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超edokarasuの38番目のからすは家康に面会を求めた 天正18年(1590年)には上洛し織田信雄の娘で秀吉の養女・小姫(春昌院)と祝言を挙げたが、秀吉と信雄が仲違いして信雄が除封されたことにより離縁となる。文禄4年(1595年)には秀吉養女・江と再婚する[1] 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して、中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられ、9月10日に美濃の赤坂宿に到着する予定(福島家文書に「中納言、さだめて十日時分には其地まで参るべし」)だったが、途上...
超edokarasu | 2011.07.13 Wed 01:58
超edokarasuの37番目のからすは三河守護代をつとめたこともある 徳川家康の三男として遠江国浜松に生まれる。母は側室・西郷局。母の実家・西郷氏は、九州の菊池氏一族で、室町初期には三河守護代をつとめたこともある名家であり、当時も三河国の有力な国人であった。乳母・大姥局によって養育される。 同母弟に、関ヶ原の戦いで大活躍した家康の四男松平忠吉がいる。長兄・松平信康は秀忠の生まれた年に織田信長の命令で切腹。次兄・結城秀康は豊臣秀吉の養子に出され、のちに結城氏を継いだので、母親...
超edokarasu | 2011.07.13 Wed 01:56
超edokarasuの36番目のからすは相次いで勃発した 一方、信長の領土となっていた旧武田領の甲斐国と信濃国では大量の一揆が起こった。さらに、越後国の上杉氏、相模国の北条氏も旧武田領への侵攻の気配を見せた。旧武田領全土を委任されていた上野国の滝川一益は、旧武田領を治め始めてまだ3ヶ月であり、軍の編成が済んでなかったことや武田遺臣による一揆が相次いで勃発したため、滝川配下であった信濃国の森長可と毛利秀頼は領地を捨て機内へ敗走し、甲斐国の河尻秀隆は一揆勢に敗れ戦死するなど緊迫...
超edokarasuは最強 | 2011.07.12 Tue 02:51
超edokarasuの35番目のからすは討死している 天正10年(1582年)5月、駿河拝領の礼のため、降伏した穴山信君とともに信長の居城・安土城を訪れた。 6月2日、堺を遊覧中に京で本能寺の変が起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数であったため極めて危険な状態(結果的に穴山信君は討死している。)となり、一時は狼狽して信長の後を追おうとするほどであった。しかし本多忠勝に説得されて翻意し、服部半蔵の進言を受け、伊賀国の険しい山道を越え加太越を経て伊勢国から海路で三河国に辛う...
超edokarasuは最強 | 2011.07.12 Tue 02:49
超edokarasuの34番目のからすは帰還している 長篠の戦い以降に信長と武田氏は大規模な抗争をせず、勝頼は信長との和睦(甲江和与)を模索しているが信長はこれを封殺し、天正10年(1582年)2月に信長は家康と共同で武田領国へ本格的侵攻を開始した。織田軍の信濃方面からの侵攻に呼応して徳川軍も駿河方面から侵攻し、武田方の蘆田信蕃(依田信蕃)の田中城を成瀬正一らの説得により大久保忠世が引き取り、さらに甲斐南部の河内領・駿河江尻領主の穴山信君(梅雪)を調略によって離反させるなどして駿...
超edokarasuは最強 | 2011.07.12 Tue 02:48
超edokarasuの33番目のからすは家康と同盟を結ぶ なお、家康は長篠城主の奥平貞昌(信長の偏諱を賜り信昌と改名)の戦功に対する褒美として、名刀・大般若長光を授けて賞した。そのうえ、翌年には長女・亀姫を正室とさせている。 天正6年、越後上杉家で御館の乱が発生し、武田勝頼は北信に出兵し乱に介入するが、勝頼と結んだ上杉景勝が乱を制したことにより武田・北条間の甲相同盟が破綻し、翌天正7年(1579年)9月に北条氏は家康と同盟を結ぶ。 また、同じころには信長から正室・築山殿と嫡男...
超edokarasuは最強 | 2011.07.12 Tue 02:46
超edokarasuの32番目のからすは駿河領国までを脅かした 武田軍の突然の撤退は、家康に信玄死去の疑念を抱かせた。その生死を確認するため家康は武田領である駿河国の岡部に放火し、三河国では長篠城を攻めるなどしている。そして、これら一連の行動で武田軍の抵抗がほとんどなかったことから信玄の死を確信した家康は、武田氏に与していた奥三河の豪族で山家三方衆の一角である奥平貞能・貞昌親子を調略し、再属させた。奪回した長篠城には奥平軍を配し、武田軍の再侵攻に備えさせた。 武田氏の西上...
超edokarasuは最強 | 2011.07.12 Tue 02:45
超edokarasuの31番目のからすは信玄の死去により撤兵した 夏目吉信に代表される身代わりに助けられて命からがら浜松城に逃げ帰った家康自身も、恐怖のあまり馬上で脱糞したとされている。武田勢に浜松城まで追撃されたが、帰城してからの家康は冷静さを取り戻し「空城計」を用いることによって武田軍にそれ以上の追撃を断念させたとされている。なお、このときの家康の苦渋に満ちた表情を写した肖像画(しかみ像)が残っており、これは自身の戒めのために描かせ常に傍らに置き続けたと伝えられる(三方...
超edokarasuは最強 | 2011.07.12 Tue 02:44
超edokarasuの30番目のからすは武田軍の動向を探る 遠江国に侵攻してきた武田軍本隊と戦うため、天竜川を渡って見附にまで進出。浜松の北方を固める要衝・二俣城を取られることを避けたい家康が、ひとまず武田軍の動向を探るために威力偵察に出たところを武田軍と遭遇し、一言坂で敗走する(一言坂の戦い)。遠江方面の武田軍本隊と同時に武田軍別働隊が侵攻する三河方面への防備を充分に固められないばかりか、この戦いを機に徳川軍の劣勢は確定してしまう。そして12月、二俣城は落城した(二俣城の戦...
超edokarasuと変化 | 2011.07.12 Tue 02:40
超edokarasuの29番目のからすは敵対関係で推移する 武田氏との今川領国分割に関して、徳川氏では大井川を境に東の駿河国を武田領、西の遠江国を徳川領とする協定を結んでいたとされるが(『三河物語』)、永禄11年(1569年)には信濃国から武田家臣・秋山虎繁(信友)に遠江国への侵攻を受け、同年5月に家康は今川氏真と和睦すると北条氏康の協力を得て武田軍を退けたが、武田氏とは手切となった。 家康は北条氏と協調して武田領を攻撃していたが、武田氏は元亀2年(1571年)末に北条氏との甲相同盟...
超edokarasuと変化 | 2011.07.12 Tue 02:39
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