【1月にはここを中心に『シヌログ』という一大イヴェントが繰り広げられる】
年末と言うのに大型台風がフィリピンに接近していて、ルソン島南部から首都圏にかけて警戒情報が出ているが、セブは台風の影響のためかどんよりした天気が続き、時折り強い雨が降る。
セブへ来た台風で記憶に新しいのは2013年11月の台風『ヨランダ』で、既に3年以上経つと記憶も風化しがちで、日本の福島原発爆発など既に5年以上経つから、日本人が原発に鈍感になるのも無理はないし、原発推進派は時間による風化を狙っていてその通りになっている。
サント・ニーニョ教会というのは正称を『パシリカ・ミノレ・デル・サント・ニーニョ教会』と言うが、これは1965年にカトリック本山から尊称を受けたためだが、そんなややこしい言い方は教会関係者だけで、普通はサント・ニーニョ教会で通っている。
この教会の本尊は『幼きイエス』像で、ニーニョとはスペイン語で『男の子』を言う。このニーニョ像、1541年に世界周航の途次セブへ立ち寄った『マゼラン』が持って来た謂われがあり、数々の奇跡を生む伝承がある。
マゼランはセブへ上陸後の同年4月27日、セブの空の玄関口でリゾートとしての虚名で有名なマクタン島で島の支配者『ラプラプ』軍と戦い、同地で戦死していて、その戦死の地が観光ポイントにもなっている。
マゼランは戦死するまで2週間足らずのセブ滞在であったが、その時、セブ島側の支配者『ラジャ・フマボン』一族に対してカトリックへの帰依に成功し、セブはフィリピンのカトリック布教の始まる聖地となっている。
セブの当時の支配者にラジャと付いているように、この時代は『イスラム教』がフィリピンにかなり布教しているのが分かる。その後、1565年になって『レガスピ』がセブへ派遣され、レガスピは初代提督となり、これよりスペインのフィリピン植民地化が始まり、1898年の『米西戦争』でアメリカがスペインを破るまで続く。
レガスピがセブへ来た時、行方不明であったマゼランが持って来たサント・ニーニョ像が発見され、奇跡の像として改めて崇め奉られ、1565年に教会が建てられたのが、現在のサント・ニーニョ教会の始まりとされているが、それ以前は質素な竹とニッパヤシで造られた堂であったらしい。
フィリピンには最古と呼称する教会がいくつもあって、どれが本当か分からないが、一応、サント・ニーニョ教会はフィリピン最古の教会となっているが、セブ島の隣の島『ボホール島』にある『バクラヨン教会』が最古という話もある。
創建当時からの建物と言えばバクラヨン教会は確かに古く、この教会は2013年のボホール地震でかなり被害を受けた。サント・ニーニョ教会は何度も火災などで建て直されていて、現在の建物は1740年に再建されたらしいが、先述したボホール地震ではサント・ニーニョ教会の鐘楼が屋根の部分から崩落する甚大な被害を受けたが、先頃修復が終わった。
で、長くなったが写真に入ろう。崩落した鐘楼は写真の建物の右端にあるが、画面には入りきらず、クリスマスの日にミサを受ける人々の姿を写した。サント・ニーニョ像は右の建物のアーチを入った奥に安置されていて、長時間並ぶのを厭わなければそばまで行って拝見することができる。
その像に信者が尻を向けているのはこちら側にミサを行う広場とスタンドがあって、そこの祭壇でミサが執り行われているためである。クリスマスと言う特別な日のためか、信者の数は多く熱心とは思うが、私などのような不信心者は厳かさは感じるもののシャッター・チャンスを求めるような按配であった。
この日、私はたまたま新しい靴を履いて出かけたが、ミサに出席する人々の足元を見ると、新しい靴を履いているのが目立つ。恐らく、着ている服も新しい物が多いのではと思った。
これは日本でも正月時に新しい服や靴を履いたり着たりしたのと同じで、新しい年には新しい物を身に付けて新しい気持ちでと言うのは国が違っても同じだなと感じた。
【セブの台所 生鮮野菜のカルボン市場と魚市場パシルに挟まれた地域にある】
15日の木曜日がフィリピンは給料支払日に当たり、会社によっては13ヶ月目の給与を同時に払っていて、この週末はどこでもクリスマス・セールのかきいれでにぎわった。
それを象徴するのはモール前のタクシー乗り場の様子で、いつもなら客待ちをするタクシーが暇そうに並んでいるのに、給与の出たためいつもと違ってタクシー待ちの人が長蛇の列を作った。
13ヶ月目の給与とは、フィリピンの法律で1年以上働いた労働者にはもう一月分支払う制度で、日本でいうボーナスに似ている。日本のボーナスは業績によって支給額は左右されるが、フィリピンはどんなに儲かっても会社は1ヶ月分を払えば済むので楽といえば楽。
フィリピンはASEANの中でも経済成長率はトップ・クラスの伸びで、世界銀行の予測では2016年の経済成長率が予測では6.4%であったのに、6.8%へ上方修正している。
こういったフィリピンの好景気は貧困層あるいは最貧困層に恩恵が及ぶはずだが、好景気分は従来の富裕層に流れ込むだけで、下に回って来なくて、これはフィリピンに限らず世界の多くの国が『格差』という問題に直面する要因の一つとなっている。
