されて京都に嫁がれてからは、夏に限らず軽井沢にある別荘で二人で過ごす時間も多くなっていたそうです。
ジョン・レノン一家が軽井沢に滞在しているという噂は、石井さんも軽井沢のご友人やご近所さん達から既に何度か耳にしていました。ただ石井さんご自身も奥様もクラシック音楽やジャズがお好みで、ビートルズもエルビスもラジオやテレビで聴いてはいましたが、ビートルズのレコードは一枚もなく、他のジャズ歌手にカバーされた物をいくつか所有する程度だったようです。
そんな石井さんがビートルズのリーダー的存在だったジョン・レノンを目撃する事になります。少し異様だったその日の軽井沢の空模様と重なり、石井さんの記憶に生々しく残っている貴重なジョンの姿です。
●時刻は午後2時頃。天気は悪くないのに空がゴロゴロと鳴り響き始めて「変な天気だなあ(石井さん談)」と思ったそうです。今のように雨雲レーダーもない時代、今は晴れてはいるがそのうち雨が降り出すかも知れないと思った石井さんは、庭先に干していた布団と洗濯物を早目に取り込みました。
奥様は昼食を済ませた後に車で駅前のスーパーに買い物に出ていました。当時ヘビースモーカーだった石井さんはタバコを頼むのを忘れてしまい、かといって今のように携帯電話もないので、自分で歩いて買いに出かける事にしました。
雷のようなゴロゴロという音は近づいたり遠ざかったりと続いていましたが、空は晴れていてすぐに雨が降り出すようには見えず、それでも傘を持参して「もし雨が降り出しても雷だとささない方がいいだろうか。それにしても変な天気だ」等と考えながら川沿いの道を進んでいました。
やがて、抜け道となる細い小道に入りました。すると向こうからゆっくりと自転車で進んでくる長髪でメガネの男性の姿。(上はピンク地に何かイラストや文字の入ったようなTシャツのように見えたそうです。下はどうだったか記憶無しとの事)
その姿が10メートルもない辺りに近づいた時、また空が「ゴロッ、ゴロゴロ」と鳴りました。
次の瞬間、自転車の男性は前のめりに身を乗り出すように立ちこぎを始めて「ウホホホホホー!」と「お猿さんの雄叫びに近い声」をはしゃぐように笑いながら発しました。
静かな軽井沢の別荘地の中にあってはさぞかし異様な光景だったでしょう。男性は驚いた石井さんと一瞬目を合わせて、すれ違って行きました。
石井さんはその男性を「ジョン・レノンだ」と思ったそうです。
でも、ビートルズもほとんど知らなかったという石井さんが、ましてや1970年代後半当時のジョンの風貌等を知ってるはずが?
「まあ「軽井沢にいるらしい」とは何度か聞いてたからね。でね、その時そう思ったっていうのは「だからきっとこの人が?」とかそんなんじゃなくてさ。自分でも不思議だけど、なんていうんだか、ビートルズのジョン・レノンっていうのはなーんとなくそういう人だろうとボンヤリ思い浮かべてきた感じにピッタリ!だと思ったんだよね、その時。あの感じがねー」と石井さん。
ビートルズ時代含めて、ジョンの写真も映像もそれまでほんの5、6回見た事があったかどうか。今(2019年)ならビートルズの4人の顔と名前は結べるけれど、その当時(1978年)は「タレ目で丸いポール」以外は顔もよく分かっていなかったと思うという石井さんが「ボクは霊感とか能力(超能力の事)とかそういうのまったくないよ(笑)なのに、なぜかねー、そう思ったのよ」。
この話を聞いた瞬間、私はゾクゾクッとしました。そしてこの後すぐに石井さんの直感はより確実なものになります。
通り過ぎた男性の方を石井さんがチラッと振り向いてみると、ほんの5、6メートル先で自転車を止めてこちらを振り返り何か叫んだのですが、石井さんが男性の視線の先を見ると日本人女性が遅れて自転車でこちらに向かってきます。オノ・ヨーコでした。
女性・・ヨーコは石井さんに「ごめんなさい」とすごく感じのいい表情で会釈をして通り過ぎて、男性・・ジョンに追いついて何か言うと、ジョンは興奮気味で笑いながら、上半身を自転車ごと左右に揺すって見せたそうです。
