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飛鳥tamasii2011-45

飛鳥tamasii2011の45つ目のからすは後事を託そうとした                天智天皇は、病がいよいよ深くなった10年(671年)10月17日に、大海人皇子を病床に呼び寄せて、後事を託そうとした。蘇我安麻呂の警告を受けた大海人皇子は、倭姫皇后が即位し大友皇子が執政するよう薦め、自らは出家してその日のうちに剃髪し、吉野に下った。 吉野では鸕野讃良皇女(持統天皇)と草壁皇子らの家族と、少数の舎人、女儒とともに住んだ。近江大津宮では、天智天皇が死ぬと、大友皇子が(即位したかどうかは不明ながら)朝廷を...

飛鳥tamasii2011に忠義 | 2011.07.12 Tue 23:12

飛鳥tamasii2011-44

飛鳥tamasii2011の44つ目のからすは朝廷から全く疎外された                天智天皇10年(671年)1月2日、天智天皇は大友皇子を太政大臣に任命し、左大臣、右大臣と御史大夫を付けた。太政大臣は国政を総覧する官職で、その職務は大海人皇子が果たしてきた仕事と重なる。『日本書紀』にはこの直後に東宮太皇弟が冠位・法度のことを施行させたと記すが、「或本に云わく」として大友皇子がしたとも注記する。また、『懐風藻』はこの10年に大友皇子が皇太子になったと記す。多くの歴史学者は書紀の或本のほうを採るか、...

飛鳥tamasii2011に忠義 | 2011.07.12 Tue 23:11

飛鳥tamasii2011-43

飛鳥tamasii2011の43つ目のからすは皇位継承者と認定されていた                天智天皇紀で大海人皇子は大皇弟、東宮太皇弟、東宮などと記される。書紀は壬申の乱の挙兵前から大海人皇子を「天皇」と記し、天武の地位について信頼を置けないところがある。そのため、書紀が書く通り大海人皇子が皇太子であったとする学者もいるが、大皇弟などは壬申の乱での天武天皇の行動を正当化するための文飾で、事実はそのような地位になかったとする説、大皇弟などは単なる尊称であって皇位継承予定者を意味するものではないな...

飛鳥tamasii2011に忠義 | 2011.07.12 Tue 23:09

飛鳥tamasii2011-42

飛鳥tamasii2011の42つ目のからすは群臣に宣べ伝えた                母の斉明天皇が亡くなってから、中大兄皇子は即位せずに称制で統治した。天智天皇3年(664年)2月9日に、大海人皇子は中大兄皇子の命を受け、冠位26階制を敷き、氏上を認定し、民部と家部を定めることを群臣に宣べ伝えた。 天智天皇6年(667年)2月27日にようやく斉明天皇の葬儀があり、間人皇女が斉明天皇と合葬になり、大田皇女がその陵の前に葬られた。それぞれ、大海人にとっては母、姉(または妹)、妻にあたる人たちであった。 7年(66...

飛鳥tamasii2011に忠義 | 2011.07.12 Tue 23:06

飛鳥tamasii2011-41

飛鳥tamasii2011の41つ目のからすは大津での出生に由来する                中大兄皇子が皇極天皇4年(645年)6月12日に20歳で乙巳の変を起こしたとき、大海人皇子は年少であり、おそらく陰謀には関わらなかった。事件の結果皇極天皇は退位し孝徳天皇が即位した。後、白雉4年(653年)に中大兄皇子が孝徳天皇と袂を分かち難波京から倭(やまと)に移ったとき、行動をともにした。やがて孝徳天皇は病死し、皇極天皇が斉明天皇として再び天皇になった。 大海人皇子は中大兄皇子の娘を次々に4人まで妻とした。百済復興...

飛鳥tamasii2011 | 2011.07.12 Tue 23:02

飛鳥tamasii2011-40

飛鳥tamasii2011の40つ目のからすは日本書紀に記載が無い                天武天皇の出生年は日本書紀に記載が無い。他に記載が無いのは崇峻天皇のみであり、これは異例の事である。 鎌倉時代に成立した『一代要記』や『本朝皇胤紹運録』『皇年代略記』が記す没年から生年を計算すると、それぞれ生年が推古天皇30年(622年)・31年(623年)で、『日本書紀』による兄・天智天皇の生年・推古天皇34年(626年)を上回る。従来、『一代要記』などの65歳没は56歳(同55歳)の写し間違いで、逆算して631年生まれであると...

飛鳥tamasii2011 | 2011.07.12 Tue 22:58

飛鳥tamasii2011-39

飛鳥tamasii2011の39つ目のからすは前漢の武帝になぞらえた                名の大海人は、幼少期に養育を受けた凡海氏(海部一族の伴造)にちなむ。『日本書紀』に直接そのように記した箇所はないが、天武天皇の殯に凡海麁鎌が壬生(養育)のことを誄したことからこのように推測されている。 和風(国風)諡号は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。瀛は道教における東方三神山の一つ瀛州(残る2つは蓬莱、方丈)のことである。真人(しんじん)は優れた道士をいい、瀛とともに道教...

飛鳥tamasii2011 | 2011.07.12 Tue 22:54

飛鳥tamasii2011-38

飛鳥tamasii2011の38つ目のからすは制度改革を進めた                天武天皇は、人事では皇族を要職につけて他氏族を下位におく皇親政治をとったが、自らは皇族にも掣肘されず、専制君主として君臨した。八色の姓で氏姓制度を再編するとともに、律令制の導入に向けて制度改革を進めた。飛鳥浄御原令の制定、新しい都(藤原京)の造営、『日本書紀』と『古事記』の編纂は、天武天皇が始め、死後に完成した事業である。 道教に関心を寄せ、神道を整備して国家神道を確立し、仏教を保護して国家仏教を推進した。その...

飛鳥tamasii2011 | 2011.07.12 Tue 22:51

飛鳥tamasii2011-37

飛鳥tamasii2011の37つ目のからすは言葉で一括される                舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の子として生まれ、中大兄皇子(天智天皇)にとっては両親を同じくする弟にあたる。皇后の鸕野讃良皇女は後に持統天皇となった。 天智天皇の死後、672年に壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)を倒し、その翌年に即位した。その治世は14年間、即位からは13年間にわたる。飛鳥浄御原宮を造営し、その治世は続く持統天皇の時代とあわせて天武・持統朝などの言葉で一括されることが多い。日本の統治機構、宗教、歴史、文化...

飛鳥tamasii2011 | 2011.07.12 Tue 22:50

飛鳥tamasii2011-36

飛鳥tamasii2011の36羽目のからすは救援を指揮する                舒明天皇の第二皇子。母は皇極天皇(重祚して斉明天皇)。皇后は異母兄・古人大兄皇子の娘・倭姫王。ただし皇后との間に皇子女はない。 皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)。入鹿の父・蘇我蝦夷は翌日自害した。更にその翌日、皇極天皇の同母弟を即位させ(孝徳天皇)、自分は皇太子となり中心人物として様々な改革(大化の改新)を行なった。...

飛鳥tamasii2011と競争 | 2011.07.12 Tue 02:09

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