JUGEMテーマ:福島県何でも情報
明日からあさってまで千葉🥜です。
横浜市営地下鉄ブルーラインに正月🎍ヘッドマークが掲示されています。そういえば私が乗ったときには見なかったような…(ぉぃ)
東武鉄道30000系の車内表示器のキーホルダーが発売されます。現在では東上線の主力である30000系が東急田園都市線で活躍していた時代懐かしいです。(ぉぃ)
さて、さっき地震によって遅れ放送になったタモリと笑福亭鶴瓶の正月特番が放送されていて、懐かしのテレビ欄が多数出てきました。新春かくし芸とか懐かしい番組も取り上げられました。明日のこちらも遅れになった「芸能人格付けチェック(Gackt様)」も楽しみですが、「千鳥の鬼レンチャン(ほいけんた)」も見たいです。(両方ともTVerで配信されますが)
そして、昨年末には福島に行って、会津若松の鶴ヶ城や郡山のイルミネーション&ポケモン&鉄道模型ジオラマが良かったです。
その福島県には福島テレビ(フジテレビ・カンテレ系列)・福島中央テレビ(日本テレビ・よみうりテレビ系列)・KFB福島放送(テレビ朝日・ABCテレビ系列)・テレビユー福島(TBS・MBS毎日放送系列)の4つの民放テレビがあります。
しかし、福島県のテレビ事情は福テレとTUFが県庁所在都市の福島市に本社がある一方で中テレとKFBは県内最大の人口を誇り経済や交通の中心地にもなっている郡山市に本社があるというた都道府県にはない特異さがあり、その上県内第1局の福テレは他都道府県より遅れて放送を開始したテレビ局としても有名ですが、これには福島県特有の事情があります。
そこで今回は、福島特有の事情が生んだ福島のイレギュラーなテレビ事情を書きます。
そもそも福島県は山側から順に鶴ヶ城など観光名所が多い会津若松市やラーメンで有名な喜多方市を中心とした会津、県内最大の都市でありイルミネーション・プラネタリウム・桜・ポケモンラッキーの公園なども人気の郡山市や県庁所在都市であり桃の花でも有名な福島市を中心とした中通り、炭鉱が栄えたことによって県最大の人口になったこともありハワイアンセンターと水族館で有名ないわき市や野馬追が有名な相馬市を中心とした浜通りの3エリアに大きく分かれていて、夏はどのエリアも暑くなりやすい一方で冬は会津だと豪雪地になる一方で中通りは雪が多いものの会津ほど豪雪にならず浜通りに関しては雪が少ないという気候の違いはもちろん文化面でも3エリアで大きく違います。
そもそも福島県はもともと会津と中通りと浜通りで別の県であり、それを統合して現在の福島県が誕生しましたが、県の中央とは言えどもやや北寄りの福島が県名と県庁所在地として採用されたのには異議も多く、幕末では現在の県内最大の都市だった一方で明治政府の原点となった倒幕(薩長)から恨みを買ってイメージが悪くなっていた会津若松や県のほぼ中心であり明治政府が開拓に力を入れていてそのことから企業が多く立地するようになった郡山は福島市が県庁所在地であることへの反発が強いといわれていて、郡山への県庁移転論も根強く続いています。
このように福島市と郡山市で対立構図ができていることに加え(近年は郡山一人勝ちになっている意見も出ていますが)、新聞に関しても毎日新聞と提携している福島民報と読売新聞と提携している福島民友新聞の間で対立関係であり、この2つの対立関係が民放テレビの開局を遅らせる原因になりました。
その福島県で一番最初に民放テレビを申請したのは、福島市に本社を持つ福島民報系のrfcラジオ福島で、1957(昭和32)年に新製を行い全国での民放テレビ開局ブームが起こった1959(昭和34)年にテレビ開局を予定していましたが、郡山系企業や福島民友の反発によって資本が集まらずrfcのテレビ開局は断念しました。
次に1960(昭和35)年には「株式会社福島テレビ(現在の福テレは「福島テレビ株式会社」なので無関係)」がテレビ免許を申請しましたが、開局できず免許失効になりました。
その民放VS民友さらには福島市VS郡山市といった対立構図が県内悲願の民放テレビ開局を妨げていたことには県や県内市町村も黙っておらず、とうとう県が動き出し、県が主体となる形で福テレが設立され、1963(昭和38)年にようやく開局し、事実上47都道府県最後の民放テレビ1局目開局になりました。
そのようないきさつから福テレはフジテレビの持ち株会社フジ・メディア・ホールディングスや福島民報なども出資しているものの開局当初から株の半分を福島県が保有する事実上県営のテレビ局になっています。開局当初は地方の民放テレビは1県1局原則だった上に前述のいきさつから県が株の半分を所有している経営形態だったため当時の在京キー局だった日テレ・TBS・フジ・NETテレビ(現テレ朝)からニュース含めて好きな番組を選択できるオープンネット形式になり、番組編成比率も当時の地方局でありながら4系列をほぼバランスよく編成していたそうです。1966(昭和41)年からはニュースのみ日テレ系になりましたが、ニュース以外は各局の番組を織り交ぜての放送形態を継続しました。