「急がないと雨降り出して雷落ちるよー!みたいな事言ってたんじゃないかなあ」と石井さん。「僕は英語は苦手でさ、それがコンプレックスだったの。聞き取りが苦手でねー。話せない。それなりには勉強してそれなりの大学には行ったわけだけども。だから英語堪能な妻がその時一緒にいれば他の会話も聴き取れたんでしょう。でもその時のジョンさん達のやり取りは大体僕にも分かった。と思うよ。別に難しい事言ってたわけじゃないと思うからね。多分そんな感じの事だと思うよ」
それが事実ならジョンが見せた仕草は「急ごう!」というような意味だったのだろうとも思われます。
その会話の中に「ヨーコ」という言葉は?とお訊きしたところ「なかった、と言いたいけど、あったかも知れないんだよね、ごめんね」。
そしてもう一つ「他にもう一人男の子(ショーン君)を乗せてませんでしたか?」と私が問うと「ああそうそう、お子さんね、名前が・・・・忘れちゃったよ(笑)」「よく連れてたらしいね、でもいなかったよ。その時はね、二人だけだったよ」
ここまでのお話を聞いて、私の中ではある疑問がどうしても払拭出来ずにいました。
ジョン・レノンの顔をよく知らないはずの石井さんが見たのは本当にジョンだったのか?という疑問です。
失礼かもと思いながら、私は一冊の本を石井さんの前に広げました。「ジョンレノン家族生活」。軽井沢をはじめ日本で過ごす貴重なジョンの姿も多数収めたビートルズ、ジョンのファンならマスト・アイテムの写真集です。
「あのー、ですね、これがその頃のジョン・レノンの写真なんですが・・・・」と言って私がいくつかのページをめくると、石井さんは「そうこれ、この感じね!」と目を輝かせました。
その目を見て私は、石井さんは間違いなくジョンを見た人だ!と確信できました。
「大きくないんだよねー。(身長は)どれくらい?」と石井さんに訊かれて私は「色々言われてますが多分175、6じゃないですか?180とかはないです」と答えました。(ジョンファンの皆さん、間違っていたらごめんなさい)
すると石井さん「そんなにある?170もないように見えたんだよ」「まあーこうかがんだり動いたり、自転車乗ってたから(そう見えた)かねー」「でもなんか髪長くてスーッとしててさ、格好良かったよ!」「髭はなかったね。さっぱりしてたよ、スーッとね」
「(肌の)色はそんなに白い!とは思わなかったなあ。外人さんだけど、ね。まあ僕が色白だからかねー(笑)」確かに石井さんご自身もかなり色白でお綺麗な肌をしてらっしゃいます。
「あとね(その時ジョンが乗っていたのも)大体こんなような(写真集にあるような)自転車だったとは思うんだけどもね、この、カゴにさ、なんか本が入ってたような気が・・・・はっきりとは覚えてないんだけど、青っぽい表紙の、こんくらいのね」そう言って石井さんが手で示したのはハードカバーサイズに見えました。
それが事実なら、一体何の本だったのか?自転車のカゴに乗せてジョンはどこかで読んだりしていたのか?とても気になる所です。
8月に入り長崎へ10日程、その後お盆明けに再び軽井沢に戻った石井さんは9月頭まで過ごします。翌1979年も7、8月はほとんど軽井沢暮しでしたが、石井さんがそれ以降ジョン・レノンを見かける事はありませんでした。
ただ、軽井沢滞在中はその後も度々ジョン・レノンの話は耳にしたそうです。
石井さんの別荘のご近所にいた同じく別荘族の男性Uさんは石井さんより10才ほど年下でビートルズも聴いていた方でしたが、ジョンを何度も見かけて、少し話した事もあるし、ジョンが何かビートルズの曲を歌いながら自転車でブラブラしているのも目撃した事があるそうです。
私はもし可能ならそのUさんにもコンタクトを取らせて頂こうかと厚かましくも考えてしまいましたが、石井さん曰く「まあ彼もね、もういないね」(2005年頃亡くなられた)との事。「(ジョン家族が)車で出かけるのも何度か見かけたらしいよ。どこに行ってたかまでは知らないけど、けっこう車も使ってたんじゃない?」(※おそらくジョンやヨーコが運転したわけではないだろうと思われます)
石井さんとは他にも実に色々な話に花を咲かせて、1時間位で失礼するつもりが気づけば3時間近く経っていました。