毎年、我が家では1年間小銭を貯めて、この時期に蓋を開けて集計しているが、先日それを行った。今年は昨年より額は多くひと月当たり3000ペソが貯まっていた。
塵も積もればの例え通りでコツコツ貯めれば結構な額になるが、今年の特徴は1000ペソの高額紙幣が多く、その気になれば気が付かぬ内に貯められると分かる。
この貯めた金額の一部は施設や教会に寄付するようにしていて、昨年は老人施設であったが今年は写真の場所へ行った。ここは『Missionaries of Charity』と看板が掲げられているようにマザー・テレサの起こしたカトリック修道会が運営している。
マザー・テレサはインド・コルカタで活動を続け、1979年にはノーベル平和賞を受けた世界的に知られた人物で、カトリック界では異例の早さで列福、列聖になって、この辺りの経緯が色々と詮索されて業績への評価も高いが批判も数多い。
私は信者でも何でもないから家人に連れられてこの場所へ来て、初めてマザー・テレサの教団がセブで活動をしている事を始めて知ったが、場所は車一台が通れるような住宅密集地の最奥にあり、その向こうは水面が広がり高架道路が通っている。
この高架道路は日本のODAで埋め立てた土地を通り抜ける道路で、毎回この高架道路を通る度にぎっしり建てられたこの地域を眼下に見ていて、セブにもこのようなスクオッター(不法占拠者)まがいのスラムがあるなと思っていた。
今回、訪ねると住民はこの場所を親切に教えてくれて、危険な場所という感じはないし、何よりも住民が外部の人間を良く見ているという感じがした。また、スラムという表現は行き過ぎで、密集はしているが昔のセブはこんな雰囲気であったのだろうなと思った。
この地域はトライシカッド(3輪自転車)で移動するのがもっぱらで、五月蠅いトライシクル(3輪バイク)はないし、時にはカレッサ(1頭立て馬車)が走っていて、狭いながらも住み易そうな感じさえ受けた。
写真の施設は日本風に言えば『養護施設』で、扉に『Home for the Sick and Malnourished Children』と書かれているように病気や栄養失調の子どもを預かっている。これらの子どもは孤児あるいは親が子どもを育てられない背景から生じているが、2階の大広間に10人ほど。その横の部屋には乳児が5人ほどいた。
栄養失調の子どもでは、かつてアフリカで生活した時に見た、手首の細さで栄養状態を知る事を想い出したが、アフリカでは人差し指ほどの手首の子がたくさんいて、医療関係者によるとそういう子は死に近いと言われた。
この施設には韓国出身のシスターが一人いて、少し前まで日本人のシスターが居たとのこと。ここでは子どもを保護するだけではなく、最貧困層への支援も行っていて当日は隣接する地区で配る弁当を多数用意していた。
この用意する人々の中でインドネシア・フローレス島から来た青年が居て、イスラム大国のインドネシアにしては珍しいなと思ったが、フローレス島の東には独立したチモール島があって、島民の80%はカトリックだというから、はるばるセブに来て支援活動をするのも理解した。
豊かといわれた日本でも『子どもの貧困』問題が大きく取り上げられていて、先進国の加盟するOECD(経済開発機構)の34ヶ国中、子どもの貧困率が16.3%もあり、ワースト10に入っていると先頃発表された。しかも、1人親世帯では50.8%の高率になり加盟国の中で最も高くなっている。
16.3%というと実に6人に1人は貧困という結果はにわかに信じ難いが、貧困の概念も今は、食べるものに困る層を『絶対的貧困』、食べるには何とかだが余裕のない『相対的貧困』という2つに分けられている。
フィリピンは貧困層と最貧困層と分けられているように、その貧困率は相当なものだと思うが、その貧困は親から子どもに連鎖して、貧困はなくならないとも言われ、そういった社会の中で、更に親から見捨てられてしまったこれら施設の子どもの将来はどうなるのだろうと思うと、誠に辛い事がある。せめて、このように『貧者の一灯』を続けなければいけないことは確かである。
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【人出は多いがクリスマス・セールの売り上げ増はどうだろうか】
クリスマスまで余すところ2週間となり、フィリピン中クリスマス商戦の真っ最中。写真は久し振りに訪れた近所のショッピング・モールに飾られたクリスマス・ツリーの様子で、吹き抜けのフロアー1階から3階にまで達する。
このモールには出入り口にもツリーが飾られ、他にもLEDのイルミネーションを施し、クリスマス気分を否が応でも盛り立てている。クリスマスというのはフィリピンの人々にとっては、日本の盆と正月が一緒にやって来たようなもので、1年で最大の行事になる。
この時期、海外に移住、あるいは働いているフィリピン人からのフィリピンに住む身内への送金も増えて、政府の公式発表では2015年度通年の送金額は257億ドル強で、送金額は毎年5%前後の率で増加し、5%増だと今年度は270億ドルに達する。
この発表される数字も銀行などで公に捕捉できる金融機関経由の額であって、実際はフィリピンへ帰国する人に現金を委託する、あるいは地下銀行のようなものを利用する人もあって、実際はもっと巨額、一説には政府発表の倍に達するのではという話もある。
