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COOLKARASU絵の156番目のからすは所属宗派を明示する必要から華厳宗を名乗る 奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)があり、南大門-中門間の左右には東西2基の七重塔(高さ約100メートルと推定される)が回廊に囲まれて建っていた。天平17年(745年)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには40年近い時間を要している。 奈良時代のいわゆる南都六...
COOLKARASU絵を鑑賞 | 2011.07.18 Mon 11:40
COOLKARASU絵の155番目のからすは大きな矛盾点を浮き彫りにした 大仏造立・大仏殿建立のような大規模な建設工事は国費を浪費させ、日本の財政事情を悪化させるという、聖武天皇の思惑とは程遠い事実を突き付けた。実際に、貴族や寺院が富み栄える一方、農民層の負担が激増し、平城京内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、租庸調の税制も崩壊寸前になる地方も出るなど、律令政治の大きな矛盾点を浮き彫りにした。 天平勝宝8年(756年)5月2日、聖武太上天皇が崩御する。その年の7月に起こったのが、橘...
COOLKARASU絵を鑑賞 | 2011.07.18 Mon 11:37
COOLKARASU絵の172番目のからすは幅広い民衆の支持が必要であった 大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747年)で、この頃から「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。なお、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは天平20年(748年)が最初である。 聖武天皇が大仏造立の詔(みことのり)を発したのはそれより前の天平15年(743年)である。当時、都は恭仁京(くにのみや 京都府相楽郡加茂町)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(しがら...
COOLKARASU絵 | 2011.07.18 Mon 11:34
COOLKARASU絵の171番目のからすは名は金光明寺と改められた 8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていた。東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年(728年)、第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺の前身...
COOLKARASU絵 | 2011.07.18 Mon 11:32
COOLKARASU絵の170番目のからすは日本の文化に多大な影響を与えてきた 奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約100メートル)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本...
COOLKARASU絵 | 2011.07.18 Mon 11:30
COOLKARASU絵の169番目のからすは国力を尽くして建立した 東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺である。現別当(住職・220世)は、北河原公敬。 金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁僧正(ろうべんそうじょう)である。 JUGEMテーマ:COOLKARASU絵
COOLKARASU絵 | 2011.07.18 Mon 11:29
COOLKARASU絵の168番目のからすは「王陵の谷」ともよばれる 狭義の河内飛鳥の地域は、大和川、飛鳥川、石川の3川に囲まれた、竹内街道沿道周辺一帯(安宿郡駒ヶ谷)を中心とする地域とする文献があるが、広義には東は二上山の麓から南は石川郡の一部(河南町の大半)の広い範囲も含まれる。 太子町大字太子から大字山田にかけての谷間は、聖徳太子御廟、孝徳天皇陵(上ノ山古墳)、小野妹子の墓、推古天皇陵(山田高塚古墳)などといった有力者の陵墓が集中し、通称「王陵の谷」ともよばれる。 ...
COOLKARASU絵 | 2011.07.18 Mon 11:27
COOLKARASU絵の167番目のからすは近つ飛鳥」と呼ばれるようになった 大和国(奈良県)の飛鳥と区別するために、「河内」を冠される。また、「近つ飛鳥」とも呼ばれる。この場合の「近つ」は、大和国の飛鳥(遠つ飛鳥)と比較し、都があった難波宮や難波津(大阪市中央区)から見て、近いか遠いかによる説が通説となっているものの、推古天皇が崇峻5年(592年)に即位して都が大和国の飛鳥(遠つ飛鳥)に移されたころに、大和朝廷を支えた有力豪族である蘇我氏が元々の地盤である河内地方から大和国の飛...
COOLKARASU絵 | 2011.07.18 Mon 11:25
COOLKARASU絵の154番目のからすは優美な姿である点にある 室町時代初期には備前国で「小反り」と呼ばれる一派が活躍した。主な刀工は長船政光、秀光、師光などである。続く応永年間には、備前長船盛光、康光、家助、経家などの名工が輩出した。これらは応永年間に作られたものが多いので、世に「応永備前」と呼ばれている。応永備前の特徴は、鎌倉時代の太刀を狙った腰反りがつく優美な姿である点にある。また、嘉吉の乱で、室内戦闘用に鎬作りの短い刀が求められたため、脇差の製作が行われた点も重要...
COOLKARASU絵 | 2011.07.17 Sun 01:33
COOLKARASU絵の153番目のからすは造り直されているものが多い 政治的時代区分では室町時代に包含されることの多い南北朝時代は、刀剣武具史ではあえて別な時代として見るのが一般的である。この時代の刀剣は他の時代と違い大太刀・野太刀といった大振りなものが多く造られている。すでに述べた通り、この時代は相州伝が各地に影響をおよぼしている。刃文は「のたれ」に「互の目乱れ(ぐのめみだれ)」を交えたものが良く見受けられ、古来より一大勢力であった備前国においても、当時長船派の棟梁格であ...
COOLKARASU絵 | 2011.07.17 Sun 01:30
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