椎崎夕「三十二番目の初恋」
椎崎夕「三十二番目の初恋」
恋人と仕事と住むところを一気に失った想は、いつでも来いという言葉と一緒に渡された名刺を
頼りに、医師の梶山のマンションを訪れた。駄目元でしばらく住まわせてくれないかと言った想の願いを、梶山はなんでもないことのように受け入れた。
想は腕のたつ美容師で、共同で店をもつことにな…
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椎崎夕「三十二番目の初恋」
恋人と仕事と住むところを一気に失った想は、いつでも来いという言葉と一緒に渡された名刺を
頼りに、医師の梶山のマンションを訪れた。駄目元でしばらく住まわせてくれないかと言った想の願いを、梶山はなんでもないことのように受け入れた。
想は腕のたつ美容師で、共同で店をもつことになった男と同棲していた。ある事情で実家とは絶縁状態だったけれど、恋人だったはずの男は想の収入を管理するからと徴収していたけれど、それでも想はそれなりに幸福なはずだった。
そんな日々が続くと思っていた矢先、想は同棲相手であった信田からいきなり明日出ていくように言われる。結婚するんだ、彼女が妊娠したから、と悪びれずに言う信田が、自分以外の誰かと付き合っていることすら知らなかった。状況が把握できないままひとりレストランに残された想は、知らない男女の派手な喧嘩に巻き込まれ、逆上した女に突き飛ばされて右腕を骨折した。美容師の利き腕骨折はつまり、仕事が一切できないということになる。その話をすれば信田に疑われた揚句切れられて、自分も出資した店なのにクビになった。これまで自分がかれに預けていた生活費がかえってくるはずも、ない。つまり想は本当になにもかもを、心のよりどころも生計をたてるすべも、今日眠る場所さえも失ったのだ。
想が巻き込まれた喧嘩の、男というのが梶山だった。正しくは女が一方的に怒っていたのだが、かれが骨折した想を病院へ連れてゆき、治療費を支払い、そのときに名刺を渡してきたのだ。何もかもを失った想はネットカフェとバイトの面接を往復し、利き腕骨折ゆえに全て不採用とされ、所持金が底をついて梶山をたよった。いくらなんでも了承されるはずがないという想の考えとは異なり、梶山は想との期間限定共同生活をすぐに認めた。
友達でもないし、厳密には加害者と被害者でもない、意気投合したわけでもない二人の、奇妙な共同生活が始まった。勤務医である梶山の出勤時刻はてんでばらばらだし、広いマンションはそれぞれの生活を妨げることもなかった。ただ同じ屋根の下にいるだけ、の日々を経てから、二人は歩み寄る。食事を一緒にとったり、なんでもない会話を交わすようになってゆく。
二人の生活は穏やかなものだった。必要以上に気を使う想と、必要最低限しか他人に心を開かない梶山では、衝突しようがない。ぎこちないけれど居心地の悪くない関係は、しかし何度も危機を迎える。前述の信田の存在と干渉、そして梶山と同じ病院に勤務する医師・永澤の登場と策略によって、想は繰り返し傷つけられる。梶山もまた、ひとりで背負うには重すぎる過去と向き合って心を痛め続ける。
なんだかんだでわたしはこういう、受が精神的にとにかくかわいそうな目に合いまくる話がきらいじゃない。というか好きである。それは、最終的にかれがその傷を補って余りあるほどの幸福を受けることが大前提にあるからなのかもしれない。ひどいままで終わる話もきらいじゃないけれど。なんていうか根本的な嗜好に理由なんてないのだ。
ということはさておき。
想はとにかくひどい目に合う。かれはお人よしで騙されやすいけれど、他のひとと比べて抜きんでて愚かなわけでも無垢なわけでもない。ただ、ひとを食い物にしてやろうとするような人間を無意識に引き寄せてしまうようだ。次から次へと、かれを苛むものがかれのもとにやってくる。そしてかれはそれらひとつひとつを自分一人で処理しようとする。誰かに相談すれば早々に解決したかもしれないけれど、以前ひとに大きな迷惑をかけたことがトラウマになっている想には出来ない。狡猾な相手に食い物にされるほか、かれに選択肢はない。
そして食い物にされるたび、想は自己評価を下げる。誰にも大切にされないのは、ひどいことばかりされるのは、自分がその程度の存在だからなのだと思うようになる。その思いが強くなればなるほど、梶山を好きになってしまったことが苦しい。梶山に好きだと言うことすらできない。
好きだと言うことすらできないと思いながらも、想は気持ちを止められない。好きだと言えないから、好きだと言うだけなら構わないのではないか、と思うようになる。返事など望まないから、片思いでいいから、と思ってしまう。もう二度と逢わない、遠くで幸せになってくれればいいと思いながらも、偶然すれ違うだけでもいいと思ってしまう。客としてたまに店にきてほしい、たまにじゃなくて頻繁にきてほしい、と思いだす。小さな願いが小さな欲になり、その欲が叶えばまた新しい願いが生まれる。自分でも制御できない気持ちに想は苦しみながら、この恋を全うしようと思う。
想の過去も、梶山の過去も重たくて、一気になかったことにできるようなものではない。過去は変えられないし消せないけれど、それでも、これから先や現在を変更することはできる。一人ならばとうに諦めてしまっていたことも、二人でなら。
梶山の過去はともかく、想の過去や、つい最近まで抱えていたトラブルについては少し消化不良のようにも思った。こんなにタチの悪い奴らが、その程度で手を引くとは思えない、と言いたくなるオチのつけ方だったのが物足りない。タイトルもそれほど重要なエピソードではなかった。けれど滑らかな文章と、もどかしいにもほどがある一進一退の恋愛模様は地味ながらも切なくていい。