この海外の送金額がどれだけフィリピンに価値があるかを見ると、フィリピンの2017年国家予算は3兆3500億ペソで、これを最近の対米ドルのペソ・レートで割ると約676億ドルで日本円に直すと約7兆円になる。
何かと問題を引き起こしている金持ち自治体である東京都の2016年度予算が特別会計を入れると13兆円になり、この額は北欧スウェーデンや世界で4番目の2億5000万人以上の人口を擁するインドネシアに匹敵する額で、東京都というのが金の面でも肥大した奇矯な自治体であるのが分かる。
世界で1億人の人口を抱えるフィリピンが東京都の半分程度の予算しか使えないのが貧困の源かも知れないが、スウェーデン並みの予算を持っている東京都がスウェーデンより暮らし良く、福祉も充実しているなどとは誰も間違っても思わない。
一体この巨額な金はどこへ使われているのだろうかと疑問を呈する人も少なく、オリンピックなどという商業イヴェントに湯水のように浪費され、全く日本の納税者は簡単に洗脳されてしまっていると呆れるばかり。
また、フィリピンはこの時期に海外からクリスマス・プレゼントと称して身内への大量の荷物が送られ、これをこちらでは『バヤックバヤン・Box』と称していて、直訳すれば『荷物の祖国への帰国』となるが、そのプレゼントも一箱50〜60キロにも達する重さで中味も様々。
そういった思い遣りは大切とは思うが、中には米だとか日常的な食品も多くフィリピン人が住む在外国の物価はフィリピンより高く、これらを現地で購入して送るよりもそれに費やした金額をフィリピンで消費させた方が内需拡大に繋がると思うがどうだろうか。
そういう風に数字で割り切れないのがこういった贈り物の気持ちであって、日本だって年末はお歳暮で結構物が動いている。もっとも日本の方は身内というより世間の付き合い方で他人に対して物を贈る慣習だから、フィリピンのように身内対象とはまた毛色が違うのも確か。
とまあ、相変わらずつまらない事を書いているが、例年室内で飾っていた結構大き目のクリスマス・ツリーもここ数年、箱に仕舞い込んだままで飾っていない。そうなるとこの飾らない事が当たり前になって増々縁遠くなり、飾ろうと言う気も起きて来ない。やはり、こういった行事というのは勢いが必要で、このまま何も飾らないクリスマスを迎えても良いのだろうかと考えるが、それ程ツリーを飾る事と生活には関係ないか。
【フィリピンの今あるカボチャは日本産の種という話がある】
それでも、11月の世紀の番狂わせであったアメリカ大統領選の結果は2016年の世界10大ニュースのトップ入りは間違いないだろう。今色々とトランプ側の逆転勝利が分析されているが、やはり民主党政権8年が飽きられ、変化を求めたに尽きるのではないか。
この選挙では敗れたヒラリー側が総得票ではトランプを200万票も上回っていて、通常の選挙では当選となるが、アメリカは『選挙人制度』というおかしな民主主義の根幹に反する間接選挙になっているために、トランプが勝ってしまった。
このトランプにしても事前の不利が予想された時は選挙人制度は廃止だと言っていたが、当選してしまったらそんな発言などどこへやらで、このおかしな制度を改めないとアメリカ大統領選は今後も最多得票者が落選するおかしな結果が続きそうだ。
隣の韓国でも大統領が任期前に辞めることになったが、この女大統領、能力などないのに独裁者の娘の知名度だけで最高権力者の座に座ったのが間違いで、この人物を担いだ与党の連中の罪はもっと重い。
それにしても、大統領の辞任となるとフィリピンでは第13代のエストラダの例があって、2001年1月に弾劾裁判の過程に韓国と同様の辞任要求運動によって自ら辞任したのがある。
フィリピンは大統領と副大統領を選挙でそれぞれ選ぶので、大統領が辞めても副大統領が昇格して引き継ぐが、韓国のように大統領だけを選び、その下に首相以下を任命するやり方だと、あっさり辞められず、いつまでも愚図愚図するようになる。
韓国の煮え切らない辞任劇を見ると、エストラダは馬鹿だったけど引き際は良かったと再評価しても良いと思ったりする。
この韓国、次の大統領候補が取り沙汰されているが、中でももうすぐ任期の切れる韓国出身の国連事務総長が野心を燃やしていて、事務総長としては歴代最悪、無能力と評価されているのに、事務総長の次は韓国の最高権力者の大統領へと野望を早くから持っていて、中立であるべき職務を偏らせていわば在任中に立候補運動をしていた。
この人物は辞任する現大統領の後釜と目されていたが、今回の辞任劇でだいぶ支持を落としたらしいが油断はならない。
そういえば、フランスでも次期大統領選では現政権側の与党は再選ならず、野党側の勝利は間違いないと言われている。この間、野党第一党が元首相の候補者を選んだが、野党側にはもう一人極右陣営の党首がかなり有望な候補者となっていて、アメリカのように『もしかして』が現実になる可能性があると見られている。
このように世界は内向きになっていて、人類普遍の幸福の追求など、もう過去の遺物とばかりそれぞれが勝手に自国の国益とやらで動く時代に入ったようで、恐ろしい時代に逆戻りした。
