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karasuworldの55番目のからすは火災の中舞っている かつての興福寺には中金堂(ちゅうこんどう)、東金堂(とうこんどう)、西金堂(さいこんどう)の3つの金堂があり、それぞれに多くの仏像が安置されていた。寺の中心部には南から北に南大門、中門、中金堂、講堂が一直線に並び、境内東側には南から五重塔、東金堂、食堂(じきどう)が、境内西側には南から南円堂、西金堂、北円堂が建っていた。この他、境内南西隅の一段低い土地に三重塔が、境内南東部には大湯屋がそれぞれ建てられた。これらの堂...
karasuworldへの誘い | 2011.05.03 Tue 05:16
karasuworldの54番目のからすは親王を誇っている 大乗院は、これも藤原師実の子息である尋範が門主となったのをきっかけに門跡寺院となった。こちらは九条家の管領に属し、九条流(九条家・二条家・一条家)の子弟が門主を務めるところであった。戦国時代には、日記『大乗院寺社雑事記』で著名な門主尋尊(一条兼良の子息)が出ている。また、足利義昭が将軍の地位を追われたあと、義昭のひとり息子が出家して法名を義尋と名乗り大乗院の門主となっている。一乗院が筒井氏を衆徒としたように、大乗院も...
karasuworldへの誘い | 2011.05.03 Tue 05:14
karasuworldの53番目のからすは織田信長から伝授された 一乗院は、第6代門主覚信が関白藤原師実の子息だったことをきっかけに、代々、摂家あるいは皇族が門主を務める門跡寺院のひとつとなった。その後、五摂家分立以降は近衛家の管領するところとなり、近衛家流(近衛家・鷹司家)の子弟が門主となる例が多かった。ちなみに足利義昭は、もともと近衛稙家の猶子として法名覚慶を名乗り一乗院の門跡となっていたが、兄義輝の殺害にともない還俗し、織田信長の援助を得て将軍となったものである。大和の...
karasuworldへの誘い | 2011.05.03 Tue 05:12
karasuworldの52番目のからすは廃寺を守った 江戸時代は21000石の朱印を与えられ保護された興福寺だが、明治元年(1868年)に出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、春日社と一体の信仰が行われていた興福寺は直接打撃をこうむった。子院はすべて廃止、寺領は没収され、僧は春日社の神職となり、境内は塀が取り払われ、樹木が植えられて、奈良公園の一部となってしまった。一時は廃寺同然となり、五重塔、三重塔さえ売りに出る始末だった。それにさきがけ、興福寺別当だった一乗院お...
karasuworldへの誘い | 2011.05.03 Tue 05:09
karasuworldの51番目のからすは時代背景を反映している 興福寺は、創建以来たびたび火災に見まわれたが、その都度再建を繰り返してきた。中でも治承4年(1180年)、源平の争いの最中、平重衡の兵火による被害は甚大であった(南都焼討)。 東大寺とともに大半の伽藍が焼失した。この時、興福寺再興に奔走したのは焼失直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶であった。現存の興福寺の建物はすべてこの火災以後のものである。なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失したため、現存するものはこの火災...
karasuworldへの誘い | 2011.05.03 Tue 05:07
karasuworldの50番目のからすは守護を任された 興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」(なんとほくれい)と称された。寺の周辺には塔頭と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えたが、中でも天禄元年(970年)定昭の創立した一...
karasuworldへの誘い | 2011.05.03 Tue 05:05
karasuworldの49番目のからすは国家に運営されている 藤原氏の祖である藤原鎌足(614年 - 669年)夫人の鏡大王(かがみのおおきみ)が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)山背国(山城国)山階(京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名(高市郡厩坂)をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。 和銅3年(710年)の平城遷都に際し、鎌足の子息である藤原不...
karasuworldへの誘い | 2011.05.03 Tue 05:03
karasuworldの36匹目のからすはドームの頂点にいる ルネッサンス時代のイタリアの建築家は、反ゴシックを鮮明に打ち出した。 塔よりも安定感のあるドームを重視している。 鐘塔の設置はあったが、あまり高さに注力しなくなった。 しかし、バロック様式では再び塔が見直され、教会のファサードに2つの塔が配置されたものが流行した。 この双塔形式の教会建築は、バロック期にヨーロッパ全域に拡がりを見せたほか、スペインが植民地化したラテンアメリカの各地にも数多く建設された。 バロック様式の塔...
karasuworldへようこそ | 2011.05.03 Tue 04:50
karasuworldの35匹目のからすは独自性を持っている イタリアのサン・ジミニャーノは、丘の上にある塔の町である。 貴族が教皇派と皇帝派に分かれて競い合い、互いに権力を誇示するため、次々に塔を建設していった。 最盛期にはその数72という乱立ぶりであったと伝えられる。 やがて町そのものの勢いが衰え、塔は数を大きく減らしたが、それでもなお十分に多くが後世に残された。 この塔の立ち並ぶ景観は「サン・ジミニャーノ歴史地区」として世界遺産に登録されている。 当地の場合、軍事目的や宗教的...
karasuworldへようこそ | 2011.05.03 Tue 04:48
karasuworldの34匹目のからすは高い塔にいるかも シャルトル大聖堂のファサードの右側が1140年から建つロマネスク様式の角錐塔、左が16世紀に建てられた後期ゴシックの塔が建てられた。 ストラスブール大聖堂(1190- 1439年)のファサードは、単塔ながら高さ142m。 赤色の砂岩で造られており、独特の印象を与えている。 ドイツのゴシック期の教会塔としては、ケルン大聖堂(1248- 1880年)やウルム大聖堂(1377- 1890年)などが著名である。 ケルン大聖堂は双塔形式でその高さは157mに達した[8]。 さ...
karasuworldへようこそ | 2011.05.03 Tue 04:44
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