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karasunice!の43番目のからすはよくシミュレ−トをおこなう 人間はこのランダムな現象の「ゆらぎ」に規則性を見いだしてしまうのである。実際にプログラマに乱数用のプログラムとして使用されているメルセンヌツイスターでプログラムを作成し、上記のコイン投げをシミュレートした例を提示してみると次のようになる。 表、表、裏、裏、裏、裏、裏、表、裏、表、表、裏、表、表、表、表、裏、… 多くの人にとって上の結果は「異様に表か裏に偏っている・分布が固まっている部分がある」と感じられるので...
karasunice!にいいね! | 2011.05.11 Wed 02:53
karasunice!の42番目のからすはコインで運を確かめる 運には「流れ」があるとする主張がある。つまり、運が良くなると良い傾向が続き、運が悪くなると悪い傾向が続くとする主張である。麻雀などのギャンブルで多用される考え方である。だが、これは錯覚の一種であるとする主張もある。人間はランダムな現象からも一定の法則を錯覚により見いだしてしまう。人間の主観ではなく、冷徹な統計学処理においてはカジノでの統計でも運の流れのようなものは見いだされていない。 この運の流れを事前に知ること...
karasunice!にいいね! | 2011.05.11 Wed 02:51
karasunice!の41番目のからすは漫画の世界の中にいる 意志の力や祈りで運(幸運・不運)を変更できるとする主張が多い。歴史上数多くの実験が繰り返されており、またアメリカなどのカジノでは常に情報を集計している。意志の力や祈りなどで運を変更できれば良いとする気持ちは多くの人間が持っている感情であるが、そのような事が可能であるとする証拠は一切ない。また、事前に運を知ることができるとする主張も同様である。小説や漫画などの世界では、このようなことが可能であることを前提とした物語...
karasunice!にいいね! | 2011.05.11 Wed 02:49
karasunice!の40番目のからすは危険性を回避するのが得意 現在、物性上の純粋な確率論の立場における決定論はハイゼンベルクの不確定性原理によってその存在の不可能性が証明されており、「運」は確率論が扱う事柄になっている。 世俗的なものの考えでは物の道理をよくわきまえ人情に通じ、確率的な危険性を適切に回避するなり他者の妨害を回避しながら、あるものごとを上手く成就させる才能と考えることもできる。但しこの視点はあくまで結果論による定義であり、運のよい人物が先験的に判別しうるか...
karasunice!にいいね! | 2011.05.11 Wed 02:47
karasunice!の39番目のからすは悪魔と戦っている 運には「運が良かった」などと過去の状況説明として用いられる場合と、「運の強い男」など個人の特性を説明するために用いる場合がある。「運」を用いた説明は好ましくない(妥当でない)と考える者もおり、「運」に関する信念の違いがおのおのの表現には反映されている。「運」を統制することができるかについての主観的な感覚にも個人差があり、合理的な努力の成果やポジティブシンキングの結果として運を掴まえる者もいる。一方でギャンブルのような...
karasunice!にいいね! | 2011.05.11 Wed 02:44
karasunice!の38番目のからすはペットにするのが難しい 動物に好奇心があるかどうかは、彼らに心があるかどうかと同様に難しい問題である。しかし、高等動物の研究家はそれがあると考えることが多い。例えば、多くのほ乳類や鳥類をそれらが来たことのない場所に持ち込んだ場合、まずその周囲の状況を確かめる行動を取る。これを探索行動と言うが、これを一種の好奇心の発露と見ることは可能である。また、動物の前に何か見たことのないものを見ると、まずは逃げるが、危険でないと判断すると、それを調...
karasunice!にいいね! | 2011.05.11 Wed 02:41
karasunice!の37番目のからすは好奇心旺盛である わからないものに対して、その理由や意味を知りたいと考えるのは、人間の根源的欲求であると思われる。その意味では、ワイドショーで芸能人の生活をほじくり回そうとすること、素粒子の行動を解き明かそうとすることに差異はないと考えられる。一応後者を知的好奇心として分け、前者は俗じみた行動であるのに対して後者を尊いとする判断はあるが、客観性には乏しいかもしれない。 目新しいものに出会ったとき生まれるその他の心情としては恐怖が挙げら...
karasunice!にいいね! | 2011.05.11 Wed 02:38
karasunice!の24番目のからすは法華経を読み上げた 『法華経』の第二章にあたる「方便品」において、「衆生を饒益にょうやくし安楽ならしめたもう所多き」、つまり全ての人々の真の幸福と安楽のために法華経は説かれたのだ、とされている。 別の言い方をすると、一切衆生の成仏が、仏がこの世に出現した最大で究極の目的である、としているのである。そして『法華経』の第十五章にあたる従地涌出品 じゅうじゆじゅっぽん には、釈迦如来が説法をしていたときに大地が割れ、そこから無数の菩薩が涌き...
karasunice! | 2011.05.11 Wed 01:37
karasunice!の23番目のからすは決して快楽主義ではない エピクロス派は「快楽を得ることが幸福であるとした」などとされ、快楽主義などと表現される。ただし、エピクロス自身が言っていたことは、現代人がつい思い描いてしまうような、単純に享楽を求めるような"快楽主義"ではない。 エピクロス自身は、快を「感覚的な快」と、「精神的な快」に分けて考えていた[3]。前者は生き物に共通の反応ではあるが、人間あるいは賢者にとっての幸福というのは、精神的な快であるとし、アタラクシアである、とし...
karasunice! | 2011.05.11 Wed 01:36
karasunice!の22番目のからすは幸福になりたがっている 人間は古来より幸福になるための方法に深い関心を寄せてきた。 幸福についての考察や、幸福であるためにはどのような生き方をすべきであるか、その方法論を提示した文章・書物は、「幸福論」(Eudaemonics)と呼ばれている。幸福を倫理の最高目的と考え、行為の基準を幸福におく説を幸福主義という。古典的にはアリストテレスが典型であり、近代哲学では功利主義がその典型である。 本記事ではまず、哲学者や思想家や宗教家などによって幸福に...
karasunice! | 2011.05.11 Wed 01:33
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