とまあ、政治的なことを書いたが12月は『冬至』があって、今年は12月21日になっている。この冬至は年によって日にちは動くがここ400年前後、即ち過去は江戸時代初期、それと未来400年先を見ると、21日か22日になっている。
冬至は昼の時間が一年中で最も短い日で、それでなくてもこの時期はフィリピンでも日の暮れるのが早いなと感じる。例えばマニラの今日の日出は午前6時5分、日の入りは午後5時25分となっていて、セブもそれほど時間的には変わらないだろう。
確かに6時前には既に夕闇というより真っ暗な状態で、日は短くなっていると実感させられ、木枯らしが電線を鳴らさないだけ南国の有難味を知る。
この冬至には『南瓜=カボチャ』を食べるのが日本では習慣になっているが、私の記憶では冬至に食べるのは『冬瓜=トウガン』だと思っていて、実家でも母親がトウガンのスープを出していた記憶を持つが、改めて調べたらトウガンというのは夏の野菜で冬至までは持たず、やはり冬至にはカボチャを食べるのが本当で、記憶違いのようだ。
写真は冷蔵庫にあったカボチャの一部だが、トウガンはフィリピンにあったようにも思うが、決まり通り12月21日にはカボチャを煮て冬至を送る事にしようと考えている。
【写真−1 かつては建物の右手際まで海が迫っていた】
セブ市役所の道を挟んだ裏側にはやはり旧いビルがあって、そちらは博物館にするために修復の真っ最中。この地域はいわゆる『オールド・セブ』でセブを訪れる観光客が必ず行くサント・ニーニョ教会やマジェラン・クロスといった史跡が多い。
しかし、オールド・セブといっても先の大戦末期にセブ市の南、タリサイ海岸に上陸した連合軍によって、猛烈な空爆、砲撃を浴びてそういった古の建物の多くはほとんど破壊され、戦後すぐに空撮されたダウン・タウン地区など原野のような有様で、連合軍のその徹底さには驚かされる。
さて、写真−1の建物は1910年に建てられた『Compaña Maritima』ビルで後にホテルとなり『シャムロック・ホテル』という。戦時中に屋根も内部も焼け落ちてしまったが、仮補修で船会社が1980年代まで使い、倒産した後は放置状態となり、ご覧の外観のまま現在に至っている。
1910年というのは日本でいえば明治43年。前年10月に伊藤博文がハルビンで暗殺され、5月に『大逆事件』が起き、8月には韓国が日本によって植民地化されたように帝国主義体制が仕上がって行く時代になる。
フィリピンは1898年にそれまでの宗主国スペインからアメリカの支配下に移った頃で、アメリカの植民地として相当の繁栄をもたらす時代になっている。当時のセブは港湾に恵まれ『東洋のクイーン・シティー』と称されていた。
【写真−2 活況を呈するホテル前の岸壁】
その様子を物語るのが写真−2で左下にシャムロック・ホテル・セブと書いてあり、左側の建物がそのシャムロック・ホテルになる。写真−2から分かるように当時はホテルの真ん前まで岸壁があって、今のような野原の中に建っていた状態ではないのが分かる。
これは後に埋め立てが進められたためで、セブは平地が少なく、昔から海を埋め立てることを続けて拡張し、最近でも日本の円借款で広大な埋め立てを完成させている。
写真−2を見た時に、今の写真−1の右側に見える窓の数が違うなと思ったが、写真−2はその裏手が写っていて、そう考えると海の方向も納得できるし、窓の形状からも間違いない。
写真−2はいつごろ撮られたか不明だが、戦前には間違いなく、遠くに見える黒い森のような場所はフィリピンに最初に築かれたスペイン時代の砦『フォート・サン・ペドロ』ではないかと思うが、今度近くへ行ったらその位置を確認してみたい。
ホテルの裏側には線路が敷かれ荷役をしたような図が残り、その線路は戦前、セブに走っていた鉄道の分岐線で、カルボン・マーケットのカルボンとは炭素のCarbonから来ていて、この地区には石炭発電所があり、その燃え殻を捨てて埋めたのがカルボン・マーケットの由来といわれている。
さて、この建物しばらく打ち捨てられホームレスが住み付いたりしていたが、近年こういった古い建物の再評価が進み、後世に残そうという機運が高まった。確か前に見た時、外装は見るも無残な色をしていたと思うが、恐らく外装だけでもと塗り替えたのではないかと思う。
冒頭に書いた修復中のビルは中国系のビルで1914年に建造され船会社や貿易会社、アメリカ系のデパートなどが入っていたから、シャムロック・ホテルを含めてこの辺りは当時でも最新、流行の人の集まる場所であったのではないかと思う。
ここで特筆して良いのはこの修復中のビルにセブで初めてのエスカレーターが設置されたとある。それまで私は、セブで最初のエスカレーターは、マンゴー通り沿いにあったかつてのルスタンの中と思っていたが、違うことが分かった。
【もう一台近くの町に似た機関車があり、そちらはアメリカ・プリマス製】
もしやという一抹の不安感はありながらも、アメリカ大統領選はヒラリーの圧勝と衆目は見ていたし、私もそう思っていた。ところが、蓋を開けてみれば世紀の番狂わせでトランプの大勝利、ヒラリーは惨敗という結果になった。