「あなた、本当にジョン・レノン好きなんだねー。僕が代わってあげたかったよ!」「今から代わるかい?(笑)」と車椅子の石井さんは力強く笑いました。とてもユニークで豪快な方です。
1978年の夏、ジョンの目に石井さんはどう映ったでしょう?当時の石井さんのお写真も拝見しましたが・・・・・サングラスでかなり強面でした。ジョンと遭遇した時もこんな感じだったとの事、あのヨーコが石井さんに「ごめんなさい」と言ったのはそれも理由?と少し考えてしまいました。石井さん、ごめんなさい(笑)
ジョンと軽井沢。
実は他にも貴重なエピソードを聞かせて頂いた方がいますが、それはまた次の機会に。
石井さん、貴重な貴重なジョンとの思い出話を本当にありがとうございました。
石井さんをご紹介下さったKさん、Kさんをご紹介下さったSさん、多謝です。ありがとうございます。
次回は、これも本邦初公開となるポール・マッカートニーゆかりの場所とエピソードをご紹介する予定です。
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元ビートルズのジョン・レノンとポール・マッカートニー。
二人は、ザ・ビートルズとして来日した1966年以降にも何度か日本を訪れ、あちこちに足跡を残してくれています。
ジョンといえば軽井沢、東京、箱根、京都等々…ポールなら、東京の井の頭公園、高尾山、京都の宿・吉川等々。それらゆかりの地については、色々な書物やネット上でも紹介され、ファンの間では有名となっています。ですが実は他にも、知る人ぞ知るいくつもの足跡があります。
当ブログでは、私自身が新発見したりファンの方に教えて頂いたジョンとポールゆかりの地とエピソードを、少しずつ紹介していきたいと思います。
第1回『ポール・マッカートニー京都御苑で栗おはぎをもらう』
2002年11月16日(土)
◆2002年11月、ドライヴィング・ジャパン・ツアーで来日中だったポール・マッカートニー。
11月17日(日)の大阪公演を控え、15日(金)14時頃に新幹線で東京を発ったポール御一行は京都駅で下車、金閣寺を貸切で拝観した後「料理旅館・天ぷら吉川」に泊まった事はファンの間では有名な話です。また翌16日(土)のお昼頃、宿を抜け出して、京都御苑等を自転車で散策した事もよく知られています。
ここからが「本邦初公開のエピソード」です。当時ポールの大阪公演を観るため東京から前入りし、京都のお友達Aさん宅に泊まっていたFさん(女性)の体験で、私がFさんに伺ったお話を元にFさんの許可を頂いて20年の時を経て掲載するものです。これまでFさんとごく親しいビートルズファンしか知らなかった、大変貴重なエピソードになります。
●2002年11月16日(土)午前11時過ぎ。Fさんは前日から滞在していたお友達Aさんの家を出て、二人で京都御苑近くの栗菓子屋「京都くりや」に12時前に到着。季節限定で作られている「栗おはぎ」を買うためでした。
この「栗おはぎ」、Fさんが8年位前に来た時には、年にわずか数日間しか販売されておらず食べる事ができませんでしたが、その後お客さんからの要望に応え9月から12月まで並ぶようになっていました。それでも期間限定でかなりの人気なので、昼前には売切れる日もあるとかで焦りましたが、無事に4個購入。
ちょうどもうお昼でしたが、遅めの朝食をお友達の家ですませてきたばかりなので、お昼は抜いて午後3時くらいに軽くお茶をする事にしました。すぐ近くにある京都御苑まで歩いて、どこかベンチにでも座って栗おはぎを食べようかという話になったのです。この日は天気もまずまずで京都御苑も土曜日ともあってか観光客も多く、ベンチはあったのですが既に座ってる人がいたので、二人は色々と話しながらブラブラと歩いていました。
しばらく歩き回っていると、「出水の小川」近くのベンチが空いていたのでそこに座り、更に話し込んで、そろそろ栗おはぎを食べようかと思ったその時、背後で英語の話し声が。お友達Aさんは「ポールじゃないの?」と笑ってFさんに言いました。
Aさんは冗談でFさんをからかったつもりだったようです。Fさんも笑いながら後ろを振り向いて思わず「アッ!」と声を出しました。
ポール・マッカートニーでした!
