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JUGEMテーマ:仏教 清沢満之は論文「精神主義」で、「充分なる満足の精神内に求め得べきことを信ずる」ことが「第一義」だと述べる。自分の精神内に「完全なる立脚地」があれば、外部の事情に関係なく十分な満足が生まれるものだ。 同論文の別の表現を借りれば、「精神主義は自家の精神内に充足を求むるものなり。故に外物を追い他人に従いて、為に煩悶憂苦することなし」ということになる。政治や法律、倫理をはじめとする外物・他人を尺度に用いず、あくまでも自分自身の精神内の充足を求めるのが精神主義だ。 こう書くと...
清沢満之――仏教改革者の偉大なる足跡 | 2013.08.11 Sun 05:56
JUGEMテーマ:仏教 清沢満之は論文「精神主義」を閉じるにあたって、次のように記す。 「之を要するに、精神主義は吾人の世に処するの実行主義にして、其第一義は、充分なる満足の精神内に求め得べきことを信ずるにあり、而して其発動する所は、外物他人に追従して苦悶せざるにあり、交際協和して人生の幸楽を増進するにあり」 まず満之は、精神主義は「実行主義」だと書いている。精神主義は現実離れした空理空論ではなく、この世の中で実際に生きていくうえでの処世法なのだ。 だが処世法といっても、今もてはやされて...
清沢満之――仏教改革者の偉大なる足跡 | 2013.08.07 Wed 05:51
JUGEMテーマ:仏教 清沢満之の私塾として歴史に名を残す浩々洞の雑誌「精神界」が標榜した精神主義。これは「気持ちを奮い立たせれば何とかなる」といった精神論とは、まるで違う。精神主義とは、物質文明をも「包んだ精神の基盤」(神戸和麿)に焦点をあてた思想だ。 満之は1901年発行の「精神界」創刊号に掲載された論文「精神主義」にこう記している。「然らば、吾人は如何にして処世の完全なる立脚地を獲得すべきや。蓋し絶対無限者によるの外ある能わざるべし。(中略)而して此の如き立脚地を得たる精神の発達する條路、...
清沢満之――仏教改革者の偉大なる足跡 | 2013.08.04 Sun 05:45
JUGEMテーマ:仏教 浩々洞は1917年まで存続して多くの高名な仏教者を生んだが、清沢満之自身は1902年10月に真宗大学の学監職の辞表を提出した後、11月に三河大浜の西方寺に帰った。 1902年は満之にとって「皆んな砕けた年であつた」。6月に長男の信一が死去。10月に妻のやすが世を去った。同じく10月、真宗大学の学監職の辞表提出。11月には浩々洞を後にした。 1903年4月には三男の広済が死去。満之自身の死期も迫っていた。6月3日の朝、約150グラムの喀血。その後も喀血が続いた。4日、侍者の原子広宣が、言い残すこ...
清沢満之――仏教改革者の偉大なる足跡 | 2013.07.26 Fri 07:14
JUGEMテーマ:仏教 清沢満之と浩々洞のメンバーたちは「精神界」誌を1901年1月に創刊(1918年まで発行が続く)。この雑誌が誕生したきっかけは、あまり専門用語を使わずに仏教の真意を一般の人々に伝えるような雑誌をつくりたいという暁烏敏の思いだった。 「精神界」は、明治後期の「代表的な宗教運動」(吉田久一)となった「精神主義」を標榜し、当時の社会に少なかならぬ影響を与えた。 精神主義は、「精神なき物質文明」(安冨信哉)に突き進む明治の近代化路線のただなかで生まれたと言っていい。精神主義の「精神」...
清沢満之――仏教改革者の偉大なる足跡 | 2013.07.24 Wed 05:44
JUGEMテーマ:仏教 浩々洞という名称を考案したのは月見覚了だった(松田章一著の『暁烏敏 世と共に世を超えん』によると、考案者は和田鼎)。「浩々」とは「水の広々と広がっているさま」(広辞苑第五版)だが、浩々洞のメンバーの説明によると「物それ自身に対する吾人の心の直接経験」を意味するという。 浩々洞は近角常観の帰国後、1902年6月に本郷東片町に移転。浩々洞はこの後も何度も場所を変えながら、1917年まで続いた(満之自身は1902年11月に西方寺に帰っている)。 浩々洞のメンバーは清沢満之と議論したり、...
清沢満之――仏教改革者の偉大なる足跡 | 2013.07.20 Sat 06:20
JUGEMテーマ:仏教 清沢満之の真宗大学学監としての仕事は不本意な形で幕を閉じたが、東京での満之には大学とは別の大事な「仕事」もあった――「浩々洞」だ。 浩々洞とは満之と弟子たちが一つ屋根の下で共に暮らした私塾。その特色は「議論と大笑」にあったとされる。仏教学者として名を残す常盤大定は、浩々洞の生活は「古代の僧伽を目前に見る」ようだったという。 この私塾の発祥の地は東京の本郷森川町。ここに真宗大谷派僧侶の近角常観がつくった寮があった。1900年、近角がヨーロッパの宗教制度を調べるために洋行した...
清沢満之――仏教改革者の偉大なる足跡 | 2013.07.17 Wed 06:06
JUGEMテーマ:仏教真宗大学の東京移転にあたって「この大学は世界第一の仏教大学たらしめざるべからず」との抱負をいだいていた清沢満之だが、移転開校後まもなく大きなトラブルに見舞われる。教職員と学生の不満が主幹の関根仁応・排斥運動に発展したのだ。 満之の意向とはいえ関根が大学経営に関して強大な権限を握ったことに、一部の教職員が反発。一方、学生たちの間では、若い多田鼎らが講師に抜擢されたことへの不満などから著名な大家を教授に招くべきだとの声があがった。 学生らは、卒業生が教員免状をもらえるよう真宗...
清沢満之――仏教改革者の偉大なる足跡 | 2013.07.12 Fri 05:23
JUGEMテーマ:仏教 清沢満之の要請に沿って、東京の巣鴨に真宗大学の校舎ができたのが1901年9月。清沢満之学監(学長)の下で10月に移転開校式が行われた。 満之は開校にあたって、こう述べている。「即ち、我々が信奉する本願他力の宗義に基づきまして、我々に於いて最大事件なる自己の信念の確立の上に、其の信仰を他に伝へる、即ち自信教人信の誠を尽すべき人物を養成するのが本学の特質であります」 満之が大学の実際の運営を任せたのは主幹の関根仁応。改革運動の際、真宗大学研究科に在学していた関根は学生リーダー...
清沢満之――仏教改革者の偉大なる足跡 | 2013.07.10 Wed 05:26
JUGEMテーマ:仏教 清沢満之は1898年9月、新法主・大谷光演(句仏)の招きで東京に出た。その際、宿泊させてもらった友人の沢柳政太郎宅で、満之の信心に重大な影響を与える本に出合う。『エピクテタス氏教訓書』である。 エピクテタスはローマ帝政時代のストア派の哲学者。満之は『臘扇記』に、エピクテタスから学んだこととして「奴隷心にして美食せんよりは、餓死して脱苦するに如かじ」「天与の分を守りて我能を尽すべし」などの言葉を記している。 満之は短期の東京滞在の後いったん三河大浜に帰る。だが1899年6月、...
清沢満之――仏教改革者の偉大なる足跡 | 2013.07.08 Mon 05:48
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