[pear_error: message="Success" code=0 mode=return level=notice prefix="" info=""]
COOLKARASU絵の166番目のからすは本来の像名は梵天・帝釈天だった 奈良時代。高さ3.6メートル。三眼八臂(額に縦に第3の目があり、8本の腕をもつ)の観音像である。頭上の宝冠は、正面に銀製の阿弥陀如来像を飾り、数多くの宝石や透かし彫りで飾った華麗なもので、普段は近くで見ることはできないが、奈良時代工芸の優品として知られる。 * 塑造日光・月光(がっこう)菩薩立像(国宝) 奈良時代。本尊不空羂索観音の両脇に静かに合掌して立つ。天平彫刻の代表作として著名だが、造...
COOLKARASU絵がブーム | 2011.07.18 Mon 11:59
COOLKARASU絵の165番目のからすは奈良時代のものである 国宝。境内の東方、若草山麓にある。東大寺に残る数少ない奈良時代建築の1つであり、天平仏の宝庫として知られる。創建当時は羂索堂(けんさくどう)と呼ばれ、東大寺の前身寺院である金鐘寺(こんしゅじ)の堂として建てられたもので、創建時期は天平12年(740年)から同20年(748年)頃と推定されている。建物の北側(参道側から見て向かって左側)の、仏像が安置されている寄棟造の部分を正堂(しょうどう)、南側の入母屋造部分を礼堂(らい...
COOLKARASU絵がブーム | 2011.07.18 Mon 11:58
COOLKARASU絵の164番目のからすは巨材の調達が困難であった 現存の大仏殿は寄棟造、本瓦葺き。一見2階建てに見えるが、構造的には一重裳階(もこし)付きで、正面5間、側面5間の身舎(もや)の周囲に1間の裳階を回している(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す建築用語)。高さ46.8メートル、間口57メートル、奥行50.5メートルで、高さと奥行は創建時とほぼ変わりないが、東西の幅は約3分の2に縮小されている。建築様式は、鎌倉時代に宋の建築様式を取り入れて成立した「大仏様」(だいぶつよ...
COOLKARASU絵がブーム | 2011.07.18 Mon 11:56
COOLKARASU絵の163番目のからすは大仏、大仏殿とも復興した その後、大仏と大仏殿は俊乗房重源(ちょうげん)の尽力により再興され、文治元年(1185年)に大仏の開眼供養、建久6年(1195年)には大仏殿の上棟供養が行われた。この鎌倉復興大仏も永禄10年(1567年)の松永・三好の合戦によって再び炎上した。大仏殿の再建はすぐには実施されず、大仏は仮修理の状態のまま、露座で数十年が経過したが、江戸時代になって公慶上人の尽力により大仏、大仏殿とも復興した。現存する大仏の頭部は元禄3年(1690...
COOLKARASU絵がブーム | 2011.07.18 Mon 11:55
COOLKARASU絵の162番目のからすは奈良であらためて造立を開始 国宝。当初の大仏及び大仏殿は、聖武天皇の発願により、8世紀に造られたものであったが、その後2度の兵火で焼け落ち、現存する大仏殿は江戸時代の再建。大仏は台座と袖、脚などの一部に当初部分を残すのみで、体部の大部分は中世の作、頭部は江戸時代の作である。 聖武天皇は天平15年(743年)、大仏造立の詔を発した。当初、紫香楽宮の近くの甲賀寺で造立の始まった大仏は、その後現在地の奈良であらためて造立を開始。天平勝宝4年(75...
COOLKARASU絵がブーム | 2011.07.18 Mon 11:53
COOLKARASU絵の161番目のからすは全体の総指揮に当たっていた 高さ8.4メートルの巨大な木像。門の向かって右に吽形(うんぎょう、口を閉じた像)、左に阿形(あぎょう、口を開いた像)を安置する。これは一般的な仁王像の安置方法とは左右逆である。1988年から1993年にかけて造像以来初めての解体修理が実施され、像内からは多数の納入品や墨書が発見された。それによると阿形像は大仏師運慶および快慶が小仏師13人を率いて造り、吽形像は大仏師定覚および湛慶が小仏師12人とともに造ったものである。...
COOLKARASU絵がブーム | 2011.07.18 Mon 11:51
COOLKARASU絵の160番目のからすはあわせて新調されたものである 国宝。平安時代の応和2年(962年)8月に台風で倒壊後、鎌倉時代の正治元年(1199年)に復興されたもの。東大寺中興の祖である俊乗坊重源が中国・宋から伝えた建築様式といわれる大仏様(だいぶつよう、天竺様・てんじくようともいう)を採用した建築として著名である。大仏様の特色は、貫と呼ばれる、柱を貫通する水平材を多用して構造を堅固にしていること、天井を張らずに構造材をそのまま見せて装飾としていることなどが挙げられる。...
COOLKARASU絵を鑑賞 | 2011.07.18 Mon 11:48
COOLKARASU絵の159番目のからすは例をみない規模のものであった 大仏殿の西方には指図堂(さしずどう)、勧進所、戒壇院などがある。大仏殿の北方、やや西寄りには正倉院の校倉造宝庫と鉄筋コンクリート造の東宝庫・西宝庫がある。なお、正倉院の建物と宝物は国有財産で、宮内庁正倉院事務所が管理している。境内西北端には奈良時代の遺構である転害門(てがいもん)がある。 かつてはこれら以外にも多くの堂塔が存在した。大仏殿の北には講堂と僧坊があり。これらの東には食堂(じきどう)があった...
COOLKARASU絵を鑑賞 | 2011.07.18 Mon 11:46
COOLKARASU絵の158番目のからすは大仏殿の左右に達している 東大寺の境内は平城京の外京の東端を区切る東七坊大路(現国道169号)を西端とし、西南部は興福寺の境内と接していた。 南大門を入って参道を進むと、正面に中門(南中門)、その先に大仏殿(正式には「金堂」)がある。中門からは東西に回廊が伸び、大仏殿の左右に達している。回廊は、現在は大仏殿の南側にしかないが、当初は北側にも回廊があり、回廊北面の中央には「北中門」があった。 南大門から中門への参道の東側には東大寺の...
COOLKARASU絵を鑑賞 | 2011.07.18 Mon 11:44
COOLKARASU絵の157番目のからすは露座のまま放置された 東大寺は、近隣の興福寺とともに治承4年12月28日(1181年1月15日)の平重衡の兵火で壊滅的な打撃(南都焼討)を受け、大仏殿をはじめとする多くの堂塔を失った。この時、大勧進職に任命され、大仏や諸堂の再興に当たったのが当時61歳の僧・俊乗坊重源であった。重源の精力的な活動により、文治元年(1185年)には後白河法皇らの列席のもと、大仏開眼法要が行われ、建久元年(1190年)には、再建大仏殿が完成、源頼朝らの列席のもと、落慶法要が営...
COOLKARASU絵を鑑賞 | 2011.07.18 Mon 11:42
全146件中 1 - 10 件表示 (1/15 ページ)