しかし福島県が主体になって福島市に福テレを開局したことには郡山経済界からの反発が強く、郡山経済界や福島民友や朝日新聞が福テレや同局の後ろ盾になっていた福島民報・rfcに対抗する形式で県民テレビ開局運動を始め、1968(昭和43)年のUHF電波解禁を機に複数社の免許の申請が行われ、その中の郡山商工会議所出身者が出願した局に郡山経済界と福島民友と朝日新聞が乗り入れる形式で中テレが1970(昭和45)年に開局しました。そのことから中テレは発起人の出身が郡山経済界であることに加え県民テレビ運動の中心地が郡山だったことから福島市拠点の福テレ・TUF・rfc・NHKに比べると放送内容など様々な面で郡山至上主義になっていることでも有名です。その県民テレビ運動に朝日新聞が関わっていたことはのちに開局するKFBの本社も郡山に設置される原因にもなっています。
2局になった当時は福テレが日テレとTBS・中テレがフジとNETでしたが、1971(昭和46)年には早くも福テレがTBSとフジ・中テレが日テレとNETにネットチェンジしています。
しかし福テレは開局のいきさつ上県が株の半分を持っている上にフジテレビの資本関係が強かったことからTBSとの関係が疎遠化しかけていて、中テレも福島民友との関係強化の結果日テレ中心にせざるを得なくなり全国テレビネットワーク完成を推進していた朝日新聞との関係は決して良いものといえなくなりました。その朝日新聞系テレビネットワーク整備の一環として1975(昭和50)年には関西のMBS(NET→TBS)とABC(TBS→テレ朝)の腸ねん転解消ネットチェンジが行われ(その準備として福岡のKBC九州朝日放送のNET(テレ朝)フルネット化や名古屋のメ〜テレ(日テレ・NETクロスからテレ朝フルネットへ)・中京テレビ(メ〜テレの編成から外れた番組ネットから日テレ中心へ)の変則クロスネット解消も行われました)、これによってABC制作の番組の一部が中テレに移行されず福テレに残ることになり、これによって朝日新聞とテレ朝が福島県に独自新局を開局させるようになりました。
そして福島県での第3・第4民放電波の割り当てのめどがたったので、1981(昭和56)年にKFBが郡山市に開局し、1983(昭和58)年にTUFが福島市に開局し、これによって福島県は民放4局になりました。
福島のテレビ事情には県内や在京マスコミをめぐる激しい争いがあったことを知ってほしいです。
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私は今日で仕事納めでした。明日はスパイファミリーの映画🥜見に行きます。新年は1月4日から仕事ですが7日から8日まで早くも千葉です。
京都駅(JR-A31・JR-B31・JR-D01・JR-E01)に新改札と通路ができます。京都は混んでいるというイメージが強いですが駅改良によって快適になることに期待できます。(ぉぃ)
今年は戦争や政治や(旧)ジャニーズなど大変なニュースが多かった一方で野球⚾(WBC・慶応高校・阪神タイガース)にラグビー🏉にバスケ🏀にバレーボール🏐にとスポーツの明るいニュースが多かった年(実は私も特別全国障碍者スポーツ大会鹿児島大会出ていました)でもありました。
そして、4年ぶりに制限なしの年末年始が来て楽しみな人も多いはずです。
そこで今日は1年間お疲れ様として、福島県郡山駅前のイルミネーションを贈ります。
そもそも福島県郡山のイルミネーションは2006(平成18)年にスタートし今年2023(令和5)年で18回目となるイベント「ビッグツリーページェント」で、郡山駅前西口広場を中心に東口や駅前大通にも及ぶ大規模なものになっています。
同イベントはカラフルな多数のLEDを使用して郡山市のキャラクター「がくとくん」や郡山のイメージである音楽や郡山ゆかりのアーティストGReeeeNなどをイメージしたイルミネーション装飾をしていて、見た人に癒しと感動を与えてくれます。
開催は毎年11月終わり〜12月初めから翌年2月14日までと長期間になっていて、郡山の冬の風物詩にもなっています。
郡山駅前の高層ビル「ビッグアイ」にある博物館・展望施設「スペースパーク」でも連動イベントを行います。
通路やトンネルのイルミネーション装飾は実際に通り抜けできます。
去年2022(令和4)年にはイルミネーションアワードも受賞していて、レベルの高いイルミネーションといえます。
イベントにはインスタ映えスポットが多数あり、お写真に収める価値があります。
皆さんも郡山の素晴らしいイルミネーション知って&見てほしいです。
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【写真−1 山に囲まれた福島県川俣町中心の最近の様子】
最初は福島県の中通りにある伊達郡川俣町で、この町には小生の母方の叔父が住んでいて、東京生まれの大叔父が何故、福島に移り住んだ理由は聞いていないが、大叔父は東京へ来ると小生宅に泊まっていたから関係は近しく、初めて夏休みに遊びに行って滞在したのは小学3年か4年の頃であった。
