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JUGEMテーマ:八重の桜貧しい食生活、裁判の心労がたたっのか、尚之助は慢性肺炎を患い、3人目の身元引受人・根津親徳が東京医学校病院(現・東京大学病院)に入院させましたが、明治8年(1875)裁判中の東京で肺炎のため死去したとされています。 八重が、新島襄と婚約したのは、奇しくも尚之助の亡くなった年でした。 川崎尚之助の遺体は、身元引受人の根津親徳に引き取られ、東京都台東区今戸の称福寺に埋葬されといいます。 しかし、今では尚之助の墓の跡もなく、詳細は不明です。 逸話では、東京に尚之助がいる...
大河ドラマ「八重の桜」の舞台を訪ねて | 2013.08.15 Thu 14:33
JUGEMテーマ:八重の桜明治8年(1875年)、前年にアメリカより帰国した新島襄は、大阪の宣教師ゴードン宅に移住。 京都を訪れた襄は、ゴードンを通じて知り合った覚馬と教育論で意気投合します。 一方、八重は、英語と聖書を学ぶため、京都の木屋町に逗留していたゴードンの元を訪ね、ここで、新島襄と知り合います。 しかし、最初は、襄が靴磨きをしていたのを見て、ゴードンの使用人と勘違いしていたと。 ある夏の日、八重は兄の屋敷の庭で、井戸の上に戸板を渡し、縫物をしていました。この大胆な八重の姿に惹かれ...
大河ドラマ「八重の桜」の舞台を訪ねて | 2013.08.13 Tue 19:35
JUGEMテーマ:八重の桜明治4(1871)年、八重、母の佐久、みね(覚馬とうらの娘はともに米沢から京都の覚馬のもとに移住します。覚馬は、妻のうらと離婚。小田時栄の間に久栄が生まれ、覚馬と時栄は結婚します。同年、京都では日本最初の博覧会が西本願寺で行われました。明治5年3月(1872年)には、西本願寺・建仁寺・知恩院を会場として第一回京都博覧会「内国勧業博覧会を開催。外国人観光客もたくさん訪れました。覚馬は、日本で最初の英文ガイドブックを著しました。そして、印刷の際、英語の印字を拾ったのが八重だったそうです。...
大河ドラマ「八重の桜」の舞台を訪ねて | 2013.08.13 Tue 19:35
JUGEMテーマ:八重の桜京都市バス河原町二条より200メートルほどのところに、舎密局跡があります。明治2年(1869年)に大阪、翌明治3年(1870年)に京都にそれぞれ設置され、前者を「大阪舎密局」、後者を「京都舎密局」といいます。京都府顧問となった山本覚馬は、理化学・工業技術の研究・普及を目的とした施設を立ち上げるため、自分の洋学所に通っていた明石博高(ひろたか)を迎え、京都の近代産業を担う人材を育成しました。ビール・ガラス・石けんなどの製造研究、多くの技術者を養成しましたが、1881年(明治14)勧業政策転換...
大河ドラマ「八重の桜」の舞台を訪ねて | 2013.08.13 Tue 00:50
JUGEMテーマ:八重の桜「八重の桜」舞台は東北から京都へ。ドラマに合わせて、今日から京都編をスタートします。薩摩藩邸に幽閉されていた山本覚馬は、新政府首脳陣・西郷隆盛や岩倉具視らにより建白書「管見」を高く評価され、釈放。明治3年(1870年)、京都府顧問として登用されました。この頃、権大参事として府政の実権を握っていた槇村正直の顧問として、小中学校・女学校・病院・医学校などの設立に尽力し、京都鉄道の敷設願書を当局に提出するなど、京都の近代化に貢献しました。当時、覚馬は、槇村正直の屋敷の隣りに住んでい...