サングラスもかけずマスクも帽子もない素顔丸出しのポールが、自転車にまたがったまま停めて話していたのです。話している相手は当時の奥さんのヘザーだったようですが、舞い上がったFさんにヘザーの記憶はほとんどありません。ポールの格好は「記憶が曖昧だけれど多分上は黒っぽい長袖。下は全然覚えていないが同じく黒っぽく見えた」そうです。
ポールはFさんの「アッ!」を物真似するように小さな声で「アッ」と発して、その大きな目をさらに大きく見開きました。
そのやり取りを見ていたお友達のAさん、実はポールのファンではありませんでした。Fさんを自宅に泊めてくれたものの、大阪でのライブにも一緒に行く予定は無し。ビートルズの頃とは違う今のポールの顔もよく知らなかったので、初めは何が起きているのか、わけがわからなかった様子。でもFさんの反応と、やはり目立つポールの顔を見て、ようやく事態を吞み込めたようです。
そして、頭が真っ白状態のFさんは、栗おはぎの入った紙袋をポールに差し出すという、自分でも理解に苦しむ行動に出てしまいます。
ポールはポカンという顔をしていました。おそらくポールは、このたまたま居合わせただけの日本人女性が自分のファンだとは思いもせず、それどころか自分をポール・マッカートニーだと知っているのかさえ確信がなかったのでは?と思われます。にも関わらずいきなり紙袋を差し出されて、ポールは戸惑ったに違いありません。
それでもFさんが「ポールに押しつけるように(Aさん談)」紙袋を渡したので、ポールはそれを手にして、中を覗き込みました。その瞬間に食べ物だと分かったでしょうか?ポールはヘザーと目を合わせましたが、ヘザーも(あなたにあげるって事なんでしょうけど、もらってもいいものかしら?)というような表情を見せたそうです。
しかしFさんは舞い上がったまま続けました。「Eat OK!」「OHAGI」「RICE BALL AND MARON CREAM」そんな言葉を続けざまに発しましたが、ポールはポカンとした表情のまま。
どうやらポールはそれらの言葉をほとんど理解してなかった可能性が高いとの事。なぜなら舞い上がっていたため、どれも英語には聞こえない発音だったかも知れず、更に後でAさんに「MARONて英語じゃないと思うよ」と言われて赤面したFさん。少なくとも「MARON」はポールには通じなかったのではないでしょうか。
ただAさんの記憶ではポールは何か「OHAGI」に近い言葉を小さく呟いていたそうです。
ポールは人差し指で「これを僕にくれるのかい?」というようなジェスチャーを見せたので、Fさんは「YES YES」と無我夢中で返しました。ポールは「オーッケイ、サンキュー」と言って、自転車を漕いで行ってしまいました。
Aさんは「追っかける?」と訊きましたがFさんは「いい!いい!」と答えて、ベンチに腰が抜けたように座り込み、しばらく放心状態で呆然としていました。
去って行くポールを一応は目で追いましたが、少し進んだ所でもう一人別の自転車の男性と合流した様子。おそらく関係者だったと思われますが、でもそれが日本人か外国人かは判別不明。ただ「ポールよりは小さい人でした」とFさん。
ポールは方向的には京都御所(京都御苑内にある御所)の方に向かって行ったようですが定かではなく、FさんはAさんに「もう行こう!」と伝えて京都御苑を出て歩いて鴨川に向かったそうです。Fさんは「今となっては、なんでもう少し京都御苑に残らなかったのかとも思うけど、あの時は恐かったんです」と言います。本当にもったいない事をしたかも知れませんが、お気持ちは分かります。
お昼前に栗おはぎを買って、10分ちょっと歩いて京都御苑。そこで少し歩いてベンチに座って・・・
「ではポールと遭った時刻は12時半位ですか?」との私の問いに、Fさんは「それがその前後に京都御苑で撮った写真の時刻を見ると、13時半少し前なんです」「どうやら私とAさんは京都御苑を歩いてベンチに座って、栗おはぎを食べないまま1時間近く話し込んでたんですね」とのお返事。
「でもそのおかげかは分からないけど、ポールに栗おはぎをプレゼントできました(笑)」。
「本当は写真撮ったりしたんじゃないですか?」との質問には「ないです!ないです!そんな恐い事、頭にも浮かばなかった!あったらお見せしますけど。ポールが行った後に遠目からでも撮っとけば良かったかな、と今になるとちょっと後悔です」。
Fさんは後日、ポールに遭った直後のその付近の写真数枚を見せてくれましたが、その最初の写真はたしかに「13:28」という時刻に写された物でした。Fさんによるとポールが去って姿が見えなくなったのは、その写真を撮った5、6分前。Fさんがポールに気づいて栗おはぎを渡したのは「13:20〜13:22」の間だろうとの事です。
その後ポールがその栗おはぎを食べてくれたかは不明なままで、もしかすると恐くて口には入れてないかも知れません。
