“神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。” (?ヨハネ5:3-4) 私たちは、誰しも主に従って歩みたいと願っています、そのため、職場や近隣などで、嫌な相手と遭遇すると「愛さなくては、受け入れなくては」と思うのです。それは嫌いになったり、憎んだりすると平安が失せて気持ちが辛くなるので、余計に愛さなくてはと頑張るので...
ぶどうの木 | 2019.05.01 Wed 08:01
“そして子供の手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。それは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。” (マルコ5:41) ヤイロの娘が危篤に陥り、どんな医者でもだめだでした。ヤイロは、主なら必ず癒して下さると信じたので、遠距離を急ぎやって来て、娘が死にかけているので来て欲しいと主にひれ伏し必死に願いましたので、主は共に出かけられました。しかし一刻をも争う、心は焦る時に妨げが入り、長血の女性が癒しを求めて来たのでした。 主は、その女性を受け止め、対応され手間...
ぶどうの木 | 2019.04.30 Tue 08:05
“イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。” (ヨハネ21:12) ペテロは、主を呪いをかけてまで否み、裏切るという罪を犯してしまいました。主からガリラヤに行くよう伝えられ、故郷に戻ったペテロは、主にどのような顔で会えばよいのか、合わせる顔がない、自分はもう弟子失格で、心はどれだけ重いものだったことでしょうか。何もなすすべなく自分に出来ることは、漁しかありませんで...
ぶどうの木 | 2019.04.29 Mon 10:22
“そこでエリヤは恐れて、自分の命を救うために立って逃げ、ユダに属するベエルシバへ行って、しもべをそこに残し、 自分は一日の道のりほど荒野にはいって行って、れだまの木の下に座し、自分の死を求めて言った、「主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。” (?列王19:3-4) エリヤはバアルとの戦いで、大勝利を遂げました。しかし、怒ったイゼベルはエリヤ殺害命令を下しました。するとその途端、エリヤは恐怖の余り逃亡し、死を願ったのでし...
ぶどうの木 | 2019.04.28 Sun 05:42
JUGEMテーマ:~癒し~ 無料ヒーリングの記事はこちらです。 必要な方は上記記事をご参照ください 当HPは、下記の期間中お休みをいただきます。 4月29日(月)から5月2日(木)まで 該当期間中も、通常通りお好きな時にいつでも ご連絡をいただくことができますが、 お返事はのんびりめです 当HPのお返事は1日~最長9日ですから、 あまり影響はないかもしれませんが、該当期間中の リアルタイムでのセッションはお受けできません。 連休中のご予約については個別にご相談ください。 通常時よりもPC...
Clearness Work ~Happiness blog of the Attunements~ | 2019.04.27 Sat 09:26
“感謝のいけにえをささげる者はわたしをあがめる。自分のおこないを慎む者にはわたしは神の救を示す」(詩篇50:23) ジョニーという女性の証しですが、彼女は、水泳の飛び込みに失敗し、脊髄を損傷し何とか命だけは取りとめました。しかし身体は一生涯、動かないとの宣告を受けた時に、絶望のどん底に陥り、死を求めました。 「鏡に映る姿はとても人間ではない。窪んで落ち込んだ2つの眼球は、血走ってどんよりしていた。36キロの身体は、黄疸で黄色い皮膚に覆われた、がい骨だ。不気味に太った頭、歯...
ぶどうの木 | 2019.04.26 Fri 15:32
“子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。” (?ヨハネ3:18) 困っている人や助けを求める人に対して、私たちはどのように向き合っているでしょうか。良きサマリヤ人の箇所の祭司やレビ人のように、関わるのが嫌で逃げてしまうでしょうか。時間を取られたくない、予定外の仕事が入るのが面倒で、労力も経済的犠牲も払いたくないと思うでしょうか。しかし「困っている者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼ぶ時に答えられない」とあります。 ...
ぶどうの木 | 2019.04.25 Thu 07:48
“イエスはこの盲人の手をとって、村の外に連れ出し、その両方の目につばきをつけ、両手を彼に当てて、「何か見えるか」と尋ねられた。すると彼は顔を上げて言った、「人が見えます。木のように見えます。歩いているようです」。” (マルコ8:23-24) ベッサイダで、人々が盲人を連れて来て、主に触って下さるよう願いました。すると主は、盲人の両眼につばをつけ、両手を彼に当てられました。「何か見えるか」と問われると、彼は「人が見え、木のようだが、歩いているのが見える」と言いました。見えるのですが、はっきり...
ぶどうの木 | 2019.04.23 Tue 10:32
“モーセは会見の幕屋に、はいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。” (出エジプト40:35) 出エジプト記は、ヨセフを知らない新しい王が、民を苦しめるところから始まります。民は苦役にうめき、叫び、その苦しみの叫びは神に届き、そして記事の最後は「主の栄光が幕屋に満ちた」で終わっています。 「わたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む」主は、幕屋を作るように命じられました。それはアロンとアロンの子たちを祭司と...
ぶどうの木 | 2019.04.23 Tue 08:00
“イエスは彼らに言われた、「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」。” (マルコ4:40) 夕刻になって、主は「向こう岸に渡ろう」と言われました。舟に乗り込むや、主はとものほうで熟睡されました。その時に、大嵐に会い、弟子たちは右往左往、パニックに陥りました。舟は波をかぶり、水で溢れ、このまま行けば沈没し、自分たちは溺れ死んでしまう、嵐も慣れているであろうベテラン漁師たちが身の危険を感じるほどの大嵐でした。しかし主はそのような中、全き平安の中で安心して眠り続けておら...
ぶどうの木 | 2019.04.22 Mon 10:33
全1000件中 641 - 650 件表示 (65/100 ページ)