川俣町は2020年のNHK朝の連続ドラマ『エール』のモデルになった古関裕而が銀行員として住んだ町として知られ、昔は絹織物産業が盛んで当時は県内ではかなり大きな町であったらしいが、小生が遊びに行った頃からは人口減が続き、2011年の福島原発爆発では町の一部が放射能汚染された。
【写真−2 事件時のこの辺りの東北線は単線であった】
川俣町へ行くには、東北本線福島駅3つ手前の松川駅で川俣線に乗り換えて、終点の岩代川俣駅で降りるが、この川俣線は典型的な盲腸路線で、全長12.2キロ、4駅しかない線だが、絹織物産業全盛の1915(大正4)年に敷いた軽便鉄道が前身で、その後戦争を挟んで国鉄路線となるが、1972年に廃線となった。
松川駅と聞くと写真−2の列車が転覆し3人の死者を出した松川事件を思い起こすが、事件は1949(昭和24)年に発生し、松川駅を利用した時は小学生なので事件のことは全く分からず、この事件に関心を持ったのは中学生になってからであった。
事件は被告の中に一審、二審と死刑判決は出たものの最高裁で全員無罪となり、戦後の下山事件、三鷹事件と共に当時の占領軍が高揚する国鉄の労働組合を陥れるために仕組んだ謀略事件といわれたが、結局どの事件も真犯人は捕まらず、戦後多かった冤罪事件として記憶される。
【写真−3 こういう雨曝し状態で老朽化する機関車が問題になっている】
東北線はまだ一部を除いて単線、列車も鮨詰め状態で洗面所に腰かけて福島へ向かった記憶があり、松川駅からは気動車に乗ったと思うが、川俣線でディーゼル気動車が走ったのは1966(昭和41)年からで、その前はガソリンカー、写真−3のC−12蒸気機関車が走っていた。
写真−3のC−12は松川駅次の岩代飯野駅のあった飯野町に静態保存され、この型の機関車は戦争前と戦後にかけて282両が5社で製造され、小型軽量なために各地の簡易支線で使われ、製造番号60番は1933(昭和8)年、『汽車製造』社で製作され、同社は1972(昭和42)年、川崎重工に吸収合併され消滅。
C−12は中国、台湾、インドネシア、ヴェトナム、カラフトなど海外でも活躍し、国内外合わせて30両近くが保存され、現在SL観光列車として栃木県の真岡鉄道で運行されている66号機は、元々は川俣線で走り終点の岩代川俣駅跡に保存していた車両である。
【写真−4 当時この駅まで朝早く東京を出て午後遅く着いた気がする】
川俣線に乗った時は蒸気機関車に乗った記憶はなく、写真−4はかつての岩代川俣駅構内の様子で、ディーゼル気動車が川俣線を走ったのは1966(昭和66)年なので、ホームに停まっている戦前から走っていたガソリン気動車に乗って川俣へ行った。
写真−4の手前側が松川駅方面になるが、この駅のホームや駅舎の様子など全く記憶はなく、現在駅跡地には低層の集合住宅が建てられていて、その敷地内建物に駅の歴史を示す資料室が設けられていたが今は見学は出来ず、その傍に『岩代川俣駅跡』と彫られた細長い石碑がかつての駅跡を示す。
【写真−5 こどもには釜茹でにされてしまう恐怖感があった】
大叔父の家は川俣町の中心通り沿いにあるかなり大きな古い家で、菓子を売る店を営んでいたが、他にも商売をしていたようで、店の壁に電話機があって、受話器と通話機が別々で、通話をする時はハンドルを回して呼び出す箱型の形式であった記憶がある。
そういう古びた雰囲気の家であったが、渡り廊下を行った奥まった一角に写真−5に似た五右衛門風呂があり、仲の良い同級生の家が風呂屋をやっていたために風呂屋を遊び場にしていたくらいだが、さすがに五右衛門風呂は初めて見るもので中に入るのは怖かった。
薪で焚く湯の優しさは大人になってから分かるもので、五右衛門風呂と同じように板を沈めて入る方式にドラム缶風呂があり、高校生の時の真冬に八丈島へ行って、テントを張っていたら近くの民家に誘われて庭先にあったドラム缶風呂に入れてもらったが、肩から顔を冷たく吹き抜ける風とドラム缶内の湯の暖かさの妙な対比を今でも覚えている。
【写真−6 こういう木型を作る技術を持つ職人も僅かしか残っていない】
大叔父の家は菓子を売る商店と先述したが、菓子を作る職人が居て店の一角で作っていて、今でも鮮やかに覚えているのは壁にL字型の金具を付けて、そこに熱い水飴を引っ掛けて伸ばしては捻じる動作を繰り返して透明であった水飴を白色にして、それを小さく切って飴にしていたことで、白い飴はこうやって作るのかと見ていて飽きなかった。
菓子製造場所の棚にはたくさんの褐色になった写真−5のような木型が収められていて、ある日それを使ってお祝い用の菓子を作っていて、今思えば『落雁』を作っていたのだが、木型といい製造方法といい今なら興味はあるが、こどもには落雁という菓子は好きになれなかった。
また、アイスキャンディーも製造していて、製造機の冷却水を循環させるモーター音が響いていたが、当時のアイスキャンディーは丸い細長い形をしていて、小生は小豆アイスが好きであったが、大叔父の店で製造しているといっても特にたくさん食べた記憶はない。
【写真−7 泳げるような綺麗な川ではなかったが毎日のように来た】
