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9.チベットへの共感
これを書いている現在は2014年である。1987年(27年前)のようなチベット・ネパール国境を越える自由旅行は現在不可能な状況にある。
チベットの状況について少し触れておきたい。
1950年中華人民共和国はチベットを自国領と主張し、人民解放軍はチベットに侵攻し、翌年チベット全土を制圧併合する。それ以来現在に至るまで、チベット人の抵抗運動と中国政府の弾圧が続く。中国政府はチベット独立を分離主義と非難し、中国への併合および抵抗運動への弾圧を正当化している。チベット人の仏教信仰と生き仏ダライラマを排撃し、チベット人の遊牧地を取り上げ、漢人の大量入植を進めていることは現在も変わらない。
1956年チベット動乱が起きる。1959年ダライラマ14世はインドへ亡命した。
1966年中国に文化大革命が起きる。1976年毛沢東が死去する。
1980年代に入り、チベットの自治が強化されるように変化が見られた。信教の自由や僧院の再建が始まる。中国政府は弾圧政策を続けたものの、観光政策としてチベット開放路線を取り、1982年には外国人旅行者にチベットが開放された。さらに1985年は個人旅行も可能となる。
従ってこの記録に書かれた1987年という年は、チベット旅行開放の只中にあった年である。記録によれば4,7000人の外国人がこの年チベットを訪れたという。憧れの土地チベットの地を踏み、さらにチベット各地が外国人に開放されることを、地平線をめざす世界中の旅人が夢見た年であった。又これまで世界から隔離されてきたチベット人にも、中国政府や漢人と異なる外部世界の様々な情報や人間に触れ、不当な支配を外部に訴え、旅行者を「熱烈歓迎」し「Chinese no good !」と叫んだ年でもあった。
しかし、私がチベット旅行を終え、帰国した翌月の9月27日、ラサ市内を数十人の僧侶がチベットの旗を掲げて行進し、これをきっかけとした市民デモは武装警官との衝突に発展し死傷者が出る。
その一週間前の9月21日、ダライラマ14世はアメリカ議会で演説し、中国政府に対し次の「五項目和平プラン」を提示している。
デモは繰り返され1988年はラサを中心として広範囲に暴動が始まった。チベット自治区党書記となったのは、後の国家主席となる故錦濤である。彼は1989年ラサに戒厳令を布告し、会合・行進・陳情・請願・集会を禁止した。中華人民共和国成立後、初めての戒厳令であった。(二度目は1989年 天安門事件)
最近のチベット旅行事情を知るため、日本で出版された旅行ガイドを読んでみた。事情は1987年と大きく変わっている。現在個人のチベット入境は認められない。旅行はツァーを組みガイドをつけることが条件である。西寧からゴルムド・ラサへのあの長いバス移動は、新設の青蔵鉄道に替わった。この料金は高額で乗車券は簡単に入手できないという。中国政府のチベット観光政策に基づくお墨付きの旅行が、一部の中国富裕層と外国人観光客に提供されている現状である。
安宿と人との出会いを楽しんだ気ままなバックパッカ―の旅は排除されてしまった。観光業もラサに進出した漢人の手に押さえられているという。ラサの人口は今やチベット人よりも漢人の方が多いらしい。ラサ市街の土地計画ではチベット人は彼らの居住地を追われているという情報に憤りを感じる。
このままでは、チベットはますます衰退するのではないか。
私達は、先住民族の生活と文化が、より強い民族に滅ぼされていった世界の歴史を知っている。中南米の先住民がスペイン人やポルトガル人の手で。北米やオーストラリア・ニュージーランドではアングロサクソン人の手で。アイヌも倭人の手によってまたしかり。
チベットで同じ歴史が繰り返されている。
チベットの大地、チベット人の生活、チベットの文化をチベット人の手に。
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1.神戸発「鑑真号」
2.上海
3.長距離列車の旅
4.西寧からゴルムドへ
5.ラサ
6.チベット高原を行く
7.ネパール国境越え
8.9年ぶりのカトマンズ
9.チベットへの共感
1.神戸発「鑑真号」
7月21日午後1時。神戸港を出た日中国際フェリー「鑑真Jian Zhen号」の二等船室は夏休みに入った学生達で溢れていた。
隣の若者は気功の勉強に二度目の上海だという。ご飯と梅干で倹約して26万円をためて来た東京の学生は2か月の旅行である。中国では安くて腹いっぱいの食事ができると信じているが、船の食堂は安くないし、少し心配になってきている。オーストラリア人と結婚した女性は故郷の内モンゴルへ初めての帰省だ。私は1カ月の予定でチベットをめざし、出来れば国境をネパールへ越えたいと思っている。チベット・ネパールの国境が個人旅行者に開放されたというのだ。計画では、上海から青海省へ列車で行き、バスでゴルムドを経由しラサへ。ラサからバスで国境をめざし、歩いてネパールへ入国するつもりである。ネパール国内は何とかなるだろう。
乗客の色々な期待を乗せて、船は一路上海へと向かっている。
翌日は一日海上であった。台湾付近にある台風の影響で船は揺れ、大浴場の湯舟から景気よく湯が溢れている。
三日目の朝。陸地はまだ見えないが、船は一面の泥海の中を進んでいる。揚子江が運んできた泥砂だという。何と巨大な河なのだろう。
遠くの上海の街がゆっくりと近づいてくるとやがて船は黄浦江を遡行し始めた。両岸に並ぶ建物、すれ違う様々な型の船、通りを往来する人々、すべてが写真で見た戦前の日本を思わせるセピア色の世界である。午前10時半、船は動きを止める。下船する乗客の列の先頭に立ちステップを飛び降りた。
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2012.2.10 14:32
米政府系放送局のラジオ自由アジアは10日までに、四川省カンゼ・チベット族自治州炉霍県でデモに参加した後、中国当局に追われていたチベット族の兄弟が9日、治安当局に殺されたと伝えた。射殺されたとの情報もあるという。
同放送局によると、殺された兄弟は40歳の僧侶と、38歳の弟。2人は1月23日に同県であったデモに参加した。その際、治安当局の発砲を受けて負傷し、山中に身を隠していたところ、9日に治安当局に見つかり、その場で殺された。殺された際の詳細な状況は不明。
中国政府の統治に抗議する1月23日のデモでは、治安当局側が発砲し、少なくとも1人が死亡。同放送局は6人以上が死亡し、60人が負傷したとしている。(共同)