先ず、料金が安いです。銭湯より安い、スーパー銭湯です。
ので、広い駐車場がほぼ満車で、争奪戦状態です。
雰囲気があり、綺麗な印象で脱衣所も広め。
内湯は、残念ながら炭酸泉はありませんが、「ぬる湯」というのが在って
のんびり浸かれます。
と思ったら、「壺湯」が炭酸泉だった様です。浸かれなくて、残念です。
露天風呂は至って普通ですが、驚いたのはサウナ。
高温、スチーム、そして塩サウナと全部揃っているのです。
勿論、食事処も、お休み処も、ボディケアも在ります。
人気があるのは、当然かと。
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今日の「がっちりマンデー!」はインド特集でした。私の家の近くにインド人が多く住んでいる街があることも取り上げられていました。中国を抜いて人口世界一になったインドはこれから世界中が注目される国になりそうです。(ぉぃ)
先週初めて江戸東京たてもの園行きました。
レトロな建物が多く楽しめました。
そんなわけで、今日は江戸東京たてもの園の人気展示である昭和レトロな銭湯「子宝湯」の写真を紹介します。
江戸東京たてもの園は東京都小金井市の小金井公園にある江戸時代から昭和時代の建築物30棟を移築・保存展示している屋外博物館で、両国(JB21・E12)にある江戸東京博物館(2025(令和7)年まで改修工事のため長期休館)の分館でもあります。
同園はJR中央線武蔵小金井駅(JC15)や西武新宿線花小金井駅(SS18)から西武バスで5分くらいで、公園は江戸東京たてもの園に限らず桜や梅の名所でもあり、SLも保存されています。
その江戸東京たてもの園の名物展示の一つが、昭和時代の東京下町の銭湯である「子宝湯」です。
同施設は1929(昭和4)年に建造され、神社風の外見や富士山の壁絵などが見どころになっています。
近年は大都市でも日帰り温泉施設が多く作られていますが、昭和レトロな銭湯文化は日本が世界に誇る文化だと思います。
宮崎駿監督の映画「千と千尋の神隠し」のモデルともいわれていて、そのことから全国さらには世界中から観光に訪れます。
同建築物が展示されている東ゾーンは昭和初期の東京下町をイメージしたエリアになっていて、ほかにも昔ながらの旅館や文具店や花屋などもあります。
皆さんも是非江戸東京たてもの園来てほしいです。
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日中、自宅に届け物が。
ネットで手配していた北海道二股ラジウム鉱石でした。
自宅にブラックシリカ鉱石、二股ラジウム鉱石があり、袋に入れて入浴時に浴槽に浸けて利用しています。
もう少し、鉱石の量を増やしてみようと、取寄せてみました。
2キロ購入で高価なので、お財布の中の諭吉が確実に1枚消失。
鉱石を浸けた、浴槽に入ると老廃物が出ていくのか、体の調子もよくなる気がしました。
このラジウム鉱石を早く浴槽に浸けて入浴してみたいです。。。
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【写真−1 風呂屋の寺社風建築は見れば見るほど不思議】
しかも営業を止めたのは2021年6月30日で、1年半も経ってからようやく知った訳で、やはり新型コロナの影響による閉鎖かと想像するが、この『大黒湯』の閉鎖によって千住の駅から西口地域には最盛期は24軒あった風呂屋が僅か3軒になったことも知るが、残った3軒はこどもの時から馴染深い風呂屋で、その頃を偲びながら綴ることにする。
写真−1は『大黒湯』を斜めから写したが、もうこの時は入口が右側に移されていて、その前は唐破風屋根の正面から入った。ちなみに今は銭湯という言葉が使われているが、昔の下町では『風呂屋』であり、明治生まれの祖母などは『おぶ』といっていた。
現在の『大黒湯』の建物は1929(昭和4)に建てられたもので、関東大震災後に造られた風呂屋は寺院と見間違う威容を誇り、この近くにある仏壇屋の息子が同級生でその家へ遊びに行く時『大黒湯』の前を通ったが、この手の建物の風呂屋は近所にいくつもあってその時は特別視しなかった。
【写真−2 経営者は1955年に前の経営者から買い取った】
『大黒湯』の脱衣場の天井は見もので、『折り上げ格天井』といって梁から曲面を持って天井まで立ち上がり、格子状になった枡目には一枚ごとに違った花鳥風月が描かれていて、詳しくは覚えていないが、こういった天井画は解体時に捨てられてしまうのか心配である。