この時、母親と一緒に来た記憶があり後で迎えに来るといって母親はすぐに東京へ帰って一人暮らしが始まるが母親が迎えに来た時、小生の身体には蚤に食われた跡が点々とあり、当時の東京でも蚤など猫や犬にたかっているくらいだから母親もさすがに驚いたが、その時の痒さはもう忘れている。
川俣町には広瀬川という名の川が流れていて、写真−7は現在の広瀬川の様子で護岸は整備されているが、当時は土の堤防があっただけでそこに出かけて川を見るのを日課にしていたが、今でも覚えているのは細長い棒に針と餌を付けて低い堰の下で鰻を撮っている姿で、こんな汚い川で鰻が居るのか思ったが時々釣り上げていた。
【写真−8 大叔父の家から近かった】
川俣町にはこれといって名所はなく、その中で写真−7の常泉寺が知られていて、長い石段の先に古い茅葺の山門があり、一度くらいは行ったかも知れないが、当時は石段も山門も古びていた記憶があり、これは近年になって改修したためで、写真の手前に欄干が写っているがこの下を流れるのは広瀬川である。
この寺には樹齢250年、樹高9m、幹回り8.6m、二股に別れた枝張り20mという枝垂れ桜が生えていて開花の時期は名所になっているが、行った時は真夏であり桜のことなど話題にもならず、桜自体に興味を持つのは大人になってからである。
【写真−9 1000mに満たない山であったが眺望は良かった】
また従兄に連れて行ってもらったのが写真−9の花塚山で標高918.5mは川俣町にある山では最高峰で、最初川俣町のあるどの山か分からなかったが、花塚山は巨石があって、その巨石群と写真−9でも頂上付近は石になっていてこの石の上から下を覗き込んだことを想い出し登山したのは花塚山であったと判明した。
花塚山を有名にしたのは、2017年に富士山の見える北限の山という称号で、富士山まで直線で308キロあり、今後も位置と標高からこの花塚山以北では富士山は見えないだろうとなっている。
こうして小学生時代の川俣生活は終わったが、10代終りの頃に自転車で東北、北海道を廻った時に訪ねていて、その時は福島原発のある浜通りから阿武隈山地を越えて川俣町に着いたが、未整備の山道を自転車で越えて来たというのでさすがに大叔父達は驚いていたが、この大叔父達も鬼籍に入った人が多い。
【写真−1 山に囲まれた福島県川俣町中心の最近の様子】
最初は福島県の中通りにある伊達郡川俣町で、この町には小生の母方の叔父が住んでいて、東京生まれの大叔父が何故、福島に移り住んだ理由は聞いていないが、大叔父は東京へ来ると小生宅に泊まっていたから関係は近しく、初めて夏休みに遊びに行って滞在したのは小学3年か4年の頃であった。
川俣町は2020年のNHK朝の連続ドラマ『エール』のモデルになった古関裕而が銀行員として住んだ町として知られ、昔は絹織物産業が盛んで当時は県内ではかなり大きな町であったらしいが、小生が遊びに行った頃からは人口減が続き、2011年の福島原発爆発では町の一部が放射能汚染された。
【写真−2 事件時のこの辺りの東北線は単線であった】
川俣町へ行くには、東北本線福島駅3つ手前の松川駅で川俣線に乗り換えて、終点の岩代川俣駅で降りるが、この川俣線は典型的な盲腸路線で、全長12.2キロ、4駅しかない線だが、絹織物産業全盛の1915(大正4)年に敷いた軽便鉄道が前身で、その後戦争を挟んで国鉄路線となるが、1972年に廃線となった。
松川駅と聞くと写真−2の列車が転覆し3人の死者を出した松川事件を思い起こすが、事件は1949(昭和24)年に発生し、松川駅を利用した時は小学生なので事件のことは全く分からず、この事件に関心を持ったのは中学生になってからであった。
事件は被告の中に一審、二審と死刑判決は出たものの最高裁で全員無罪となり、戦後の下山事件、三鷹事件と共に当時の占領軍が高揚する国鉄の労働組合を陥れるために仕組んだ謀略事件といわれたが、結局どの事件も真犯人は捕まらず、戦後多かった冤罪事件として記憶される。
【写真−3 こういう雨曝し状態で老朽化する機関車が問題になっている】
東北線はまだ一部を除いて単線、列車も鮨詰め状態で洗面所に腰かけて福島へ向かった記憶があり、松川駅からは気動車に乗ったと思うが、川俣線でディーゼル気動車が走ったのは1966(昭和41)年からで、その前はガソリンカー、写真−3のC−12蒸気機関車が走っていた。
写真−3のC−12は松川駅次の岩代飯野駅のあった飯野町に静態保存され、この型の機関車は戦争前と戦後にかけて282両が5社で製造され、小型軽量なために各地の簡易支線で使われ、製造番号60番は1933(昭和8)年、『汽車製造』社で製作され、同社は1972(昭和42)年、川崎重工に吸収合併され消滅。
C−12は中国、台湾、インドネシア、ヴェトナム、カラフトなど海外でも活躍し、国内外合わせて30両近くが保存され、現在SL観光列車として栃木県の真岡鉄道で運行されている66号機は、元々は川俣線で走り終点の岩代川俣駅跡に保存していた車両である。
【写真−4 当時この駅まで朝早く東京を出て午後遅く着いた気がする】
