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子どもの頃、母親に連れられて東銀座にある歌舞伎座で歌舞伎を何度か見ている。小学生であったから歌舞伎の何たることも分からないが、座った席は真ん中くらいで、舞台上のいかにも作りましたという装置が良く見えた。 【写真−1 芝居見物というより幕ノ内弁当に釣られたようだ】 母親は芝居見物が好きで明治座とか新橋演舞場といった他の劇場へも行っていたようだが、連れて行ってもらったのは歌舞伎座だけである。それにしても芝居など全く分からない小学生を歌舞伎座へ連れて行っても仕方がないと思うが、演目の記憶...
セブ島工房 | 2017.08.11 Fri 19:42
上野駅のガード下から上野広小路−秋葉原−日本橋−銀座方面へ抜ける道が『中央通り』になり、広小路に向かい、右手側最初の三叉路が『不忍通り』で、その昔、その角の辺りから東京で唯一の『トロリー・バス』の発着駅があった。 トロリー・バスというのは架線から電気を取って走るバスで、軌道のない都電といって良く、一時期は都営で4路線があった。その内の1路線が上野公園−今井間を走っていて、この路線は都内最後のトロリー・バス路線で1968年まで営業していた。 【写真−1 ずいぶん前から店の正面の様子は変わってい...
セブ島工房 | 2017.07.31 Mon 19:23
子どもの時、一家でご馳走を食べに出かける時は浅草が多かった。浅草は父親が大学に通っていた頃に下宿していた場所に近く、母親の親戚が浅草仲見世近くで魚屋をやっていたことと関係は深い。 【写真−1 昔もこんな気のおけないたたずまいであった】 また家のある千住から浅草へ行くには、東武線の北千住駅まで歩くより途中の千住2丁目交差点近くから浅草寿町行きの都バスに乗った方が早く、時代はまだ都電全盛で、都電もバスも車掌が乗っていた。 写真−1は浅草の洋食の店と知られる『ヨシカミ』で、創業...
セブ島工房 | 2017.07.25 Tue 19:20
今年の4月に日本へ行った時に、いつもなら足を運ぶ銀座へは行かなかった。銀座は東京一の昔からの盛り場だが、近年、今まであったビルを取り壊して再開発する事業が盛んになっている。 最近でも銀座4丁目の角にある三越が新しくなったし、新橋寄りにあった松屋も新しいビルになった。そういった中、先年、銀座へ行った時に眼に着いたのがいわゆる服飾やアクセサリーなどの高級『ブランド』店で、世界的なブランドが目立つ所に店を構えている。 【写真−1 この手の商売は儲け過ぎだが見栄を買う客だからどうでも...
セブ島工房 | 2017.07.17 Mon 18:32
子どもの頃、千住から上野へ出る時は、『国鉄』といわれた時代は常磐線に乗り終点上野で降りた。まだ、北千住の駅には日比谷線や千代田線といった地下鉄など敷かれていない時代である。 【写真−1 鉄骨の柱の下部に電気を取る架線が伸びる珍しい方式】 上野駅には地下鉄銀座線が通っていて、銀座線というのは日本で最初に敷かれた地下鉄で、1927年(昭和2年)に上野−浅草間を走り、これを見ても昭和初期の東京の盛り場というのは上野、浅草であったのが分かる。 この銀座線、全線開通したのは1939年...
セブ島工房 | 2017.07.11 Tue 19:47
新宿篇−1では中学、高校生時代の想い出を書いたが、新宿という地名を初めて意識したのは小学生6年の頃、当時同級生の家に集まって持ち回りで家庭教師を呼んで勉強を習っていた。 【写真−1 こんなスッキリした入り口ではなかった『ションベン横丁』】 その家庭教師が今は廃校となってしまった現筑波大学の前身になる東京教育大学の大学院生で、ある時、どういうきっかけか分からないが新宿へ映画を観に連れて行ってくれた。 映画の題名は今でもよく覚えていて『エミールと少年探偵団』。もう内容はどうであったか覚...
セブ島工房 | 2017.06.12 Mon 18:17
新宿というのは生まれ育った千住からはかなり遠く、子どもの時のあまり記憶は残っていないが、中学生の頃の新宿駅の様子は覚えている。 【写真−1 1960年代まで新宿駅西口には今のようなビルはなかった】 記憶としては東口側と違って西口の駅舎は古ぼけ、裸電球が点るようなホームの向こうには、家がなく西口の彼方には淀橋浄水場が見えた。 写真−1は今の新宿駅西口側の様子で、京王や小田急のビルが建ち、いくら何でも中学生の頃の記憶は間違いではないかと調べたら、小田急ビルが竣工したのは1967年、写真を撮っ...
セブ島工房 | 2017.06.09 Fri 11:05
今のように駅を中心に同じような顔の盛り場が方々にある時代と違って、東京の人間にとって銀座は昔から一段上の盛り場で、その銀座について触れてみたい。 【写真−1 ブランド専門店が出来てから銀座の品が失せた】 といっても、子どもの頃に銀座へ行くことは少なく、家族で行くとなると上野や浅草方面が多かった。それが高校生になって日比谷の映画街に行くようになり、銀座の街を知るようになる。 写真−1は銀座通りの京橋寄りにある『伊東屋』のビルで、ここは昔から有名な文具の老舗で品物も豊富、何...
セブ島工房 | 2017.05.20 Sat 20:42
今は荒川放水路のことを『荒川』と呼んでいるらしいが、子どもの頃は『放水路』と呼んでいて、生まれ育った家から子どもの足だと7〜8分で写真−1の放水路の土手に突き当たる。 【写真−1 右側が千住 橋を渡った左側が綾瀬、草加方面】 写真でも分かるように土手は昔ながらの盛り土になっていて、この斜面で転げ落ちて遊び、雪が降るとこの斜面でスキーの真似事をしたが、この写真を撮った時は桜の咲く頃で、伸び始めた草の緑色は昔のまま。 今はどうなっているか分からないが、この土手には春先になると『土筆』...
セブ島工房 | 2017.05.14 Sun 18:55
その(5)と(6)で千住の映画館について書いたが、中学生の時は都電で通学し高校生になってからは、北千住駅から常磐線で日暮里駅に出て山手線に乗り換えて池袋に出ていた。 【写真−1 池袋東口 例外はあるが駅前というのは東側から開けるという】 池袋は『ブクロ』などと不良連中にはいわれ、東京でもガラの悪い場所と知られていたが、中学校時代の都電の乗り換え地域の上野広小路と同様、池袋も10代の思春期にはそれなりに想い出も多い。 写真−1は最近の池袋東口の様子で、写真を撮った後ろ側には『巣鴨拘置所...
セブ島工房 | 2017.04.21 Fri 20:27
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