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JUGEMテーマ:千葉 市原市菊間 これは塚? 菊間の北野天神山古墳〜東関山古墳を経て谷を下り すると塚らしきものが 古墳であろうか? 裏側に回ると、石碑が倒れたままに 「富岳三柱之神」 信奉する方々がいなくなった? おそらく、石碑はこの塚の上に建てられていたのであろう。 では、この塚は近代・現代に築かれたものか? あるいは、古墳を利用し、その上に石...
東いちはらエコミュージアム[BLOG 文化歴史] | 2021.03.19 Fri 16:14
JUGEMテーマ:千葉 市原市菊間 北野天神山(権現山)古墳 市原市は、ワンダーランド! 菊間の丘陵地帯に入ると、里山の風景が展開 曲がりくねった道を歩けば、谷に下り丘に登り 道に迷う楽しさ! 鶯の声に導かれ、北野天神山古墳や東関山古墳へ! 村田川を溯り市原市水再生センターを過ぎたところで 一本目の道を、水再生センターを回り込むように丘の上に登れば菊間天神山古墳 二本目の道を、車を通すために無理やり造った切通しを登れば北野天神山古墳や東関山古...
東いちはらエコミュージアム[BLOG 文化歴史] | 2021.03.19 Fri 10:22
JUGEMテーマ:千葉 市原市大厩 駒形神社狛犬 参照:『市原の狛犬』(市原市教育委員会編) 市原市内最古 奉建 御神前 氏子中 元文五庚申年正月吉日 (以上、『市原の狛犬』) 江戸文化が飛躍的に伸びた元禄時代(1688-1704)を経て、狛犬の姿も江戸の「粋」を纏うようになった? 写実性を重んじながらも、神及び郷村の守護神としての厳かさ、そして江戸の華やかさを身に纏った姿が凛々しい 眼を大きく開き首を微妙に傾けるこの表情は、...
東いちはらエコミュージアム[BLOG 文化歴史] | 2021.03.11 Thu 09:48
JUGEMテーマ:千葉 市原市大厩 駒形神社 「大厩 OOMAYA」「駒形神社」などの名称から馬との関連が考えられる。 大厩 駒形神社 じつに興味深い神社。 養老川流域の「前広神社」「神代神社」「武市神社」 養老川河口「稲荷神社」 菊間の若宮八幡宮 姉崎神社 国分寺 惣社 などを視野に入れて、考えてみるべき神社なのであろう。 神社に至る旧道が大きく変わっていないことも魅力の一つ この道は縄文・弥生時代から? 駒形神社に至る旧道 ...
東いちはらエコミュージアム[BLOG 文化歴史] | 2021.03.10 Wed 10:58
JUGEMテーマ:千葉 市原市岩崎 ここに陸終わり、海始まる! という地 昭和40年代の土地整備事業で近代的な工業団地などに変貌した。 昔は、「暴れ川」であった養老川の河口に堆積した土砂が堆積し、葦の茂る荒れ地であったが江戸時代に開発が進んだ。 江戸期の土地開発の名残が、市原市臨海公園第二庭球場? ここはかつて築堤であったか その内側(西岩崎1丁目)に、稲荷社(?)がある 駐車場に...
東いちはらエコミュージアム[BLOG 文化歴史] | 2021.03.05 Fri 11:08
JUGEMテーマ:千葉 市原市松ヶ島緑地 喜兵衛新田堤 喜兵衛新田の開拓にあたって、 ・元々は養老川の砂州という地質 ・水の枯渇による既存の田畑との「水争い」 ・集落から田畑までの距離 など、悪い条件が重なり、結局は近隣の村に権利を叩き売った、というのが実情ではなかったか? あるいは、現地視察をした小折村喜兵衛はそのような実情を当初から見抜き、養老川水運の権益拡充のために江戸幕府から耕地開発を求められていた困っていた藩に貸を作ったか? いず...
東いちはらエコミュージアム[BLOG 文化歴史] | 2021.03.03 Wed 10:40
JUGEMテーマ:千葉 養老川東岸 五井川岸稲荷神社境内 浅間神社 江戸湾を航行してきた船が、上総の養老川に到着。 そのときのアテ(ランドマーク)になったのが、東岸と左岸の稲荷神社 とくに、汐待や風待ちをして夕刻を過ぎてしまったときに稲荷神社の灯篭は座標を確認するときの大きな目標になったであろう。 とくに東岸の稲荷神社は厳島神社の御神木ともにおおっく灯された篝火によって接岸する岸を確認したのではなかったか。 その川岸稲荷神社には富士浅間神社が勧請されている。 &n...
東いちはらエコミュージアム[BLOG 文化歴史] | 2021.02.28 Sun 14:00
JUGEMテーマ:千葉 養老川河口の新田開発−喜兵衛新田− 暴れ川であった養老川。 とりわけ、安須より下流は平地になるため大水のたびに流路が変わり、流域住民の苦労はいかほどであったか。 [以下、青柳至彦『いちはら 歴史の散歩道』第103話 旧・喜兵衛新田の由来、pp.102を参照) 250年ほど前には松ヶ島ち出津の間を枝流がとおり、しだいに流砂が堆積し現在の青柳北のあたりには洲が広がっていった。 天保7年(1836)、小折村の喜兵衛が、この葦の茂る荒れた土地の開発を藩に申し出て ...
東いちはらエコミュージアム[BLOG 文化歴史] | 2021.02.27 Sat 11:02
JUGEMテーマ:千葉 市原市 養老川河口西岸 玉前稲荷神社 養老川河口には、右岸左岸に稲荷神社(3社)と厳島神社(2社)が建っている。 養老川東岸には、川岸稲荷神社と厳島神社が建っている。 川岸稲荷神社は、享保十三年(1728)に有馬家代官であった粟原市之右ェ門が湊新田(今の川岸)に勧請。 江戸御上館の稲荷と同号の幸稲荷・冨貴稲荷とよばれた。 (市原市五井 大宮神社HPより) 有馬家は北筑後久留米を居城とし、江戸上屋敷は現在の三田一丁目、増上寺の南...
東いちはらエコミュージアム[BLOG 文化歴史] | 2021.02.25 Thu 15:18
JUGEMテーマ:千葉 五井堤防路 桜の咲く道をのんびり 青空 春の風 桜 長閑な川の風景であるが、養老川は大水のたびに流路を大きく変える川でもあった。 明暦年間(1655〜1657)には、五井西岸で西方向へ分流した(『市原市史』別巻pp.662)。 松ヶ島や玉前には川筋で生きる人々が生活していた。 そこらあたりは、今でも家の基礎部分を少し上げている。 分流で切り離された海のほうの砂州には、よしずを立てかけただけの簡素な小屋掛けした水売りや魚介類の煮...
東いちはらエコミュージアム[BLOG 文化歴史] | 2021.02.20 Sat 09:47
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