でも「2002年11月16日(土)の13時20分から22分にかけて、ポール・マッカートニーが京都御苑で日本人女性から栗おはぎをもらった」事実を聞いて私は何とも微笑ましいエピソードだなと思いました。
この京都くりやの「栗おはぎ」。今も季節限定で作られているようです。私はまだ食した事がありませんが、この出来事から10年以上経ってようやく食べる事ができたFさんによると、なかなか美味だとかで、いつかの日か必ず買って京都御所で、と思っています。
ところで、あらためてFさんがポールに遭った日時を見ると、少し気になる事があります。
京都御所から車でほんの数分の「料理旅館・天ぷら吉川」に宿泊していたポールは、この日の夕方に大阪に向けて京都を発った事が確認されています。通常チェックアウトといえば午前10時かせいぜい12時ですが、特別なVIP待遇だったようです。ではこの日、ポールは昼食はどうしたのか?という疑問です。
ポールはお昼頃に車で宿を出た後、代わりに自転車に乗って出ていたスタッフと路地で合流。その後夕方近くまで、京都御苑や京都の街のサイクリングを楽しんだとされています。
Fさんがポールと京都御苑で遭遇したのが13時20分だとすると、昼食はその直前にすませた可能性もあればその後の可能性もあります。
一説によれば、ポールは京都御苑や京都の街をサイクリングする途中にお蕎麦を食べたようなので、私なりに色々と調べてはみたのですが、京都御苑近辺でそれらしい蕎麦屋の確証を得る事は出来ませんでした。
ちなみにこの時ポールは、京都御苑で京都御所の塀にもたれて休憩しようとして警報音が鳴り、警備員が来たというエピソードも残しています。
この出来事が果たしてFさんの栗おはぎを受け取る前だったか後だったか。断言は出来ませんが、Fさんによると受け取った後ポールは方向的には京都御所の方に進んだようなので、その後の可能性が高いように思えます。もしそうだとすれば、Fさんにもらった栗おはぎを取り出して食べようとしていたのかも知れません。
この貴重なエピソードを教えて頂いたFさんとお友達のAさん、お二人とのご縁を繋いでくれたSさん、感謝に絶えません。
本当にありがとうございました!
さて次回は、これも本邦初公開となる、ジョン・レノンゆかりの場所とエピソードをご紹介したいと思います。
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1969年11月号のライフマガジン表紙にポールマッカートニーと家族を掲載した全110ページのアメリカン雑誌です。中面の4ページが特集マジカル・マッカートニー・ミステリーになっています。ビートルズ時代後期のアルバム『アビイ・ロード』発売後になります。当時の広告なども楽しめる1冊です。そして27歳のポール・マッカートニーですよ!
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最近の弊社のブログの更新があまりない。
毎回順番で受け持つ様にしているんだが、この時期は忙しいので、仕方ないと言えば、仕方ないんだが…
久しぶりの更新と言う事で、まずは私が最近の事を…
最近はキングダムの争いの中で戦い続け…
イカゲームをし続けて絶望か希望を感じ…
The Legendary 1979 No Nukes Concerts / Bruce Springsteen & The E Street Band の最高のロックのライブの世界にタイムスリップし…
ディズニーからの贈り物からGet Backし続けていた。
その中で、ディズニープラスのビートルズのGet Backの配信のドキュメンタリーはハマってしまった。
今年の11月の25日から3日間ディズニープラスのネット配信サービスであり、総時間7時間近くだが、観続けていた。
これは何度でも観れるからいい。
私が中学生から聴き続けたビートルズの解散前のドキュメンタリーである。
10代のその頃、もうビートルズは解散していたんだが、第2次ビートルズブームがあり、ラジオでは毎日の様に楽曲が掛かっていて、それを聴き、カセットテープにダビングして聴いたりして、それがきっかけで好きになり、親父からもらったお小遣いは全てビートルズのレコードに費やし、聴き続けていたが、映像は殆ど観た事もなく、ある時、私が中学か高校生の頃、ビートルズの映画の3本立てで、この地元の大分市で上映されるとの事で、かなり興奮して観に行った記憶がある。
A Hard Day's NightとHelp!とLet It Beの3本立てである。
その頃、映画館は入れ替えが無かったので、1日に2回も連続で観た記憶があり、他の日にも映画館に足を運んで、同じ様に朝から夜まで2回と続けで観た記憶が蘇る。
その映画を観て更にビートルズが好きなり、それから全てのレコード、CD、DVDなどを集め、もちろんバンド解散後のそれぞれのメンバーのソロでも聴き続け、そんなビートルズがきっかけとなり、いろんな音楽を聴き初め、聴き続けて何十年と経ってしまった。
