JUGEMテーマ:大河ドラマ 今日は時代を遡りますが、吉田松陰が生まれた天保期。 この時代は、百姓一揆が最も多発した時期で、長州藩は中でも、発生件数が多い藩だったといいます。天保2年には防長大一揆が起こり、周防・長門の農民10万名が参加し、紙・蝋などの藩専売廃止や年貢減免などを要求しました。 財政破たんに政治機能の麻痺など、長州藩が受けた打撃は大きく、村田清風による藩政改革のきっかけとなりました。 この清風による藩政改革によって、長州藩は財政再建に成功したといいます。 萩市平安古町に村田清風別宅...
大河ドラマを追いかけて | 2015.10.16 Fri 21:25
JUGEMテーマ:大河ドラマ 毛利元徳は、明治時代に、鎌倉市材木座に別邸を建てました。 明治26年(1893年)4月には英照皇太后の行啓があったそうです。 大正10(1921)年、別邸とともに毛利家萩別邸として萩市東田町に移築され、現在は、昭和49年(1974年)年に萩市堀内に移築されたこの表門のみが残っています。 なお、現在は旧毛利家別邸表門は、萩セミナーハウスの表門となっています。 桁行10.9メートル、梁間3.8メートル、棟高5.2メートル。 屋根の両端には鯱の原型と言われる鴟尾(しび)を乗せた桟瓦葺寄棟造...
大河ドラマ「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて | 2015.10.16 Fri 00:51
JUGEMテーマ:大河ドラマ 萩市北古萩町の海潮寺。 本堂は、藩校明倫館の遺構である聖廟を明治8(1875)年に移築し、現在もそのまま使われています。 海潮寺には、長井雅楽の墓があります。 長井雅楽時庸の墓 航海遠略策を説き、これが藩是として認められ、公武間を周旋しましたが、藩論が尊攘に転ずる中で、久坂玄瑞や木戸孝允ら尊王攘夷派により、「航海遠略策」に朝廷を誹謗する文言があると弾劾され失脚。藩命により自刃しました。 また、萩の士族救済のために、夏みかん栽培を奨励した小幡高政...
大河ドラマを追いかけて | 2015.10.15 Thu 23:35
JUGEMテーマ:大河ドラマ 縁切り祈願で有名な菊野大明神を祀る京都の法雲寺。 久坂玄瑞は、文久2年(1862)に上京し、藩論で対立していた 長井雅楽弾劾を試みましたが、この法雲寺で謹慎させられます。 この謹慎中に玄瑞が書き上げたのが、久坂は時勢論「解腕痴言」「廻瀾條議」を書き上げ、後に毛利敬親に認められ、長井雅楽を失脚に追い込むことになりました。 ここから少し南に下ったところに、当時の長州藩邸(現・京都ホテルオークラ)があります。
大河ドラマを追いかけて | 2015.10.15 Thu 23:25
JUGEMテーマ:大河ドラマ 1863年(文久3)藩主・毛利敬親は、萩から山口へ拠点を移し、中河原御茶屋で政務を執っていましたが、今の県庁の位置に藩庁の移転を計画し、翌年の元治元年(1864)から御屋形とよばれる居館をここに築き始め、慶応3年(1867)に竣工しました。 幕府に対しては、「山口の政庁は城ではない」と伝えてはいましたが、実際は、天然の要塞となる山に囲まれ、砲台や水濠などを備えた城郭で、当時としては最先端の西洋式八稜城郭でした。 坂本龍馬が、西郷隆盛との面談が失敗して怒って帰った桂小五郎を呼び出し...
大河ドラマを追いかけて | 2015.10.15 Thu 11:51
JUGEMテーマ:大河ドラマ 前橋城は、群馬県の前橋台地北東縁に築かれた平城で、古くは厩橋城(まやばしじょう)と呼ばれ、また関東七名城の一つに数えられました。 明治9年(1876)熊谷県から群馬県になった時、県庁は高崎に置かれましたが、旧高崎城に、陸軍省の兵営があり、手狭になったため、楫取素彦は、県庁を前橋に移しました。 本丸跡地には、群馬県庁本庁舎、二の丸跡地には前橋市役所、三の丸跡地は前橋地方裁判所、前橋公園となり、遺構として、土塁、車橋門跡などが残されています。 ...
大河ドラマ「花燃ゆ」「軍師官兵衛」の舞台を訪ねて | 2015.10.14 Wed 11:00
JUGEMテーマ:大河ドラマ 前橋城は、群馬県の前橋台地北東縁に築かれた平城で、古くは厩橋城(まやばしじょう)と呼ばれ、また関東七名城の一つに数えられました。 明治9年(1876)熊谷県から群馬県になった時、県庁は高崎に置かれましたが、旧高崎城に、陸軍省の兵営があり、手狭になったため、楫取素彦は、県庁を前橋に移しました。 本丸跡地には、群馬県庁本庁舎、二の丸跡地には前橋市役所、三の丸跡地は前橋地方裁判所、前橋公園となり、遺構として、土塁、車橋門跡などが残されています。 ...
大河ドラマを追いかけて | 2015.10.14 Wed 10:54
JUGEMテーマ:大河ドラマ 三田尻は、萩城下唐樋から三田尻御茶屋まで続く萩往還の終点であり、大名の参勤交代の道として整備され、多くの人々に利用されました。 三田尻御茶屋(みたじりおちゃや)は、江戸時代、承応3年(1654)萩藩2代藩主・毛利綱広によって建てられた長州藩の公館で、藩主の参勤交代や領内巡視時の休憩、また迎賓に使われていました。 7代藩主の重就は、家督を譲って隠居した翌年の1783年(天明3年)に大規模な改築を行い、大観楼などの建設を行いました。改修後に重就は三田尻御茶屋へ移住して、晩年の6...
大河ドラマを追いかけて | 2015.10.13 Tue 11:55
JUGEMテーマ:大河ドラマ 八月十八日の政変により、京を追われることになった三条実美をはじめとする尊王攘夷派の7人の公家らは、京都の妙法院に集結した後、兵庫津を経て、海路で長州藩の三田尻港(山口県防府市)を目指したのですが、途上悪天候のため、3隻のうち2隻が徳山藩の徳山港(山口県周南市)に上陸し、ここから陸路、三田尻に向かうことに。 七卿らを兵庫まで警護した責任者は長州藩士、益田親施(ますだちかのぶ)でした。親施は、益田家第33代当主、長州藩永代家老で、益田右衛門介として知られています。 1863年...
大河ドラマを追いかけて | 2015.10.13 Tue 11:42
JUGEMテーマ:大河ドラマ 京都市東山区の妙法院は、文久3年(1863年)八月十八日の政変によって、三条実美ら尊皇攘夷派の公卿7人が京都から追放された「七卿落ち」の舞台ともなっています。 大玄関 妙法院の宸殿に集合した長州藩士と三条実美ら七人の公卿は、話し合いの結果、長州に落ち延びて再起を図ることを決断。 宸殿 久坂玄瑞が、その時の切ない心情を、後に「七卿都落舞歌」と呼ばれる歌に籠めたといいます。 「久坂玄瑞義助七卿落舞歌」 世は刈り菰と乱れつつ 茜さす陽のいと暗く ...
大河ドラマを追いかけて | 2015.10.13 Tue 11:31
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