この結果については様々な論評が洪水のようになされているが、それにしても事前の世論調査ではヒラリー優位は揺るがず、一番この結果に驚いているのは世論調査に携わった機関や連中ではないだろうか。
そのくらいトランプの逆転勝利は世論調査の理論性と信憑性に疑問を投げかけているが、今回の結果に言えることは『民主党政権の8年』が有権者から飽きられ突き放されただけの話であって、民主党がどれだけ強力な候補者を擁立しようと当選は無理で、共和党はトランプ以外の誰を擁立しても共和党側の当選という流れに決まっていたような気がする。
つまりオバマが『チェンジ』を旗印にそれまでの共和党政権を破って当選したのと同じ現象が今回起きた事であって、言って見れば飽きられた民主党から受け皿の共和党に交代しただけで、アメリカ政治の流れから予測でき『青天の霹靂』だなどと大騒ぎする事ではない。とは書くものの後出しジャンケンの様な感じはある。
写真はセブ島北部の町にある、ディーゼル機関車で、現在この機関車は写真のように野晒しになっている。セブのような所に機関車が走っていたのかと思われるだろうが、機関車は砂糖キビ畑に敷かれた線路を走っていて、この機関車のあるメデリン町には大きな製糖工場が戦前から操業している。
セブ島北部は海岸から山が迫り平地の少ないセブ島では例外的に平らな土地が広がり、それを利用して砂糖キビが植えられ、その辺りの風景は雄大な様子を見せる。その砂糖キビを製糖工場へ運ぶために砂糖キビ畑内に線路が敷かれ、写真の機関車が運んでいた。
私がセブに来た頃はまだ線路は使われていて、畑の中でトロッコに積み込む作業も見ているが、トラック輸送になってから線路は撤去され、そういった作業風景はもう見られない。それでも車道を横切るレールは、その後長い間残っていたがいつのまにか埋められ、今はその形跡さえも消えてしまった。
写真の機関車の下部に『HAMILTON OHIO U.S.A.』と白い文字が見え、これはアメリカのオハイオのハミルトンで製作した機関車の意味で、この機関車がいつからセブで動いていたのかは分からないが、相当古い事は確かである。
オハイオとはオハイオ州の事で、今回の大統領選でトランプは勝利していて、この州で勝った大統領候補者は必ず当選するというジンクスが1964年以降あるらしいが、今回もその通りになった。
ちなみにその前の1960年大統領選では暗殺されたケネディーが当選したが、オハイオでは共和党のニクソンに負けている。そして1964年はケネディーの跡を継いだジョンソンで、この時から『オハイオ・ジンクス』が生まれたが、この年の選挙は共和党候補のゴールドウオーターのボロ負けで、州別で勝ったのはわずか南部中心の6州だけで、民主党の歴史的な一方勝ちとまで言われている。
オハイオ州は1979年にホンダが初めて工場を造った場所で、これはアメリカ本土への日本の自動車工場初進出でもあり、これで分かるように五大湖畔に広がる昔からの工業州である。
州内に写真の機関車を製造した会社がハミルトンにあって、ハミルトンは現在人口6万2千人台の市で、フィリピンのセブのような所まで機関車を売っているようにかつては製造業で活況を呈したらしいが、今は寂れてしまっているという。
今回の選挙でこういった産業で働いていた本来は民主党寄りの白人労働者が離反したために、ヒラリーは破れたという分析もあるし、民主、共和とアメリカは2大政党で政治を動かしているようだが、どちらも支持しない浮動層がかなりあって、これが今回トランプに投票したため民主の敗北に繋がったともある。それが示すように上下院、州知事選とも共和党が優勢の結果となった。
アメリカが主導した『グローバリズム』が結局、アメリカの産業の空洞化を招いたのは確かで、その不満が白人労働者層を中心に渦巻き、今回の波乱を呼んだというが、そもそもアメリカと大企業に都合の良いシステムで没落に向かってしまったとは皮肉の何物でもない。
そういえば2013年に東北を被災者支援で回った時に、地方のかつての中心商店街は無残にも『シャッター商店街』になっていて、その現状に驚いた物だが、そういった商店街で購買していた層が地域から消えたわけではなく、大資本のショッピング・センターが国道沿いに出現していて、消費者は便利に勝るものはなく集まっている。
これなど、小売りにおけるグローバリズムの現実、弊害であって、これに限らず、雇用形態の破壊も然り。また日本もトランプ当選で『TPP』など消し飛んでしまったのに、国会で率先して採決してしまうなど愚の骨頂。
今、かつて憧れた『Made in America』などあの国にあるのかと思うほど、製造業はアメリカを逃げ出していて、残っているのは汗をかかない人の褌で金を儲ける金融とIT関連、サービス業ばかりになっているのがアメリカの実態で、今回の結果は汗した労働者の反乱と言っても良いのでは。
日本の人口減を裏付ける統計が先日発表された。日本の国勢調査は5年ごとに行われ、最新は2015年調査で、総人口の確定人数は1億2709万人余(外国人を含む)であった。
これは前回2010年年調査から0.8%減少、その数は96万人余となり、1920年から調査開始以来初めての減少となり、改めて日本の人口減が数字の上で立証された。