今回のGet BackはLet It Beの映画を長編版的にしたドキュメンタリーなんだが、このドキュメンタリーを観ると初めて知る事が多い。
1969年の1月の始めから1ヶ月間の出来事なんだと初めて知った。
初めはTVの特番の映像を撮る為にフィルムも回し続け、まずは、スタジオに入って14曲ぐらい新しい曲を作ってリハーサルをしてライブショーをやる方向だったが、ジョージが途中バンドを辞めるとかになり、その後、話し合いで戻って来るんだが、そのTVのライブショーの特番は無しとなり、新しいアルバムを作る方向となり、スタジオで曲をリハーサルやレコーディングしながら作り続けて行き、3年ぶりにライブをするのか?しないのか?その結果、最後はビートルズが屋上でノーカット完全版のルーフトップ・コンサートで終わると言う内容のドキュメントとなっていて、それが3部作の役7時間近い内容が今回のGet Backである。
回し続けたフィルムは映画にする方針に修正され、編集されたのがLet It Beの映画となるんだが…映画の暗いイメージと違い、このGet Backはいろんな意味で驚かさればなっしで、この当時のビートルズのメンバーの関係性がいろんな意味で理解出来るし、ビートルズとしての曲が出来上がる制作過程や、メンバーどうしの会話など、ビートルズ好きなら観たい場面ばかり満載で、何度も繰り返し観てしまう。
まるで、そのスタジオに一緒に居るような感覚で観てる感じになってしまう。
いろいろと言いたい事はあるが、また長々となりそうなので、詳しく知りたいなら、ググってみたらいいだろう。
ただ一つ、ビートルズは私にとっては永遠にエバーヤングな存在であり、私の14歳からの人生にずっと住み続け、死ぬまで生き続けて行くんだろう。
この様な配信をしてくれたディズニープラスは私にとっては最高の贈り物である。
そして、私もあの頃の様にGet Back出来たらいいんだが…
By Beat
【写真−1 現在のバタン島バスコ港 この海岸側から日本海軍陸戦隊は上陸】
また同日午前7時50分、台湾とフィリピンの間にあるバタネス諸島の中心バタン島バスコに、海軍陸戦隊490人が上陸し同島をほとんど無抵抗で占領。真珠湾攻撃の最初の爆弾投下は午前7時55分となっていて真珠湾攻撃より5分早い。
バタン島攻略部隊は台湾から出撃していて、宣戦布告時間よりはるか以前にバスコの沖合で上陸準備をしていたから、真珠湾攻撃より早かったのは明らかで、この他、同日には同海域ルソン島寄りにあるカラヤン島を陸戦隊1個小隊が占領し、この島の草原を切り開いて、長さ300メートル、幅200メートルの飛行機の不時着場を整備した。
また、10日には同海域ルソン島寄りにあるカミギン島を陸戦隊2個小隊が上陸、占領し水上機基地を設営するが、このように海軍は計画的に拠点を造っていたのがこの作戦で分かる。
なお、開戦劈頭の12月8日、フィリピンでも真珠湾攻撃同様の海軍機による攻撃が行われ、台湾の海軍第一航空隊から九六式陸上攻撃機27機、高雄航空隊から一式陸上攻撃機27機、台南航空隊からゼロ戦36機がルソン島クラーク基地を空爆している。
こういった史実が真珠湾攻撃に隠れているのは、真珠湾攻撃を華々しくするための軍部の宣伝『やらせ』であり、それ以降大本営の嘘で塗り固めた発表に迎合したマスコミによって敗戦まで続き、その後も払拭されていない。
このように緒戦は日本軍も破竹の勢いであったが、軍の運用で最重要であった『兵站部門』が精神論で進められ、最後は戦闘で戦死したのではなく飢餓と病気で大量の死者を出す悲惨な結果を生じた。
太平洋戦争が始まった1941(昭和11)年12月8日から今年は79年目になるが、年々日本のマス・メディアでこのニュースの扱いが小さくなり、今年も日本の大手新聞社の電子版を見てもお付き合い程度の記事しか目にしなかった。
これはこれら報道に携わる世代が既に戦争体験者ではなく、戦争のイメージが希薄になって太平洋戦争も単なる歴史の一コマと認識していることから来ていると思えるが、従軍した者も多くは90歳半ば過ぎとあっては存命者は少なくなる一方。
その昔、日本とアメリカが戦火を交え死闘を繰り広げたことを知らない世代も現れていて、インターネット時代で情報量は格段に得ているはずなのに情報が偏り、逆に無知のままになっていることは否めない。
【写真−2 殺害された1980年に撮ったレノンとヨーコ】
その12月8日に目立ったニュースは『ジョン・レノン』が殺害されてから40年経った記事で、同じ月日でも時代が変わると話題も変わることを如実に表したが、余談ながら当日のフィリピンは『聖母マリア祭(聖母受胎祭 / Feast of the Immaculate Conception of Mary)』で休日であった。