川俣線に乗った時は蒸気機関車に乗った記憶はなく、写真−4はかつての岩代川俣駅構内の様子で、ディーゼル気動車が川俣線を走ったのは1966(昭和66)年なので、ホームに停まっている戦前から走っていたガソリン気動車に乗って川俣へ行った。
写真−4の手前側が松代駅方面になるが、この駅のホームや駅舎の様子など全く記憶はなく、現在駅跡地には低層の集合住宅が建てられていて、その敷地内建物に駅の歴史を示す資料室が設けられていたが今は見学は出来ず、その傍に『岩代川俣駅跡』と彫られた細長い石碑がかつての駅跡を示す。
【写真−5 こどもには釜茹でにされてしまう恐怖感があった】
大叔父の家は川俣町の中心通り沿いにあるかなり大きな古い家で、菓子を売る店を営んでいたが、他にも商売をしていたようで、店の壁に電話機があって、受話器と通話機が別々で、通話をする時はハンドルを回して呼び出す箱型の形式であった記憶がある。
そういう古びた雰囲気の家であったが、渡り廊下を行った奥まった一角に写真−5に似た五右衛門風呂があり、仲の良い同級生の家が風呂屋をやっていたために風呂屋を遊び場にしていたくらいだが、さすがに五右衛門風呂は初めて見るもので中に入るのは怖かった。
薪で焚く湯の優しさは大人になってから分かるもので、五右衛門風呂と同じように板を沈めて入る方式にドラム缶風呂があり、高校生の時の真冬に八丈島へ行って、テントを張っていたら近くの民家に誘われて庭先にあったドラム缶風呂に入れてもらったが、肩から顔を冷たく吹き抜ける風とドラム缶内の湯の暖かさの妙な対比を今でも覚えている。
【写真−6 こういう木型を作る技術を持つ職人も僅かしか残っていない】
大叔父の家は菓子を売る商店と先述したが、菓子を作る職人が居て店の一角で作っていて、今でも鮮やかに覚えているのは壁にL字型の金具を付けて、そこに熱い水飴を引っ掛けて伸ばしては捻じる動作を繰り返して透明であった水飴を白色にして、それを小さく切って飴にしていたことで、白い飴はこうやって作るのかと見ていて飽きなかった。
菓子製造場所の棚にはたくさんの褐色になった写真−5のような木型が収められていて、ある日それを使ってお祝い用の菓子を作っていて、今思えば『落雁』を作っていたのだが、木型といい製造方法といい今なら興味はあるが、こどもには落雁という菓子は好きになれなかった。
また、アイスキャンディーも製造していて、製造機の冷却水を循環させるモーター音が響いていたが、当時のアイスキャンディーは丸い細長い形をしていて、小生は小豆アイスが好きであったが、大叔父の店で製造しているといっても特にたくさん食べた記憶はない。
【写真−7 泳げるような綺麗な川ではなかったが毎日のように来た】
この時、母親と一緒に来た記憶があり後で迎えに来るといって母親はすぐに東京へ帰って一人暮らしが始まるが母親が迎えに来た時、小生の身体には蚤に食われた跡が点々とあり、当時の東京でも蚤など猫や犬にたかっているくらいだから母親もさすがに驚いたが、その時の痒さはもう忘れている。
川俣町には広瀬川という名の川が流れていて、写真−7は現在の広瀬川の様子で護岸は整備されているが、当時は土の堤防があっただけでそこに出かけて川を見るのを日課にしていたが、今でも覚えているのは細長い棒に針と餌を付けて低い堰の下で鰻を撮っている姿で、こんな汚い川で鰻が居るのか思ったが時々釣り上げていた。
【写真−8 大叔父の家から近かった】
川俣町にはこれといって名所はなく、その中で写真−7の常泉寺が知られていて、長い石段の先に古い茅葺の山門があり、一度くらいは行ったかも知れないが、当時は石段も山門も古びていた記憶があり、これは近年になって改修したためで、写真の手前に欄干が写っているがこの下を流れるのは広瀬川である。
この寺には樹齢250年、樹高9m、幹回り8.6m、二股に別れた枝張り20mという枝垂れ桜が生えていて開花の時期は名所になっているが、行った時は真夏であり桜のことなど話題にもならず、桜自体に興味を持つのは大人になってからである。
【写真−9 1000mに満たない山であったが眺望は良かった】
また従兄に連れて行ってもらったのが写真−9の花塚山で標高918.5mは川俣町にある山では最高峰で、最初川俣町のあるどの山か分からなかったが、花塚山は巨石があって、その巨石群と写真−9でも頂上付近は石になっていてこの石の上から下を覗き込んだことを想い出し登山したのは花塚山であったと判明した。
花塚山を有名にしたのは、2017年に富士山の見える北限の山という称号で、富士山まで直線で308キロあり、今後も位置と標高からこの花塚山以北では富士山は見えないだろうとなっている。
こうして小学生時代の川俣生活は終わったが、10代終りの頃に自転車で東北、北海道を廻った時に訪ねていて、その時は福島原発のある浜通りから阿武隈山地を越えて川俣町に着いたが、未整備の山道を自転車で越えたて来たというのでさすがに大叔父達は驚いていたが、この大叔父達も鬼籍に入った人が多い。
普通のビジネスホテルがここまで進化した!「ガーデンホテル喜多方」のナチュラルな?リブランドに脱帽。。。
ビジネスホテルは、差別化が難しい業態?
