【写真−1 こちらの南口側が中津市の中心に】
『大分駅』から9:14に乗った各駅停車列車は10:42に写真−1の『中津駅』に到着し、到着したホームから外を見たのが写真−1で、上下線が高架になったのは1977(昭和54)年と結構古い。
見えているのは南口で、かつては大きな工場がありその跡地にスーパーや市の教育員会などが入る複合施設が造られ、そのスーパーの右端にある看板の下に大きな人物像が飾られているが、これは中津出身の『福澤諭吉』。
福澤諭吉は中津藩(10万石)下級藩士の出で、大坂で生まれた後に中津で19歳まで育ち、私立の『慶應義塾』を創設した教育者、言論人として幕末から明治期に活躍した人物で、その旧居は『中津駅』から徒歩15分ほどの場所に現存し、下世話には現在流通している最高額紙幣の1万円札の肖像で知られ、これも2024(令和6)年に新たに発行される1万円札の肖像は『渋沢栄一』に変わる。
【写真−2 1970年代の造りのため高架下の店の佇まいは古めかしい】
『中津駅』で乗り継ぐ『小倉駅』行きの各駅停車列車は11:15発なので、30分ほどの時間を生じ駅の外に出て写したのが写真−2の『中津駅』南口で、高架上に停まっているドアーの赤い車両は『大分駅』から乗って来た各駅停車列車。
中津市は県庁所在地の大分市(47万人)、別府市(11万人)に次ぐ県内3番目の8万1千人の人口を擁し、北九州市に近いために同市との経済圏を形成するが、菊池寛の小説『恩讐の彼方に』のモデルになった『青の洞門』がある。
『青の洞門』は川沿いの難所を、僧が18世紀に30年以上かけて手で掘った全長342mのトンネルで、開削当時通行料を取ったために『日本最古の有料道路』と称され、福澤諭吉が洞門のある山を買い取ったために現在まで残った話も伝わるが、明治期に陸軍が車両を通すために大規模に広げたためにオリジナルの部分はいくらも残っていない。
【写真−3 九州も福岡県に近くなると駅は近代的に見える】
写真−3は『中津駅』1番線ホームに停まる『大分駅』から乗車した各駅停車列車で、『JR九州813系電車』と呼び、JR九州の近郊型電車として1994(平成6)から2009(平成21)年にかけて85編成254両製造された同社の主力電車になる。
『中津駅』ホーム上には10m長の木製『日本一長いハモのベンチ』が設置されていることで有名で、その設置場所は写真−3の1番線と2番線のあるホーム上で、ホームの中ほどにあるので気が付かなかったし、或ること自体その時は知らず残念なことをした。
【写真−4 この車両で通勤通学していたら楽だが混んでいれば同じ】
『JR九州813系電車』は何次にも改造版が造られ、車内の転換式座席の張地も変えられていて、初期は赤と黒の豹柄模様が張られていたが、写真−4はその後の改良車両で赤と黒の市松模様になっている。
近郊型電車なので、赤く塗られたドアーに挟まれた天井にはデザイン的な円形の吊革パイプが取り付けられ、車両の連結ドアーが青いのは目に鮮やかで斬新、座席の枕に白いカバーが掛けられているのは優先席。
【写真−5 ホームの佇まいは古いが線路は複線の完全電化】
写真−5は『豊前松江駅』で、『まつえ』ではなく『しょうえ』と読むが、松江(しょうえ)という地域に1897(明治30)年に開業した当時は『松江駅』を名乗っていたが、山陰本線の『松江(まつえ)駅と駅名が紛らわしいので、1945(昭和20)年の敗戦直前に『豊前松江駅』と改称した。
同駅は既に福岡県に入っていて豊前市(人口2万3千人)にあり、この豊前と名称の付く駅を調べたら、日豊本線には3駅、平成筑豊鉄道に2駅、多いのは豊後と付く駅の方で日豊本線に1駅、豊肥本線に4駅、九大本線に5駅あり、この駅の分布を見ると旧藩時代の版図が分かる。
【写真−6 駅関連の整備事業は2002年度のグッドデザイン賞受賞】
写真−6は1999(平成11)年に高架化工事は終了た『行橋駅』で、同駅のある行橋市は北九州市と中津市までそれぞれ25キロの距離にあり、両市の経済圏に入りベッドタウンとして人口増加し、現在人口は7万人を超える。
同駅には第3セクターの『平成筑豊鉄道』が乗り入れていて、同鉄道は旧国鉄時代には田川線と呼ばれ、筑豊炭田からの石炭を行橋市にある港まで運ぶために1895(明治28)年に敷かれた古い路線である。
しかし、石炭産業の衰退と共に1987(昭和62)年の国鉄分割民営化後にJR九州が運行したものの廃線候補になり、2年後の1989(平成元)年に第3セクターとして生き残った。
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