あまり聞いたことのない休日と思ったら、フィリピンは都合で休日にすること多く、マリアが受胎した日とのことだが、こちらはカトリック側にいい顔を見せようとしたためで、同じくイスラム側にはラマダンの前後に臨時休日を定めているが、以前からあった休日ではない。
さて、ジョン・レノンはビートルズのメンバーとして一世を風靡するが、ビートルズ解散後も曲を発表し、中でも1971年の『イマジン』はその代表的な曲で、紛争と我欲で混沌とする世界に対して発した内容は歌い継がれ、現今のコロナ禍でも通じている。
ジョン・レノンは1940年生まれで今生きていたら80歳だから、まだ曲を作っていたかも知れないが、1980年12月8日、自宅前で当時25歳の男に至近距離から拳銃で5発撃たれ、内4発が背中を中心に当たり病院に運ばれるが出血多量で死亡。
犯人はその場で捕らえられたが動機ははっきりせず、精神異常の疑いもかかったが、裁判では『禁錮20年ないし終身の無期刑』が宣告され、20年経つと仮釈放されるが2年ごとの仮釈放申請は却下され続け、恐らく死ぬまで刑務所から出ることはないだろうといわれている。
2番目の妻のオノ・ヨーコ(もう亡くなったと思っていたら現在87歳で健在)など被害者側の感情、或いは出所してもジョン・レノンのファンに報復殺害がされる、本人に反省がないなどが理由となっている。
この犯人の妻はハワイの日系人であり、裁判確定後にも離婚することはなく出所を待っているというから、これはまた別の物語になり、有名人を殺害したにしろ罰としては過酷な気がする。
【写真−3 縁のイギリス・リバプールに建つビートルズの銅像】
ビートルズは書くまでもなく二十世紀最高の音楽バンドといって良く、高校生の時に修学旅行でバスの中で合唱した曲の記憶を持つが、高校生にも分かり易い英語の歌詞とメロディーであり、その単純明快さが国を超えて受けたのではと思う。
当時、同級生間ではビートルズに影響を与えた『プレスリー』が全盛で、チョッと新し物好きがビートルズ、もっと進んでいるのが『ローリング・スト―ン』、気取った連中は『ブラザース・フォア』などのフォーク・ソングであった。
しかもエレキ・ギターも大流行りで、『ヴェンチャーズ』を神様の様に見る連中も多く、日本的な『グループ・サウンズ』グループも跋扈し、その中で加山雄三の歌も大流行りで百花繚乱の良い時代といえば良い時代であった。
ジョン・レノンの代表曲といえる『イマジン』の背景はアメリカが介入したヴェトナム戦争が大きく影響しているが、この曲は後の湾岸戦争や2001年の9・11事件では禁止歌とされ放送を妨げられたが、それだけ反戦歌として強いということになる。
そういう意味では真珠湾攻撃とジョン・レノンの死亡日が重なることに妙に因縁を感じさせ、生年が1940年、殺害された時の年齢が40歳、そして今年は没後40年と『40』の数字が不思議なくらい重なる2020年である。
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続いては、本日の 【YAHOO!ニュース】 から
以下の記事を。
“ ジョン・レノンさん没後40年、
ファンの歌声で追悼 米NY ”
◇◇ 以下引用 ◇◇ ↓
英ロックバンド・ビートルズの
元メンバー、ジョン・レノンさんが
銃弾に倒れてから40年となった8日、
米ニューヨークの事件現場近くにある
公園には大勢のファンが集まった。
セントラルパークの記念広場
『ストロベリー・フィールズ』 では、
集まった大勢のファンがレノンさんの楽曲
をギターで演奏したり、歌ったりして追悼
した。 【AFP = 時事】
◇◇ 引用ここまで ◇◇ ↑
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
昨日、没後40年を迎えたビートルズ
元メンバーのジョン・レノン。
事件当日にニュース速報が流れ、当時
中学1年生の私自身、壮絶なショックを
受けた事はいうまでもなく・・・・。
確か、ファンがサインを求めている
のを断られ、それを逆恨みしての犯行
とか・・・・。
『Yesterday』
『Let it Be』
『Please Please Me』
など、今なお歌い継がれる往年の名曲。
数多くのヒットナンバーの中でも、やはり
この時期に最も相応しい不朽の作品は
『Happy Xmas』 ・・・・。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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本日も最後までご覧頂き、誠にありがとう
ございます。
そして、今日も一日お疲れ様です。
どうか、明日もあなたにとって素晴らしき
時間でありますよう。 (祈)
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今年も早くも10月になり、冬、春、夏、秋、とあっという間に過ぎさる日々の不自然が、いつの間にか自然になっている。歳を重ねるとはいつも思うんだが、そう言う事なのかもしれない。