宿泊特化型のビジネスホテルと言えば、温泉旅館やリゾートホテルなどとは異なり、一般的にはサービス面等での「差別化」が難しいとされる業態だ。
宿を選択する要素が、立地や価格など、合理的過ぎる?理由に大きく依拠しているからである。
もちろん、掃除を徹底するとか、朝食を充実させるとか、打つ手が無いワケではない。
しかしそれでも、前述の「合理的過ぎる理由」をひっくり返すのは至難の技だ。
そんな中、これは上手い!と思わずうなってしまったホテルを発見した。
喜多方駅より徒歩4分のガーデンホテル喜多方がそれである。
珪藻土の壁に、無垢材のフローリング。。。
このホテル、もともとは喜多方シティホテルという、どこにでもありそうな普通のビジネスホテルだった。
それが2013年のリブランド後は、他の宿泊特化型のビジネスホテルではちょっと見ることができない、個性的なホテルに生まれ変わっている。
リニューアル後の客室の壁は、なんと珪藻土だ。
床のフローリングにも無垢の板が敷き詰められており、ビジネスホテルの冷たさ?が払拭されている。
さらに各客室には、それぞれ喜多方市出身の版画家・山中現氏の作品が飾ってあるという。
これぞ、真のリブランド?
レストランに入ると、見事な無垢の一枚板のテーブルがまず目に入る。
冬は、無粋なエアコン?ではなく、ペレットストーブがレストランを温める。
そしてここで提供される朝食は、バイキング形式ではなく、地元の食材や調味料をメインに、一つ一つ手づくりで作りこまれた、「主張」や「提案」が含まれたものだ。
地元の農家から仕入れるだけでなく、自社農園で採れた野菜も使用しているという。
食後には挽きたて淹れたての珈琲なども用意される。
「シンプルな贅沢を御提供いたします」という謳い文句が、なんとも違和感無く響く。
普段、掲載する宿泊施設を「ベタ褒めしない」のが当サイトの主義?なのだが、このホテルについては、褒めざるを得ない(笑)。
「真のリブランド」とは、こういうことだと思った。
2016年02月19日初回掲載
2022年11月14日加筆修正
宿泊予約は
ガーデンホテル喜多方
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温泉旅館の主役は「女将」から「若旦那」へ?
