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〈自分〉が痛むとき? 学生たちの作品における〈自分〉の痛みは、「なぜ自分だけがこんなおもいを抱えているのか」といった問いというよりは、誰だって痛みは抱えているだろうけれども、決して共有などできないのだ、伝わることはないのだ、といった関係全般の不毛性の喩のように感じられる。関係とは不毛なものだ、世界は自分と他者とを繋いではいない、という風景を生きている。そこで発せられる個人の〈痛み〉は、掘り下げても掘り下げても類的な貌にはならない、という意味でのみ、〈現在〉という時代の...
星辰 Sei-shin | 2017.12.27 Wed 12:10
4 実朝の敬神崇仏の念の厚さや朝廷への赤心の根底には、魂の穏やかさと静謐(せいひつ)さをなによりも重んずる、融和的な世界視線が息づいていたようにおもえる。 それは、彼の和歌をよく味わってみればわかることだが、太宰治の描く実朝像では、詩歌・管弦や宴を楽しみ、〈軽さ〉や〈笑い〉を好む日常の暮らしぶりに表われている。 『右大臣実朝』には、琵琶法師の『平家物語』の語りに好んで耳を傾ける将軍の姿が活写されている。ここでの実朝は、太宰治自身とそのまま重ね合わせら...
星辰 Sei-shin | 2017.12.26 Tue 15:40
毎年、夏と冬に「霧芯館KJ法ワークショップ」を開催しておりますが、ここで提示された参加者のみなさんのラベルは、私の中で繰り返しシンボリックに顕ち上がってきます。 これまで、「〈かくれんぼ〉ができない私たち」「変容の本質―現場が変わる瞬間―」「“寄り添い”の哲学」「〈リアル〉の手触り」「〈闇〉の居場所」「〈初対面〉のラビリンス」そして今年は「〈違い〉がわかる瞬間」といったテーマで取り組んでまいりました。 夏に「パルス討論」というディスカッションによって提示されたラベ...
川喜田晶子KJ法blog | 2017.11.30 Thu 13:16
3 実朝の生活者としての持ちこたえ方のかたちは、こういう義時の視線とは全く対照的である。 彼もまた、義時と同じく、周囲の人間たちから疎隔された場所にあるといっていいのだが、その孤独さの〈かたち〉は似ても似つかないものだ。 このあまりにも柔らかい繊細な皮膚感覚をもつ青年は、己れとは無縁の、生臭いタフな生活力をもつ人々や権力の亡者や鈍感な小心翼々とした官僚的気質の連中の中に、ひとりぽつんと孤独に置かれている。 決して、自分自身の場所を他人に「押しつけ...
星辰 Sei-shin | 2017.11.25 Sat 17:50
2 先の引用でもうひとつ興味深いのは、母の尼御台政子と実朝の、恐ろしいほどの視線の〈隔絶〉である。 天上的な次元から、己れ自身も含めたこの世の人々の身体を静かに「見おろしている」かのような実朝とは対照的に、政子は、徹頭徹尾、地上的な視線に身を置いている。政子の眼が象徴するものは、生臭い酷薄な実人生の諸相や醜部を平然と直視し、リアルに生き抜ける人間たちの世界だといっていい。 実朝は、こういう人間たちのただ中にひとりでぽつんと置かれている。彼の魂を知る者...
星辰 Sei-shin | 2017.10.28 Sat 22:16
*この「『右大臣実朝』と宿命」は、「1999年・春」に発行された「星辰」第二号に掲載されたものである。すでに、「『中期』太宰治の変容」の初めにも断ったように、旧「星辰」誌上においては、「太宰治と〈悪〉」という統一タイトルのもとに組まれた連載評論の「第二回目」として発表された。これから、その内容を五回に分けて再掲してゆく予定である。「『中期』太宰治の変容」と併せて味読いただければ、本望である。(二〇一七年九月 筆者) 1 『右大臣実朝』は美しい小説である...
星辰 Sei-shin | 2017.09.29 Fri 21:37
歪む世界? 学生たちにとって、表現の原点となり、起爆剤となっているのは、自分の存在を肯定する難しさであるようだ。〈個〉を超えたものに存在を支えられているという安らぎからの遠さを、明晰に見極めた表現が繰り出されてゆく。 ラッシュ時の改札 Y・R 慈悲はいらない 慈悲は私を脱落させ 慈悲は私を焦らせ 慈悲は私を敗者にする 敗者は時を奪われ 勝者は時を制す ほんの些細な出来事だろうか されどこれも一つの世界 時を懸けたシビ...
星辰 Sei-shin | 2017.07.22 Sat 16:24
5 しかし、昭和十六年の『新ハムレット』になると、すでに、太宰の生活思想には、重大なほころびが顕われ始める。 ハムレットの、「言葉」にのみ「真実」を認め、言葉の無いところには真の「愛」も無いとする理念は、「前期」太宰の〈関係の障害感〉と表裏する芸術至上主義的理念と同じものであり、実生活と表現の〈均衡〉の崩れが明瞭に見てとれるのである。 「愛は言葉だ。言葉が無くなれや、同時にこの世の中に、愛情も無くなるんだ。愛が言葉以外に、実体として何かあると思って...
星辰 Sei-shin | 2017.07.21 Fri 18:20
「ギャップ萌え」という言葉があるようです。 一人の人物が、両極端な要素を抱え持っていたり、意外な変貌ぶりを見せたりする。そういう人物やドラマのキャラに「萌え」ることを言うようで、ドラマの登場人物の中に、役者さんの日常の素顔に、恋愛を上手に進めるテクニックに、と、いたるところにこの「ギャップ萌え」が求められたり、意識的に演出されたりしているようです。 もはやステレオタイプ化している「ツンデレ」をはじめ、男性的な人物の中の女性性、悪党の中の良心、大人の中の幼児性、現実主義者の中のロマン...
川喜田晶子KJ法blog | 2017.06.30 Fri 17:28
4 ただし、このような太宰の実生活と表現の〈均衡〉に、危うさと不安定さがあったことは否めない。 彼の希求する文学のもつ〈関係への渇き〉(及び、それと裏返しの関係にある〈生得的な障害感〉)の激しさは、彼自身の生きざま(実生活)を、絶えず〈言葉〉と〈行為〉において塗り変え、家族的な〈物語〉を繊細に紡ぎ、支える基盤となったばかりではなく、自身の周囲を超えて、広く世間へ、社会へと広がろうとする。 自身と家族とを大海の塵のような心細さに追い込み、翻弄する、得体...
星辰 Sei-shin | 2017.06.26 Mon 16:06
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