そんな9月の終わりにビートルズのアルバム「アビイー・ロード」の50周年記念リミックス盤が発売された。
何せ、発売から50年も経ったアルバムである。私も中学生の頃に親父に買ってもらい、私にとっては45周年ぐらいだが、ビートルズのアルバムの中でもベスト3に入るアルバムで、今までどのくらいターンテーブルの載せ、どのくらい聴いて来たことか??それだけこのアルバムにはオーガニックなビートルズのアンサンブルの美しさが反映されて、今回のリミックス盤は今まで聴いて来た盤以上に、サウンドが50年前のアルバムとは思えない程、現代的に仕上がっていて、良い音で気持ちよく聴け、もちろんCDもレコードでも購入したが、やっぱりレコードで聴くのが一番で、最近では何度もターンテーブルに置き、あの頃の10代の時の様にヘビーローテーションになっているアルバムである。
そんな私の久しぶりにビートルズ、ビートルズした日々に、今度はビートルズを題材にした映画「イエスタデイ」である。
楽しみにしてた映画で、10月11日から上映されると思って、スマホでチケットを購入しようとアプリで探すとない、ない?何かの間違いと?、、映画館に問い合わせすると、上映されてないと言う事で、上映の予定を聞くと?ここ大分県では上映されないと言う、嘘だろ〜と??本当にガッカリで、それでよく調べると、九州では大分県だけ上映されない事を知り、さらにガッカリしてしまった。何故に?大分県で上映ないのか不思議だが?宮崎、佐賀でも上映されているのに、まあ〜大分県では集客が見込めないと本社が判断したのか?これは判断ミスとしか言いようがない。
これまでも、こんな音楽系映画は大分県では上映される事が少ない。
「ロケット・マン」は上映されて良かったが、最近では「ハーツ・ビーツ・ラウド」も上映されなかったし「ジャージー・ボーイズ」も「ラブ&マーシー」なかった。全て後でレンタルか、DVDを買って観るしかないと言う、寂しい街だが、そこで生活している以上、文句を言えないが、こんな田舎だからこそ娯楽としての映画は充実してもらいたいと願うばかりだ。
仕方ない事は受け入れるしかなく、そんな事でも、どうしても観たい映画だったので、連休の休日に、大分市から一番近くで上映されている映画館が福岡県の小倉の映画館だったので、小倉まで行き観る事にした。行って帰るまでが大変だが、まあ〜秋のドライブと思い、思い切って行くことにした。
映画のストーリーは、ちょっとネタバレになるが、、ある売れないシンガーソングライターのミュージシャンが、ミュージシャンとしての夢を諦めた夜に、世界的に大停電があり、その時に事故に遭い、目を覚ますと、ビートルズ が世の中に存在していなく、世界中で彼だけがビートルズ を知っていると言う、そんなパラレルワールドになってしまう。
その世界でビートルズの曲を歌い、曲を披露して行くと、その曲に魅了された本物のエド・シーランからツアーのオープニングアクトを任されて、ライブをすれば大盛況、マスコミでも注目されて、メジャーになり、お金も名誉も手に入れ有名になって行くんだが、そんな彼は自分の曲でないビートルズの曲で売れる事にやがて悩み苦しみ、そんな時に、何故か自分意外にビートルズを知っていると言う普通の人の2人が逢いに来て、事実をバラすのではなく、ビートルズの曲を良いように世界中に広めてくれと言われ、その2人からミュージシャンでなく、漁師になっている78歳のジョン・レノンが生きている事を知る。この展開にはビックリしたが、彼は直ぐに逢いに行き、漁師として正直に生きて来たジョン・レノンの人生に考えさせられ、ビートルズの曲で売れても意味がないと悟り・・・
最後はお金や名誉より、正直に生きる事の大切さを選び、客が数万人のいるエド・シーランのライブに出て、彼は今までの発売された曲は自分の曲ではなく、ビートルズの曲なんだと告白をするが、会場の客は誰もビートルズを知らないんだが、それでも彼は自分はもう売れなくていいと、今まで発売して来た彼のビートルズ の曲を無料ダウンロードで聴けるようにして、正直に生きて本当の幸せを手に入れるって言う・・・そんなストーリーで、ファンタジックでラブコメディもあり、音楽愛、ビートルズ愛に溢れたストーリー展開は、長年のビートルズファンとしては、小倉まで行って観た甲斐があった本当に楽しく心暖まるとてもいい映画だった。
そんな「アビイー・ロード」に「イエスタデイ」。解散から約50年経った今でも、こんな作品が世に出て支持され愛され続けるビートルズ は、これからもエバーヤングな輝きを放って行くことだろう。
そして、何よりも歳を重ねないと解らないビートルズの味わい深さにどっぷり浸かった私の秋の日々も、またまた通り過ぎて行く…
By Beat
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