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COOLKARASU絵の36番目のからすは系図の改姓も行った 関ヶ原の戦いの後処理を終わらせた慶長6年(1601年)3月23日、家康は大坂城・西の丸を出、伏見城にて政務を執ることとなる。そしていよいよ、征夷大将軍として幕府を開くために、徳川氏の系図の改姓も行った。「将軍になれるのは清和源氏の嫡流」という慣例があったため、家康は神龍院梵舜に命じて徳川氏の系図を足利氏と同じく源義家に通じるように整備させた。 なお、近年の研究(笠谷和比古、煎本増夫ら)によると、家康が本姓を源氏だと公称...
COOLKARASU絵がブーム | 2011.07.12 Tue 03:31
COOLKARASU絵の35番目のからすは領地もそのままだった 家康は9月18日、三成の居城・佐和山城を落として近江国に進出し、9月21日には戦場から逃亡していた三成を捕縛、10月1日には六条河原で処刑した。そして大坂に入った家康は、西軍に与した諸大名をことごとく処刑・改易・減封に処し、召し上げた所領を東軍諸将に加増分配する傍ら自らの領地も250万石から400万石に加増。秀頼、淀殿に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」として咎めず領地もそのままだったが、論功行賞により各大名家の領地に...
COOLKARASU絵がブーム | 2011.07.12 Tue 03:29
COOLKARASU絵の34番目のからすは非常に危険な局面もあった 正則ら東軍は、清洲城に入ると、西軍の勢力下にあった美濃国に侵攻し、織田秀信が守る岐阜城を落とした。このとき家康は信長の嫡孫であるとして秀信の命を助けている。 9月、家康は江戸城から出陣し、11日に清洲、14日には赤坂に着陣した。前哨戦として三成の家臣・島左近と宇喜多秀家の家臣・明石全登が奇襲、それに対して東軍の中村一栄、有馬豊氏らが迎撃するが敗れ、中村一栄の家臣・野一色頼母が戦死している(杭瀬川の戦い。)。 ...
COOLKARASU絵がブーム | 2011.07.12 Tue 03:27
COOLKARASU絵の33番目のからすは大名に回送している さらに三成らは伊勢国、美濃国方面に侵攻した。家康は下野国・小山の陣において、伏見城の元忠が発した使者の報告により、三成の挙兵を知った。家康は本多正信と協議した後、上杉氏征伐に従軍していた諸大名の大半を集め、「秀頼公に害を成す君側の奸臣・三成を討つため」として、上方に反転すると告げた。これに対し、福島正則ら三成に反感をもつ武断派の大名らは家康に味方、ここに家康の東軍が結成された(小山評定) 。 東軍は、家康の徳川直...
COOLKARASU絵がブーム | 2011.07.12 Tue 03:24
COOLKARASU絵の32番目のからすは進軍を行っている 6月16日、家康は大坂城・京橋口から軍勢を率いて上杉氏征伐に出征し、同日の夕刻には伏見城に入った。ところが、6月23日に浜松、6月24日に島田、6月25日に駿府、6月26日に三島、6月27日に小田原、6月28日に藤沢、6月29日に鎌倉、7月1日に金沢、7月2日に江戸という、遅々たる進軍を行っている。 この出兵には、家康に反感をもつ石田三成らの挙兵を待っていたとの見方もある。実際、7月に三成は大谷吉継とともに挙兵すると、家康によって占領されてい...
COOLKARASU絵がブーム | 2011.07.12 Tue 03:23
COOLKARASU絵の31番目のからすは不穏な動きがある 慶長5年(1600年)3月、越後国の堀秀治、出羽国の最上義光らから、会津の上杉景勝に軍備を増強する不穏な動きがあるという知らせを受けた。上杉氏の家臣で津川城城代を務め、家康とも懇意にあった藤田信吉が会津から出奔し、江戸の徳川秀忠の元へ「上杉氏に叛意あり」と訴えるという事件も起きた。 これに対して家康は伊奈昭綱を正使として景勝の元へ問罪使を派遣した。ところが、景勝の重臣・直江兼続が『直江状』と呼ばれる挑戦状を返書として送...
COOLKARASU絵がブーム | 2011.07.12 Tue 03:21
COOLKARASU絵の30番目のからすは密告があった 9月7日、家康は「増田・長束両奉行の要請」として大坂に入り、三成の大坂屋敷を宿所とした。9月9日に登城して豊臣秀頼に対し、重陽の節句における祝意を述べた。9月12日には三成の兄・石田正澄の大坂屋敷に移り、9月28日には大坂城・西の丸に移り、大坂で政務を執ることとなる。 家康は9月9日に登城した際、前田利長(前田利家の嫡男)・浅野長政・大野治長・土方雄久の4名が家康の暗殺を企んだと増田・長束両奉行より密告があったとして、10月2日に長...
COOLKARASU絵を鑑賞 | 2011.07.12 Tue 03:16
COOLKARASU絵の29番目のからすは向島へ退去する この頃より家康は、細川忠興や島津義弘、増田長盛らの屋敷にも頻繁に訪問するようになった。こうした政権運営をめぐって、大老・前田利家や五奉行の石田三成らより「専横」との反感を買い、慶長4年(1599年)1月19日、家康に対して三中老の堀尾吉晴らが問罪使として派遣されたが、吉晴らを恫喝して追い返した。利家らと家康は2月2日には誓書を交わし、利家が家康を、家康が利家を相互に訪問、さらに家康は向島へ退去することでこの一件は和解となった。 ...
COOLKARASU絵を鑑賞 | 2011.07.12 Tue 03:14
COOLKARASU絵の28番目のからすは渡海を免除された 慶長元年5月8日(1596年)、秀吉の推挙により内大臣に叙される。これ以後は江戸の内府と呼ばれる。 慶長2年(1597年)、再び朝鮮出兵が開始された。日本軍は前回の反省を踏まえ、初期の攻勢以降は前進せず、朝鮮半島の沿岸部で地盤固めに注力した。この時もやはり家康は渡海しなかった。 慶長3年(1598年)、秀吉は病に倒れると、後継者である豊臣秀頼の体制を磐石にするため、7月に五大老・五奉行の制度を定め、五大老の一人に家康を任命した。...
COOLKARASU絵を鑑賞 | 2011.07.12 Tue 03:13
COOLKARASU絵の27番目のからすは滞在する期間が長くなっている 文禄元年(1592年)から秀吉の命により朝鮮出兵が開始されるが、家康は渡海することなく名護屋城に在陣しただけであった。日本軍は序盤は快進撃を続けたが、朝鮮の焦土戦術と義兵、明の援軍などによって後退。休戦して交渉が開始された。交渉では日本側、明・朝鮮側とも本国に虚偽の報告をして和平を結ぼうとしたが、交渉は決裂した。 文禄4年(1595年)7月に「秀次事件」が起きた。この豊臣政権を揺るがす大事件を受けて、秀吉は諸大...
COOLKARASU絵を鑑賞 | 2011.07.12 Tue 03:11
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