大河ドラマ「八重の桜」の舞台を訪ねて | 2013.08.10 Sat 22:25
JUGEMテーマ:八重の桜青森県三沢市に「斗南藩記念観光村」(道の駅みさわ)があります。 明治4年(1871)、新政府によって廃藩置県が行われ、斗南藩は斗南県となり、やがて青森県に合併しました。翌年の明治5年(1872)、旧斗南藩士・廣澤安任(ひろさわやすとう)と旧八戸藩士・太田広城(おおたひろき)は、イギリス人のルセ−とマキノンを招いて開牧社という会社を作り、牧場を開きました。これが日本初の近代洋式牧場の始まりで、我が国の畜産業界に大きく貢献しました。「斗南藩記念観光村」のオープンフィールドには、当時の牧場の...
大河ドラマ「八重の桜」の舞台を訪ねて | 2013.08.08 Thu 21:58
JUGEMテーマ:八重の桜斗南ヶ丘のすぐ近くの小高い丘に、旧斗南藩士のお墓があります。 明治元年9月、朝敵の汚名を着せられたまま廃藩となった会津藩は、翌明治2年9月、太政官より家名再興の沙汰をいただき、同年11月、松平容大公(数え年2歳)をもって陸奥国禄高3万石の立藩が許されました。しかし豊かな会津盆地で生まれ育った人々には、斗南の地はあまりに過酷でみちのくの斗南のいかにと人問はば 神代のままの国と答えよ 斗南藩権大参事 山川浩と言わしめたほどでした。開拓に夢を託した藩士達もその過酷さに耐え切れず...
大河ドラマ「八重の桜」の舞台を訪ねて | 2013.08.06 Tue 16:35
JUGEMテーマ:八重の桜斗南藩が、領内開拓の拠点となることを夢見て市街地を建設し、「斗南ヶ丘」と名付けた場所があります。いかし夢ははかなく消えて今はその姿を留めていませんが、その跡地が「斗南藩史跡地」として残っています。同じ場所に「秩父宮両殿下御成記念碑」があるので、この地図には「秩父宮両殿下御成記念碑」と書かれています。明治3年、斗南藩はこの地に斗南ヶ丘と名付けた市街地を計画し、一戸建て約30棟と二戸建約80棟を建てました。東西には大門があり、18ヶ所の井戸も掘られました。市街地は、一番町から六番町...
大河ドラマ「八重の桜」の舞台を訪ねて | 2013.08.04 Sun 19:24
JUGEMテーマ:八重の桜斗南藩の藩庁が置かれた「円通寺」のすぐ近くに、藩主・松平容大公の食事や遊びの場となったという「徳玄寺」があります。徳玄寺山門斗南開発の館ここ徳玄寺は藩主松平容大公の食事や遊びの際に使用された場所です。当時の容大公は数え年3歳ではありましたが移住藩士達を激励する為に、各地を回村するなど、新天地開発に励む人々の大きな心の支えとなったのでした。またここは重臣の会議場でもあり、様々な施策についての論議が重ねられた所でもありました。東北の長崎を目指した大湊の開港や種々の産業開発など...
大河ドラマ「八重の桜」の舞台を訪ねて | 2013.08.01 Thu 19:06
JUGEMテーマ:八重の桜次に行ったのは、斗南藩の藩庁が置かれた「円通寺」です。円通寺。むつ市新町4-11斗南藩史蹟地 円通寺明治維新は会津藩にとって、まさに動乱の時代でした。朝敵の汚名を着せられたまま廃藩となった会津藩は、翌明治2年9月、全国唯一の移封処分を受け最花の地へ挙藩、流罪となったのです。ここ円通寺は明治4年2月18日、数え年3歳の松平容大公を藩主に迎え、斗南藩の仮館として藩庁が置かれた場所で、容保公、容大公が起居をともにされました。現在も容大公愛玩の布袋像などが保存されています。また同時に田名部...
大河ドラマ「八重の桜」の舞台を訪ねて | 2013.07.30 Tue 22:17
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