[pear_error: message="Success" code=0 mode=return level=notice prefix="" info=""]
温かに洋傘の尖もてうち散らす毛莨こそ春はかなしき 『桐の花』 毛莨(きんぽうげ)の黄色い花のあたたかな解放感が、作者の鬱屈と交じり合うとき、きれいな毒でもまき散らしているような不穏な春のかなしさに変容する。 作者の「洋傘(かさ)の尖(さき)」に触れるものはみな毒となり、きんぽうげの花もまた毒となってうち散らされて、人は誰も毒に触れたことさえ知らぬうちに、世界はかなしき春が支配する。 そのような魔術として文学を飼っている男の不幸が滲む。 JUGEMテーマ:批評
星辰 Sei-shin | 2021.09.08 Wed 13:00
寂しさに赤き硝子を透かし見つちらちらと雪のふりしきる見ゆ 『桐の花』 このときまで赤い雪が詠まれたことがあったろうか。 赤い硝子越しに見る雪だから、作者の目には赤い雪となって見えているはずである。 しかし読者には、作者の見る赤い雪と、硝子の外にふりしきる白い雪とが、二重に感受されている。 作者のこころにも実は二重性がひそんでいて、まっすぐに純白の雪に抒情を託すことができない寂しさに、ことさらに赤い硝子を透かして「白い雪」と己れとの距離をわが目に刻印するかのようだ。 ...
星辰 Sei-shin | 2021.08.13 Fri 12:51
さいかちの青さいかちの実となりて鳴りてさやげば雪ふりきたる 『桐の花』 〈雪〉がどこからやってくるのか、というその源を、白秋は己れの魂の象徴としての、やや異形性のある「さいかち」の木の実に設定してみせる。 マメ科の巨木でトゲだらけの「さいかち」の実になって鳴りさやぐならば、雪がふり来たるのだという。 「さいかちの実」への過剰な感情移入が、リズミカルにたたみかける自然な音楽性となって雪を降らせるまでの抒情の流れはダイナミックで切迫感がある。 安定感のある世界に包まれた...
星辰 Sei-shin | 2021.08.12 Thu 13:51
篤胤神学の吸引力 以上、『古史伝』における二つの例を取り上げてみたが、『仙境異聞』に認められる、篤胤の客観的で写実的な、とらわれのない、冷静な記述態度を思い起こすなら、こういう彼の「神学的こじつけ」の非合理性は、なんとも異様というほかはない。 しかし、それにもかかわらず、この手の篤胤の論法は、何百人にも及ぶ彼の門人たちに受け容れられ、その中には、例えば、先にふれた佐藤信淵のような博学多才の士や、空気銃と反射望遠鏡を製作し、太陽黒点の連続観測を行なった、優れた科学技術者である国友能当(...
星辰 Sei-shin | 2021.04.26 Mon 12:41
神学的こじつけの異様さ 篤胤は、初期の著作である『新鬼神論』において、「鬼神を信ずること」は、人情の自然であって、いかなる聖人・賢者であっても、この点では、一般庶人と変わらないと主張している。 したがって、わが国古来の、日本人としての、鬼神への〈信仰〉の形を学問的に正しく究明・復元できれば、それこそが、私たちにとっての「安心立命の根拠」となるはずであって、それは、「漢意(からごころ)」(外来思想)に毒されていない「記紀神話」を「正しく読み解く」ことによって初めて可能となるのだ、と篤...
星辰 Sei-shin | 2021.04.24 Sat 13:11
篤胤神学の方法的破綻 しかし、平田篤胤は、宣長の神話解釈が知的なパフォーマンスにすぎなかったことを、見抜けなかった。 宣長と同様に、〈知〉に回収することなど決してできようのない、広大な存在の神秘への〈畏怖〉の心をもちながらも、篤胤は、敢えて、宣長とは逆に、その不可知な〈闇〉の領域を、尊大にも観念的な〈知〉の体系に包摂しうるとみなし、そのシステム構築のために、生涯の精力のほとんどすべてを捧げたのである。 『仙境異聞』のような例外的な聞き書きの書を別とすれば、平田篤胤の神学的著作が...
星辰 Sei-shin | 2021.04.23 Fri 11:59
パフォーマンスとしての神話解釈 本居宣長の不可知論は、一面では、あらゆる宗教的・形而上学的な〈信〉の体系を解体しようとする姿勢において、まぎれもなく近代主義的な性格をもつが、他方では、その解体を通して立ち現われてくる存在の神秘への畏怖感のかたちにおいて、現代人のような、近代科学的な知によって意識を狭隘(きょうあい)に限定された、寒々とした尊大さを感じさせない。 平田篤胤の『仙境異聞』の空気感にも一脈通ずる、近代初発期(アーリィ・モダン)の良さが認められるのである。 宣長にとって...
星辰 Sei-shin | 2021.04.21 Wed 12:43
宣長の不可知論 「漢意(からごころ)とは、漢国(からくに)のふりを好み、かの国を貴(とうと)ぶのみを言ふにあらず、大(おお)かた世の人の、万(よろず)の事の善悪是非(よさあしさ)を論(あげつら)ひ、物の理(ことわり)をさだめ言ふ類(たぐい)、すべてみな漢籍(からぶみ)の趣(おもむき)なるを言ふ也、さるは漢籍を読みたる人のみ、然(しか)るにはあらず、書といふ物一つも見たることなき者までも、同じこと也、そも漢籍を読まぬ人は、さる心にはあるまじきわざなれども、何わざも漢国をよしとして、かれを学...
星辰 Sei-shin | 2021.04.20 Tue 11:39
本居宣長の脱構築的姿勢 平田篤胤の学問が、人々に狂気じみた異様な印象を与えるのは、ひとつには、彼が、『古事記』や『日本書紀』、「祝詞(のりと)」に描かれたような神話の世界を、虚構の物語や、〈比喩〉の対象とみなさずに、そのまま額面通りの〈真実〉=史実として受容していたからである。 国学者・本居宣長とその没後の門人・平田篤胤の生きた十八世紀から十九世紀前半にかけての江戸後期社会は、十七世紀以来の農業生産力の上昇と技術革新、全国的な商業流通網の形成を背景とする、貨幣経済の発展の中で、人々...
星辰 Sei-shin | 2021.04.19 Mon 11:56
知識へのすり替え 不幸なことに、平田篤胤は、四次元的な〈闇〉の世界にひらかれた、己れのその〈身体性〉のゆたかさを、観念的な神学体系の内に、知識的に封じ込めようとした。 そこに、学問的には、恣意的で狂気じみた〈偏執〉としか言いようのない特質、幕末水戸学のリーダー藤田東湖をして、「牢固(ろうこ)」たる「奇僻(きへき)の見(けん)」、「其性妄誕(そのせいもうたん)」(でたらめな説を弄する性向)と言わしめた独特の異様さが立ち現われてくることになる。 篤胤は、冷静な文体で書かれた『仙境異...
星辰 Sei-shin | 2021.04.18 Sun 11:52
全101件中 11 - 20 件表示 (2/11 ページ)