将来的には日本の人口は8000万人台になると予測されていて、人口減から見る悲観論もあるが、むしろ8000万人が快適に暮らせる、丁度良い環境と制度を作るべきと思うが、日本は相変わらず右肩上がりの成長を夢見ていて、将来に渡る深刻さを先送りにしているようだ。
写真はこの間、セブ島北部の町に住む100歳の老人の誕生祝いに行って知り合いの家に泊まった時の一枚で、子どもがフロアーにマットを敷いて遊んでいる一枚。
100歳翁ともなると、その子ども、孫、玄孫と数多く、その時集まった家族は三々五々この町の親類宅に泊まっているが、一家族4人から5人ぐらいの子どもを持っている。日本では一人っ子などと言われて久しいが、私の子ども頃の日本もやはり一家族3人くらいの子どもは普通で、一人っ子など珍しい時代でもあった。
これは都度書いているが私が初めてフィリピンに来た頃の人口は5000万人台であったが、今や軽く1億人を超えた。5000万人の人口規模の時代でもフィリピンには働く場所がなく、その少し前から政策的に人間を輸出して海外に働き場所を求め、今や海外で働いているフィリピン人は1000万人に達するというから驚きを超すし、この人々の海外からの送金がないとフィリピン経済が止まってしまう。
以前からフィリピンの『貧困』は人口爆発が原因と指摘されていて、前政権のアキノなど割合熱心に人口問題に取り組んだが、頑迷なフィリピン・カトリックの強い抵抗があって効果はあまりなかった。
それで、どのくらいフィリピンは人口爆発なのかと資料を見たら、少し古いが世界銀行の統計が参考になった。それによると、2012年のフィリピンの出生率は3.08となっていて、この数字を日本と比較すると同時期の日本は1.41で、日本の倍以上の数字を記録している。
ところがフィリピンの1960年代から1970年代にかけては、フィリピンの出生率は何と6〜7台を記録していて今の倍以上の数字を記録している。これではフィリピンの人口が爆発したのも頷けるが、実はこの出生率、年々下がっている。
その理由は科学的には分からないが、私のフィリピン人の知り合いの家族を見ると、親達の子どもの数は5〜6人くらいの兄弟姉妹は普通であったが、当人達の子どもはせいぜい2人か、一人っ子なども珍しくない。
これは想像するに兄弟姉妹が多いために何かと苦労して育ったために、自分の代には子どもは少なくして、親の苦労を再現したくないという気持ちがあるためではないかと思う。
これは同時に教育水準の高い層ほど子どもの数が少ない傾向があり、いわゆる『貧乏人の子沢山』は教育水準の低い層、地方に偏り、これがフィリピンの貧困問題を妨げている要因の一つではないかとも思える。
年々、出生率の下がっているフィリピンだが、18歳の母親が幼い子どもの手を引き、乳児を抱えしかも妊娠中などと言う現実がフィリピンの各地にある事を見ると、やはり人口対策、啓蒙は人権という意味からも重要と思える。
人口問題というのは地球温暖化とも関係があって、2014年統計では世界人口は73億人で一番多いのは中国で14億人というから、5人に1人は中国人という勘定になる。否が応でも中国人が世界の勢力地図の中で強味を見せているのは仕方がないが、中国の出生率は1.5人台というから案外と低い。
ところが低い出生率は良くても、長年の一人っ子政策が破綻してしまって、今は2人以上でも良くなったそうだが、既に歪みは生じていて将来的には老人ばかりの国になるという。
やがて人口世界一になるのは現在12億6千万人以上を抱えるインドとなっているが、あのカースト制度の国がこのまま順調に発展していくかどうか誰も判らず、美味しい材料だけで判断するのは危険である。
次に移民で作ったアメリカ3億2千万人、4位インドネシア2億5千万人、5位ブラジル2億人、6位パキスタン1億9千万人、7位ナイジェリア1億7千万人、8位バングラデシュ1億6千万人、9位ロシア1億4千万人と続き、日本は世界で10番目に顔を出すからやはり狭い国土に人口過剰という印象は免れない。
フィリピンは近い将来日本の人口を追い越すから、日本よりまだ狭い国土面積でどうなるのかと思うが、今よりも更に世界へ向けて人間を輸出していれば収支は取れると見ているらしいが、世界の変化は激しく、今のようにフィリピン人の海外出稼ぎが将来も順調でいられるかどうか。
フィリピンは外食産業が盛んで、国内では世界的企業のマクドナルドを凌駕するジョリビーなどと言う地場資本のハンバーガー・チェーンもあり、この会社はアメリカや香港、ヴェトナム、中東などにも支店網を広げている。
この進出国もフィリピン人の海外就労者(OFW)の多い地域と重なっていて、日曜日に教会へ行きその帰りに一家でジョリビーに寄るのが割合良い生活と見られる中では、フィリピン人の食べ慣れた故国の味になるのだろう。
外資系の外食産業ではピザのシェーキーズ、ピザ・ハットなどもフィリピンではお馴染みで、ピザのケチャップ味というのはフィリピン人好みになるのか、色々なピザ店が開業している。
最近は宅配も盛んで、我が家でも休日の昼食支度を面倒になって、時に宅配ピザを頼む事があり、12インチのLサイズが500ペソを切るから、日本円で1000円弱。これを家人と一緒に食べても半分くらい残し、夕食も残りのピザという日もある。