温泉旅館と言えば、おもてなしの「主役」は女将。
と思いきや、裏方のイメージが強かった「若旦那」に、注目が集まったことがある。
例えば、福島市郊外の土湯温泉。
吾妻山の山懐に佇む温泉郷で、温泉街を縫うように荒川が流れている場所だ。
渓流沿いに宿が点在しており、近くには磐梯スカイラインがあることから、四季を問わず観光の拠点となっている。
そのお湯は「美人の湯」としても知られており、女性客を誘客するためにも?「若旦那」の存在が欠かせなかったらしい。
サイト「若旦那図鑑」は閉鎖、既に1館は閉館。。。
で、その土湯温泉で「若旦那」が話題となったのは、2014頃から。
その「若旦那」いたのは、はるみや旅館、山根屋旅館、ホテル山水荘、向瀧旅館(2020年閉館)の4軒。
向瀧旅館には若旦那が2名いたので、5人衆ということになる。
この5人衆、WEBサイト上で「若旦那図鑑」なるものが公開され、漫画作品などにもなり、自己満と洒落を含め?、殆どタレント状態(笑)だった。
しかし、2018年頃以降はニュースソースに乗ってくる機会もなくなり、1軒は既に閉館、2022年7月20日現在、「若旦那図鑑」サイトも閉鎖されている。
なんとも寂しい限りだが、若旦那もそろそろ「旦那」の年齢になるだろうから、今後は旦那3人衆?として土湯温泉を盛り上げてもらいたい、と思ったりもした。
2022年07月20日加筆修正
宿泊予約は
土湯温泉
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見た目は普通のビジネスホテル。
JR郡山駅西口のほぼ正面に、郡山シティホテルという、見た目はごく普通のビジネスホテルがある。
このホテル、見た目はごく普通・・・なのだが、ちょっとだけ普通じゃないところがあるらしい。
何が変わっているかというと、共用部分に1人用のカラオケBOX「タイトーちょいKARA♪」が設置されているのだ。
しかも、宿泊客は30分間、無料で利用できる。
かつてのラブホを改修したビジネスホテルなどでは、無料のカラオケが客室内に設置されている例も見られるが、ココはあくまでも生粋の?ビジネスホテルなのである。
ゲストハウスみたい?共用のミニキッチンあり。
さてもう一点、ちょっとだけ変わっている点が、共用のミニキッチンの存在。
ミニキッチンと言えば、コンドミニアムなどマンションタイプの宿であれば客室内に普通に設置されているが、ココのはあくまでも共用施設。
ビジネスホテルなのに、なんだかゲストハウスみたいな感じ(笑)。
では、他の「基本性能」はどんな感じか言うと、客室はちょいと狭いものの(シングルで11〜12?)、全室にシモンズベッド・空気清浄機・洗浄機付トイレを完備するなど、一定の水準はクリアしている様子。
朝食についても、なかなか充実した感じのバイキングを無料で提供している。
1人カラオケで発散?したい人はぜひ。。。
2022年06月13日加筆修正
宿泊予約は
郡山シティホテル
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JUGEMテーマ:福島県何でも情報
日光線のE131系も試運転を開始しました。E131系の相模線&日光線投入で(日本国内の)205系も残るは浜川崎線(元総武線と山手線)と鶴見線(元山手線と埼京線)と奈良線(元福知山線と阪和線)と富士急行(元京葉線と八高線)だけになりそうです。(ぉぃ)
新潟県の蒲原鉄道の電車に屋根をかけるプロジェクトが始動しました。大正時代の貴重な鉄道車両をいつまでも大切にしたいものです。(ぉぃ)
そんなわけで今日は全国おみやげ応援企画です。
今年2021(令和3)年は東日本大震災・東京電力福島第一原子力発電所事故から10年であり、なおかつ東京オリンピック・パラリンピック(2020)の開催年でもあるのでこれにふさわしく(❓)福島県の銘菓「ままどおる」を紹介してみます。
=お取り寄せで応援バックナンバー=
「ままどおる」は福島県郡山市にあるお菓子メーカー「三万石」が出しているお菓子で、同社の代表商品でもあり福島土産の定番でもあります。
バターが多く入っているミルク味の白餡をバターを多く使った生地で包み上げた焼き菓子で、1967(昭和42)年に発売されて以来50年以上にわたって親しまれています。味は横浜の「ありあけハーバー」や福岡の「博多通りもん」とよく似ています。
製品名の「ままどおる」はスペイン語で「お乳をのむ子供」という意味です。
主に福島県内で売られていますが、JR仙台駅や東北自動車道(E4)の蓮田サービスエリア(私はここで購入しました)や東京都内の福島県アンテナショップなどでも売っています。
姉妹品として「チョコままどおる」もあり、昔は冬限定でしたが現在は通年販売しているみたいです。
同じメーカーの「エキソンパイ」との詰め合わせや、複数のお菓子を詰め合わせた「天使がいっぱい」もあり、これらは福島県民の帰省土産やお祝い品として人気を集めています。福島県民にとって「ままどおる」をはじめとする三万石のお菓子は北海道の六花亭みたいな存在のようです。
皆さんも福島へのエールとしてこの「ままどおる」買ってみませんか?
