サルトルの「嘔吐」のこの記述がいつも頭から離れない。
冬場の、太陽の光と空気の匂いに関する鋭い感性の記述。これを知っているような気がして気持ちが悪くなる。
午後三時。三時というのは、つねになにをしようと思っても遅すぎる、あるいは早すぎる時刻だ。午後の奇妙なひととき。今日は、特に堪え難い。
寒々とした太陽が、窓硝子の埃を白っぽくしている。色が褪め、白く濁った空。小川は今朝凍っていた。
・・・(中略)
工事場の上に宙に浮いている白いきたない靄を、太陽がぼんやりと金色に彩っている。それが淡い金色の光となって、私の部屋に流れこみ、机の上に、どんよりとした、はっきりしない四つの反映を並べている。
・・・(中略)
自己反省には完璧な日。人類の上に太陽が投げかける、情け容赦もない裁きに似た冷たい光ーーそれは眼から私の内部に入ってくる。私は内側から、人の気持ちを萎えさせる光によって照らされている。私は確信する。十五分もあれば、自分が最高の自己嫌悪に陥るのに十分だろう、と。たくさんだ、そんなことはごめんだ。
・・・(中略)
私は立ち上がり青い光の中を動く。その光が手や上着の袖口の上で変化するのを眺める。どんなにこの光線が私を不快にしているか、それをうまく言い表す事ができない。私はあくびをし、机の上にランプをともす。
サルトルの鋭い記述が胸に突き刺さる。特に窓ガラスが太陽に照らされて白っぽくなっているところについて、何度も何度も頭の中で映像が浮かんでしまう。
ヨーロッパの街のどこかの古い家、寒い日の午後の、窓硝子の埃、白く照らされる。
その場面を私は経験したことがないはずなのに、「思い出」として自分自身の頭の中で振り返る。どういう仕組みで頭の中がそうなっているのかよくわからないが、その情景を私は本当はどこかで経験しているのかもしれないとついに思い至るようになってしまう。
そうすると別の感情が湧いてくる。
パソコンの前にいる自分、地下鉄に乗っている自分、
会社にいる自分が場違いのような気がしてならない。
その感情を追体験したいために、手段として写真があげられる。
匂いを再現するのに、それは適しているかどうかわからないけど、これから少し試してみたいと思う。
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