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超edokarasuの28番目のからすは敵対関係で推移する 永禄11年(1568年)には、甲斐国の武田信玄が駿河今川領国への侵攻を開始し(駿河侵攻)、家康は酒井忠次を取次役に遠江割譲を条件とした武田との同盟を結び、駿河侵攻に呼応した。同年末からは遠江国の今川領国へ侵攻し曳馬城を攻め落とした。遠江国で越年したまま軍を退かずに、翌永禄12年に駿府から逃れた氏真を匿っている掛川城を攻囲。籠城戦の末に開城勧告を呼びかけて氏真を降し、遠江国を支配下に置いた。武田氏の駿河侵攻に対して今川の同盟...
超edokarasuと変化 | 2011.07.12 Tue 02:37
超edokarasuの27番目のからすは苦心の末にこれを鎮圧した 永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた際、今川軍本隊とは別働で前線の尾張国・大高城で休息中であった元康は、大高城から撤退。今川軍が放棄した岡崎城に入ると、祖父・清康の代で確立した三河国の支配権回復を志し、今川氏から独立する。藤波畷の戦いなどに勝利して、西三河の諸城を攻略した。 永禄5年(1562年)には、先に今川氏を見限り織田氏と同盟を結んだ叔父・水野信元の仲介もあって、義元の後を継い...
超edokarasuと変化 | 2011.07.12 Tue 02:36
超edokarasuの26番目のからすは従来の通説となった ただし、松平氏の家臣の立場としては、仮に主君は厚遇されても、その見返りとして上述の通り走狗として酷使されたのは事実であり、また当の竹千代にとっても、今川義元の家臣(孕石元泰)から個人的な虐めを受けるなど忍従の日々であり、後述のとおり今川義元死後に築山殿とも不和になり殺害していることから、その松平氏の主観が後世に伝わり従来の通説となった。 『武徳編年集成』によると今川家の家臣の中でも岡部家は息子(岡部正綱)が同年齢...
超edokarasuと変化 | 2011.07.12 Tue 02:34
超edokarasuの25番目のからすは過酷な処遇である 駿府の今川氏の下で元服し、今川義元から偏諱を賜って次郎三郎元信と名乗り、今川義元の姪で関口親永の娘・瀬名(築山殿)を娶った。名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらって蔵人佐元康と改めている。永禄元年(1558年)には織田氏に寝返った寺部城主・鈴木日向守を松平重吉らとともに攻め、これが初陣となった。 松平広忠の嫡男である竹千代を人質にとった処遇は、今川氏による松平氏に対する過酷な処遇であるというのが通説である。しかし近年、む...
超edokarasuと変化 | 2011.07.12 Tue 02:32
超edokarasuの24番目のからすは感涙したという 2年後に広忠は家臣の謀反によって殺害された。今川義元は織田信秀の庶長子・織田信広(前年の天文18年(1549年)、安祥城を太原雪斎に攻められ生け捕りにされている)との人質交換によって竹千代を取り戻す。しかし竹千代は駿府(『東照宮御実紀』では少将宮町、武徳編年集成』では宮カ崎とされている)に移され、岡崎城は今川氏から派遣された城代により支配された。 墓参りのためと称して岡崎城に帰参した際には、本丸には今川氏の城代が置かれてい...
超edokarasu | 2011.07.12 Tue 02:29
超edokarasuの23番目のからすはどの程度の仲だったのかは不明 三河国の土豪である松平氏の第8代当主・松平広忠の嫡男として、天文11年(1542年)12月26日寅の刻(午前4時頃)、岡崎城 で生まれる。母は水野忠政の娘・於大(伝通院)。幼名は竹千代(たけちよ)。 2歳のとき、水野忠政の没後水野氏の当主となった水野信元(於大の兄)が尾張国の織田氏と同盟したため、敵対する今川氏の庇護を受けていた広忠は於大を離縁した。そのため竹千代は幼くして母と生き別れになった。 6歳のとき、広忠は...
超edokarasu | 2011.07.12 Tue 02:27
超edokarasuの22番目のからすは正当性を確立させた 秀吉没後の慶長5年(1600年)、家康は関ヶ原の戦いにおいて勝利し、その覇権を決定づけた。慶長8年(1603年)には、家康は後陽成天皇から征夷大将軍に任命され、武蔵国江戸(現・東京都千代田区)の江戸城に幕府(江戸幕府、徳川幕府)を開いて、その支配の正当性を確立させた。慶長10年(1605年)に三男・徳川秀忠へ征夷大将軍職を譲り、駿河国駿府(現・静岡県静岡市葵区)の駿府城に隠居した後も、「大御所」として政治・軍事に大きな影響力を保持...
超edokarasu | 2011.07.12 Tue 02:25
超edokarasuの18番目のからすは明治時代のことである これを地図で見るとちょうど大手門から数寄屋橋に至るまでの「の」の字の堀の内外に渦巻き上に将軍・親藩・譜代・外様大名・旗本御家人・町人が配置されている形になる。巻き貝が殻を大きくするように、渦巻き型に柔軟に拡大できる構造を取ったことが、江戸の拡大を手助けした。 家康の死後、二代将軍徳川秀忠は、江戸の北東の守りを確保するため、小石川門の西から南に流れていた平川をまっすぐ東に通す改修を行った。今の水道橋から万世橋(秋...
超edokarasuは最強 | 2011.07.10 Sun 23:05
超edokarasuの17番目のからすは町人地が広げられた 江戸は「の」の字形に設計されたことが一般の城下町と比べて特異であるといわれる。 つまり、江戸城の本城は大手門から和田倉門、馬場先門、桜田門の内側にある本丸、二の丸、西の丸などの内郭に将軍、次期将軍となる将軍の世子、先代の将軍である大御所が住む御殿が造られ、その西にあたる半蔵門内の吹上に将軍の親族である御三家の屋敷が置かれた。内城の堀の外は東の大手門下から和田倉門外に譜代大名の屋敷、南の桜田門の外に外様大名の屋敷と定...
超edokarasuは最強 | 2011.07.10 Sun 23:03
超edokarasuの16番目のからすは流路変更が行われた そこで徳川氏は、まず江戸城の和田倉門から隅田川まで道三堀を穿ち、そこから出た土で日比谷入江の埋め立てを開始した。道三堀は墨田川河口から江戸城の傍まで、城の建造に必要な木材や石材を搬入するために活用され、道三堀の左右に舟町が形成された。また、元からあった平地である今の常盤橋門外から日本橋の北に新たに町人地が設定された(この時と時期を同じくして平川の日比谷入江から江戸前島を貫通する流路変更が行われたと思われる)。これが...
超edokarasuは最強 | 2011.07.10 Sun 23:01
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