もっとも、ピザが配達される前に冷蔵庫の野菜をアレンジしたサラダを食べているから、ジャンク・フード一色というわけではない。宅配を頼むのは写真のシェーキーズで、これは我が家に一番近い宅配ピザ店がシェーキーズと言うだけの理由で、特別のファンではない。
写真はセブの大規模ショッピング・モール内の店で、モールでピザを食べるのは1年に1回もあるかないかだから、ご覧のように珍しさを兼ねて一枚撮った。
シェーキーズという店はフィリピンに初めて来た30年以上前、初めて食べたピザの店ということで想い出も残っている。これは以前も触れているが、場所はケソン市のクバオのシェーキーズで昼時に入った。
そこを選んだのはピザを食べたいというより、店内でライブ演奏をやっていたからで、数人の若者が片隅で演奏をしていた。客はあまり入っていなかったが、フィリピンは昼間からこういった店でライブ演奏をしているのかと驚いた記憶がある。
贅沢といえば贅沢だが、当時のレストランはこのようなライブ演奏は珍しくなく、チョッとした店なら当たり前のようにライブを聞かせていた。口の悪い友人は『オーディア設備に金をかけるより人間に演奏させた方がフィリピンは安い』などと言っていたが、本当のような気もした。
この時、クバオの映画館を物色してタガログ映画を観たが、館内は平日の昼間というのに満員状態。これはどの地域の映画館に入っても同じで察する所、職のない人々が涼みを兼ねて映画を観ているのではと思った。
何しろフィリピンの街角で見かける人々はどう見ても失業者ばかりという印象があるためで、その割には人々にはあまり切実な表情を感じさせなかった。それから人口は倍に増え、それなりにフィリピン経済は底上げされたが、相変わらず失業者の数は多い。
しかも国内では職場が供給できず、高給を求めて海外に働きに出るフィリピン人が1000万人に達するというから驚きである。フィリピンの人口は1億人を超し、その内労働人口を半分と見て5000万人。その5000万人の中の1000万人だから、実に5人に1人は海外で働いている計算になる。
事実、どこの家庭へ行っても身内の1人や2人、海外で働いているなどフィリピンでは当たり前で、海外出稼ぎと言うと何やら惨めな感じを与えるが、海外就労など日本人が考えるよりかなり身近、簡単な意識でいる。
ピザの話から脱線しているが、高校生の頃、六本木にあった『ニコラス』というイタリア・レストランを想い出す。この店は小説の舞台にも登場する有名な店だが、こんな店を金もない高校生の分際で知っているのは、高校の同級生に六本木の駅ひとつ前の神谷町に住んでいる者がいて、その流れでこういった店に出入りした。
当時の六本木はようやく地下鉄日比谷線が全通し行き易くなったが、高級な麻布を控えた地域で、東京の中でも洒落た雰囲気を持っていた。そのニコラスのピザの味は覚えていないが、イタリア・レストランの珍しい時代だからインテリアも独特であった。
そういえば六本木近くに優美な姿で知られるヨット『ドラゴン』を店内に飾っていた喫茶店にも行った記憶があり、あれは何という店かなと時々想い出す。
先ほども書いたが高校生の分際でこういった店に行って知っているとは、やはり高校生ならではの背伸びと、東京っ子の物怖じしない気概を感じると書くと大袈裟、自慢になるか。
1872年(明治5年)10月14日に新橋―横浜間の鉄道が営業開始し、この日は『鉄道記念日』になっている。
【写真−1】
明治に改元して早くも5年目に鉄道を開業するとは当時の日本の勢いを感じさせるが、この頃は今の太陽暦ではなく太陰暦を使っていたからいかにも江戸時代から変わったばかりの空気を思わせる。
6年前に埼玉の大宮にある『鉄道博物館』へ行っているので、その時撮った写真を今回は6枚載せたい。写真−1は新橋―横浜開業の解説パネルで、新橋は今の新橋駅ではなくかつての汐留操車場にあり、横浜も桜木町の方にあった。
汐留跡地は民間に払い下げられて大手不動産があっという間に開発したが、今騒がれている築地市場移転問題も、元は都心に残った最後の土地の利権を巡ってであって、その辺りを解明する必要があるのではないか。
【写真−2】
写真−2は博物館のハイライトとも言える中央部で、各種車両が展示されている。円形の部分は機関車の転車台で、こうやって車両の前後を変えていた様子を時間を決めて実演している。
鉄道博物館は昔、秋葉原の万世橋に『交通博物館』があって、子どもの頃はずいぶん通った想い出があり、当時の秋葉原は今のような家電街は小さく、電気や電子部品を売る小さな店が多かった。
当時の交通博物館は鉄道だけではなく、海や空の乗り物もそろえていてあれらはどこへ行ったのであろうか。
【写真−3】
写真−3はかつての通勤電車の車内の様子。床が木張り、布張り座席、網棚など時代を感じさせるが、この電車で通学していたから懐かしい。
当時は殺人的なラッシュで寒くなると着ぶくれした乗客を車内に押し込むために『尻押し部隊』と呼ばれた係員がいたが、今だったら『セクハラ』でとても駄目だが、当時の風物詩でもあった。
【写真−4】
写真−4は修学旅行用の『ひので』のプレートと模型。車両の派手な塗り分けに覚えがあって、これに乗って中学の修学旅行は京都、奈良へ行った。