最後に、私が買った「ままどおる」の写真も貼り付けます。
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瀧桜ばかりに目を奪われがちだが、背後の土手の上にはソメイヨシノが満開で、そちらに足を伸ばし瀧桜を見下ろすのも一興で、その土手に写真−1の『瀧桜』と題の付いた詩碑があった。
【写真−1 瀧桜の背後の土手にあり他にも石碑がいくつか】
この碑は福島県いわき市小川町出身の『草野心平』の詠んだ詩が彫られていて、『梅桃桜 三春の春の 春一等の 瀧桜 萬朶の花は 盛りあがり すだれ瀧となって 垂れさがる 日本一とも言われての ベニシダレの その見事さ 美しさ 背景はあやめの空と 羊雲』とある。
草野心平は1988(昭和63)年に85歳で没したが、蛙を詠んだ詩で知られる詩人で、亡くなる前年に文化勲章を受章していて、画家や作家の受賞者は憶えられない程いるが、詩人は少なく1951(昭和25)年の『土井晩翠』に次ぎ、草野の次は2005(平成15)年の『大岡信』と3人しかいない。
先年、東北の津波被害者支援で東北を廻った時に、いわき市にあるキャンプ場から仮設住宅を行き来したが、その途中に草野心平の生家があり見学していて、16歳まで住んだ生家は綺麗に整備され、今は記念文学館になっている。
【写真−2 コロナ禍で今年はどこの花見の名所もこういう光景は見られない】
名高い景勝地には付きものの団体写真を撮る設備がここにもあり、写真−2は瀧桜を背景にするには絶好の場所に台が組まれ、次々と団体客が導かれて写真を撮っていた。
個人がカメラを持ち、今はスマホで気軽に撮れる時代になってこの手の商売は先細るようだが、団体の場合それなりに需要があるのであろう。そういえば、カメラを持たない観光客向けに写真を撮る商売もあったが、こちらも全滅状態か。
フィリピンで教会の結婚式に行くと、この手の写真屋がバチバチ撮って、式が終わる頃には撮った写真を片隅に並べて売っているが、これなど写真がデジタル化されたから出来る商売で、それなりに商売になっているし、小生も買ったことがある。
【福島県桜番付で瀧桜は東の正横綱に】
【写真−3 こういうリストを見ると日本は桜の国でもある】
駐車場の一角にテント張り屋台が出ていて、そこで見かけたのが写真−3のポスターで、これは福島県内に咲く桜を相撲の番付に模してランク付けしたもので、やはり『瀧桜』は東の正横綱と県内一の存在を示している。
平成27年とあるから毎年作られているのか分からないが、西の横綱は郡山市の樹齢400年の『地蔵桜』で、瀧桜と同じエドヒガンの枝垂れ桜で写真を見ると瀧桜より花の色は紅色が濃い。
三春町には番付に入る桜が多く、三役の大関2、関脇1、小結1に名を連ねていて、他にも前頭でいくつも入っていて、三春町は瀧桜だけではない桜の里であることが分かる。
それにしても、こういう資料を見ると順番に桜を訪ねてみたいと思い、観光客誘致には優れもので、これを巡るにはどのくらいの時間がかかるのかと思いは膨らみ、他県でもこのような試みは行われているのかと興味を持つ。
【写真−4 このくらいの枝垂れ桜は町内を歩くとたくさん見られる】
瀧桜は夜間にライトアップされ幽遠の評判だが、その時間まで留まるには鉄道、バス利用者にはきつく、またバスに乗って駅に戻るが途中にも見事な枝垂れ桜の姿を見、このまま駅に直行するのはもったいないので町の中心部で下車する。
汗ばむほどの陽気の中を満開の桜を愛でながら歩くと、由緒ありげな寺があり中に入るが、寺は曹洞宗『州伝寺』で、その境内にも写真−4の様に枝垂れ桜は満開だが、そのそばに積まれた石碑の山に驚かされる。
三春は旧三春藩の城下町で、寺の反対側の山の上には城があり、藩主は何代も変わったが藩主の墓が寺内にある。この近くに桜番付で東の大関を張っていた『福聚寺』の桜もあるが急な坂道を登らなければならないので諦める。
【三春町も福島第1原発からの放射能で汚染されていた】
【写真−5 その昔は三春城の追手門があった場所】
三春町は『三春駒』で知られる町で、古い洋館も残り町の中心を貫く幹線道路は観光を意識してか、整備されて電柱がなくなりスッキリしているが、古い街並みは失われた感じがする。
幹線道路沿いに『自衛官募集中』の看板を正面に大きく掲げた4階建ての町役場があり、その辺りが町の中心になるが、町役場反対側の高くなった場所に写真−5の古い門があった。
この写真左側に建物が写っているが『三春小学校』で、門は校門で古いのもそのはずで、三春藩の18世紀後半に設立された藩校の表門を移築したもので『明徳門』と称すが、校庭を囲んで桜が満開でこういった環境で学べる子どもは恵まれている。
【写真−6 何兆円もの国費を使って除染をしているが土建屋の利権か】
福島第1原子力発電所が爆発し、近隣へ放射能汚染を起こしたのは2011年で、その前年に三春町は瀧桜整備を理由に入場料を徴収するようにしたが、爆発のあった年の春は国中が放射能の恐怖で花見見物どころではなく、町は皮算用の当てが外れた。
そのため、三春町は翌年、東京電力に対して入場料損失の損害賠償訴訟を起こし、その請求額3272万円で、その裁判の結末はどうなっているのか知らないが、福島という保守的な場所柄何らかの形で手打ちになっているのではないか。
放射能汚染から4年以上経っているのに、三春駅へ向かう途中で見かけた『除染事業』中の看板が写真−6。花見気分が一気に吹き飛ぶ看板だが、除染は昨年の11月に福島へ行った時に汚染土を運ぶダンプカーの車列が高速道路上を走っているのを目撃した。それにしても1000年も生きている『瀧桜』、まさか頭上から原子力発電所の放射能汚染物質が降りかかるとは思っていなかったであろう。
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