椎崎夕「非保護者」
椎崎夕「非保護者」
ろくに大学にも行かずに遊び歩いている征は、会社社長である父が寄こしたお目付け役の瀬尾との同居生活を余儀なくされている。以前は兄弟のように仲良くしていた瀬尾と征だったが、征の中学受験を機にふたりの関係は気まずくなり、今では義務的な会話しかしなくなった。素直になれない征は、しかしな…
【つづきを読む】
椎崎夕「非保護者」
ろくに大学にも行かずに遊び歩いている征は、会社社長である父が寄こしたお目付け役の瀬尾との同居生活を余儀なくされている。以前は兄弟のように仲良くしていた瀬尾と征だったが、征の中学受験を機にふたりの関係は気まずくなり、今では義務的な会話しかしなくなった。素直になれない征は、しかしながら瀬尾をずっと思っている。
征の母方の遠戚である瀬尾は、仕事を紹介してもらったことに対する謝辞を述べる母に連れられて、征の家を訪れた。その時まだ小学校入学前だった征が中三の瀬尾に懐いたため、かれは征の世話というアルバイトをすることになった。父を亡くし、専業主婦だった母が働き始めたばかりの瀬尾家というのは、想像してみればそれほど裕福ではなかっただろう。それゆえただ親戚のお兄ちゃんとして面倒をみてもらうのではなく、アルバイトとして雇うことで、征の父は遠回しに瀬尾家を援助していたのだと思う。そのやり方は上手いけれど、まだ中学生の瀬尾に、有無を言わさず仕事を与えたということでもある。いくら征が純粋に瀬尾を慕っていても、かれらの間には雇用関係があった。瀬尾にはお兄ちゃんとして叱ることや、中学生らしい理不尽な感情を向けることは許されなかった。
かれらはあまり真っ当な関係ではなかった。まだ何もわかっていない子供と、同じく子供であるはずなのに既に諦めることや従うことを知ってしまった少年の、ぎこちない主従関係が始まってしまった。それでも、征は瀬尾にべったりだったし、瀬尾も征に優しかった。
現在19歳の征は実家を出てマンションで生活しているが、アルバイトなどするはずもなく、親から貰ったクレジットカードで豪遊中。ばったり会ったら話すような知人はいるけれど、取り立てて仲の良い友人はおらず、常に不機嫌そうだ。征の父の会社に就職した瀬尾は、社長からの命令で征のお目付け役として同居している。家事をしたり、征の夜遊びを制止したり、家の用事にかれを無理やり連れて行ったりするのが瀬尾の仕事になった。
出会いから十年以上が経過したふたりの間には穏やかでない空気が流れていて、過去の微笑ましい雰囲気は微塵も感じ取れない。瀬尾は仕事に関することと小言しか言わないし、征は瀬尾への反抗しか言葉に出さない。つねに苛立っている征と、義務的にしか動かない瀬尾の関係は悪化する一方だ。
ふたりの間に何が、関係を豹変させるどんなことがあったのかということと、ここから先どうなってゆくのかが、時世を行きつ戻りつしながら描かれる。
征は親の情をあまり知らないこどもだった。ピアニストの母は征をピアニストにすることだけを目指していて、征のそれ以外の部分に一切興味がなかった。別に征を憎んでいたわけではなく、純粋に何の感情も沸かなかったのだ。ピアニストとしての教育を徹底する母を見ていた父は、妻の過剰さを苦々しく思いながらも、何もしてくれなかった。かれもまた仕事が一番の人間で、征と過ごす時間を持たず、それを作ることもしなかった。
征が何をしたいと思っているのか、何を考えているのかを知るものはおらず、知ろうとするものもまた、いなかった。かれは両親と使用人に囲まれて、孤独だった。
そこへ現れたのが瀬尾だ。瀬尾は賃金が発生していたとはいえ征を見て、征と遊んでくれた。征の話を聞いてくれた。それが征にはどれほど嬉しかっただろうか。両親が与えてくれないものを、唯一瀬尾だけがくれた。
ある日征は怪我をする。幾ら幼かったとは言え、それは征が起こした、征の所為でおきた事故だった。しかし眼を離していた瀬尾が叱られ、瀬尾もまた自分を責めた。
怪我によって指の数本が不自由になった征を母は見放した。たとえ前みたいに巧く弾けなくてもピアノを頑張りたい、ピアノを弾きたいという征の願いは無視された。父もまた、ピアノから解放されたことだけを喜んで、自分のやりたいことをやれと言った。かれがピアノを心からやりたがっていたことは、気づかないまま。
幼い征は何度も期待して、その都度裏切られてきた。それでも一生懸命愛されようと、関心を引こうとするするかれの姿が痛ましい。ピアノが巧く弾ければ母は自分を見てくれると思っていた征は、もはやその機会を永遠に失ってしまった。
征の支えは瀬尾だけだった。瀬尾は優しく、いつも自分と一緒にいてくれた。それが自分が瀬尾に向けているのと同じ情によるものだと信じてい征は、瀬尾が怪我に責任を感じて世話を焼いているのだと知ってしまう。征はまた裏切られた。一番信じていた、唯一信じていた瀬尾にまで裏切られ、かれは全てを諦めた。期待すること、なにより自分に価値を見出すことを諦めた。
しつこく書いているけれど、わたしはこの類の、愛情を与えられなくて自己否定してしまう子供というモチーフが異常に好きなので、征の過去はかわいそうでかわいそうで、我ながら最低だと思うけれども好物だ。愛されなくて裏切られて、それでも必死に手を伸ばす。悉く手を振り払われて見ないふりをされてきた子が、最後に幸せを掴む。そういう話が好きだ。
(掴めないままの話も好きだけれど)
大学生になった征はくだらない夜遊びの果てに、とうとう自分がやりたいことを見つける。意地や自棄や誰かの情を得るためではない目標を見つけたとき、かれは瀬尾にそれを教えたいと思った。長らくまともな会話をしていなくても、責任感から傍にいてくれるだけでも、征にとって大切なのはいつだって瀬尾だった。
たとえ相手がどう思っていようとも、自分が自分の意志で好きになったもの、選んだもの。それが征を突き動かす。見放された子供のままのかれが
、ようやく大人になろうとしている。
細かい伏線も回収されるラストは心が和む。八歳年下の征に敬語を崩さなかった瀬尾が、普通の口調になったときの攻撃力が半端ない…!