乗車時の様子はもう覚えていないが普通の座席に10時間ぐらい座っていたと思うから、昔の中学生は今よりはまだ忍耐心はあった。
修学旅行中に常磐線で大事故の『三河島脱線事故』があり、京都の旅館で事故のことを知り、常磐線は時々乗っていたから何とも嫌な気がした。
【写真−5】
写真−5は東海道新幹線の最初のモデル。東海道新幹線は東京オリンピックに間に合わせるように工事をし、全長515キロを起工から5年半で開通。
営業開始がオリンピックの開会式10月10日直前の10月1日であったから、ギリギリで関係者はさぞ神経をすり減らしたことであろう。
昨年、桜巡りで日本へ行った時、新幹線を多用したが、速くて便利ではあるが運賃はやはり高いなと感じた。
【写真−6】
最後の写真−6は鉄道博物館で食べた『駅弁』で、上品に調理されているが味は凡庸。弁当とお茶で楽に1000円を超し、その昔の駅弁はいくらしたかなと思い出しながら食べた。
【開業は遅れに遅れた。写真を撮った側に海が見える】
この建物かつてのマッチ工場跡地に造られたショッピング・モールの上に付け足しのように聳えるが、当初は韓国資本のロッテ・ホテルが開業すると聞いていた。それがどういう経緯か知らないが、高級志向のロッテから大衆路線の東横インに変わった。
ホテルは設計段階から用途に合わせて部屋割りを決め、付属するインテリアなど全て決めて建設にかかるから、途中から高級路線から大衆路線への変更は相当な問題を生じたと思う。
そのためかこのホテル建設は2013年10月にあったボホール−セブ地震の時には既に鉄骨が組み上がっていて、相当揺れた。その状態から考えると起工から4年近く費やして開業の運びとなり、この程度の建物にしては異常に時間がかかっている。
最近でも、開業まで半年を切る段階で、外壁の再工事をしていて、雨漏りがするとかなどの施工上の問題があったのではと思わせる。
東横インがあるモールはかつての工場跡地であるように、この一帯は元々工場地帯で、前を通る道は近年渋滞の酷くなった道で、日本食レストランの多い通りでもあるし、ホテルの数も多い。
モールを経営するのはマンゴー加工で財を成した中国系の一族で、マンゴーを乾燥させて干菓子にした製品がそんなに儲かるのかと思うが、世界数十ヶ国に輸出しているというから相当なものである。
この一族、多角経営を狙ったのかセブ・マクタン島のリゾート地帯にあるホテルに資本参加して、今では完全に傘下にしたのかホテル名をこのモールと同じ名前に変えて営業している。
私もこのホテルの開業時に何度か行っていて、ホテル内にある中華レストランで飲茶を食べた事があって、他の味は知らないがマアマアの味と値段であった。元々はインペリアル・ホテルと大仰な名前のホテル名を持ち韓国資本が造っていて利用客もほとんどが韓国人であった。
それをどうしてフィリピンの華人が買収したか分からないが、このホテルの部屋数は全部で557ある。マクタンはおろかセブでも部屋数に限って最大かと思って他を調べたら、マクタンの最高級ホテル、シャングリラが546部屋でわずかに少ない。
シャングリラに比較される旧ヒルトン・ホテルのモーベンピックが312部屋となっていて、他の高級ホテルもせいぜい300部屋未満。
これをセブ島に目を転じると、かつての海軍特攻隊基地跡に建つウオーターフロントが部屋数559を持ち、恐らくこのホテルがセブ最大、マニラ以南でも最大の部屋数を持つホテルではないか。
最も部屋の数が多いからといってホテルの格が良いわけではなく、このホテルどうも外観、ロビーなど品がなく、客層も同様。多分、ホテル内にカジノ=博打場を持っているからではないか。
セブ市内の他の高級ホテルを調べると、マリオットが301、長い間完成後開業しないで墓石ホテルと呼ばれたラディソンが400、かつての一流で倒産したこともあるマルコポールが329と何れも400室前後。
ホテルを建設する時、大規模ホテルは800部屋以上、400前後は中規模と業界では区分けしているから、セブには中規模ホテルが最高となっている。
ちなみにマニラを見ると、最近はマニラ湾沿いのカジノ特区開発と絡んで大規模ホテルが続々作られ、ソレア・リゾートが部屋数800と最大を誇る。
マニラはホテル需要が旺盛なのか600室前後の高級ホテルは多く、エドサ・シャングリラ631、重要会議で要人の泊まる経営が変わり名前の変わったソフィテルが609、ニューワールド580などが続き、かつての名門ホテルのマニラ・ホテルは515と案外と部屋数が多い。
それで写真の東横イン・セブの部屋数だが建物に『4&5』という表示があって、これは485室の意味かなと思ったが定かではない。
東横インには昨年、日本の桜巡りをした時に甲府で宿泊していて、ビジネス・ホテルのその狭さに驚いた経験を持つが、あの部屋の広さから見ると485室くらいはあるのではと思う。
開業が決まって部屋の宿泊値段の記されたチラシも配られていて、それによるとシングル1900ペソ、ツイン2600ペソ、デラックスが3200ペソとあり、日本で泊まれる東横イン値段よりは安く設定されているが、フィリピン経済基準では安くはないし、場所柄日本人の利用はどうかなという気もする。