正面にあった唐破風は近くにある寺に移築されたというニュースもあったが、廃業後は駐車場かマンションでも建てられるのだろうが、そういえば『大黒湯』の少し先はかつて都電の通っていた国道4号線に出るが、一時は寂れた沿道は交通至便な千住ということでマンションが林立し隔世の感がある。
【写真−3 中は記憶通りに復元されているのであろうか気になる】
写真−3は小金井公園内にある『江戸たてもの園』の中で、正面に見える『大黒湯』と似た建物がかつて千住元町にあった『子宝湯』を移築したもので、この風呂屋の後に経営者になる人物は小学校の同級生であったので、放課後にその2階やお湯を溜める槽の上に敷かれた分厚い板の上で遊び回った。
『子宝湯』の建物は1929(昭和4)年に造られ、年代的には『大黒湯』と同じ年になり唐破風の具合など似ていて、こういった民間の建物は誰が設計して棟梁は誰であったかという記録は分からないが職人同士の融通、あるいは競争はあったのではないか。
『子宝湯』で記憶しているのは脱衣所の外に池があって、そこに縁台があって涼むことが出来、池には鯉とおしどりが泳ぎ、浴場の壁には故事にちなんだタイルの武者絵などがあったと思うが、日本へ行った時に移築された『子宝湯』を訪ねてどうであったか記憶を探りたいと思っている。
【写真−4 レトロ趣味で持ち上げても風呂屋経営には寄与しない】
今はなくなった『子宝湯』から荒川放水路の土手方面へ行くと土手近くに写真−4の『宝湯』があり、『宝湯』の建物は1938(昭和13)年に造られ、先述した『大黒湯』と『子宝湯』とは9年ほど後になり、正面の破風は瓦葺となっているのが大きな違いである。
『宝湯』は『子宝湯』と同じ千住元町にあり、後述する『金の湯』と『ニコニコ湯』は柳町にあり、柳町にはその昔『赤線』があり、売春防止法が1958(昭和33)年に施行されるまで営業していて、荒川放水路へ行く時はその街区を突っ切って行ったが、こども心にも何となく怪しい雰囲気を感じた。
【写真−5 金の湯の女将は大黒湯と縁戚らしいとのこと】
写真−3は『金の湯』で、写真を撮った側は『ニコニコ商店会』という細い商店街があって、道はかつての都電の終点『千住4丁目』に出るのでかなり賑わった通りであるが今は寂れた通りになっていて、『金の湯』の入り口両脇は威勢の良い八百屋があったと記憶する。
『金の湯』の外観は今風だが創業は1936(昭和11)年と『宝湯』より古く、家から『宝湯』よりは近かったがあまり入ったことはなく、そういえばニコニコ商店街を大正道路まで行くと角にやはり大きな風呂屋が在ったのを思い出したが、当時記憶にある近所の風呂屋は8軒以上あって、それを気分によって入りに行ったから今思えば贅沢ともいえる時代であった。
【写真−6 右隣のビルの以前は豆腐屋が商売をしていた】
家から一番近かったのが写真−6の『ニコニコ湯』で、小学校の同級生の家で裏のおが屑を溜めた所で遊んで埋まって怒られたり、風呂屋商売というのは儲かる時代で2階に在ったテレビを見に通ったが、まだ日本テレビなどテストパターンの時間のある時代であった。
テレビといえばこどもの頃は力道山のプロレス中継が全盛で、プロレスのある日は番台の後ろに鎮座したテレビを観るために風呂屋へ行くようなもので、プロレス中継が終わって風呂など入る人など少なく、弊害があったのかテレビはやがて番台から姿を消した。
『ニコニコ湯』の創業は戦後の1952(昭和27)年でかなり新しいが、新規に風呂屋を開業しても商売になる時代で、浴場や湯舟はこどもの遊び場となり、小生など木で造ったゴム動力の潜水艦や電池で進む軍艦などを浮かべて遊んだが大人も鷹揚な時代であった。
大人といえば下町は職人が多く、そういった人が風呂に入りに来ると見事な倶利伽羅紋々、刺青を見せこども心にも凄いなと思って絵柄に見とれたが、今のように職人もヤクザも一緒くたにして刺青の人はお断りという時代ではなかった。
こうして千住には駅向こうを除いて『宝湯』、『金の湯』、『ニコニコ湯』の3軒しか残っていないが、昔と違ってアパートでも一軒家でも内湯を当たり前に備える時代だから、風呂屋経営は厳しいと思うが、風呂屋は風呂屋の良さがあるから続けて欲しいものである。
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風呂上がりの長女が阿修羅像に似てる件。
眉毛と目線が阿修羅ってる。
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